『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』(ボニー・ヒューレット 著/服部志帆、大石高典、戸田美佳子 訳)刊行特集ページを公開しました。ぜひ本と合わせてお読みください。
女は文化なのか? 自然なのか?――語りからさぐる人類社会の多様性と普遍性(前半)
女は文化なのか? 自然なのか?――語りからさぐる人類社会の多様性と普遍性(後半)
『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』(ボニー・ヒューレット 著/服部志帆、大石高典、戸田美佳子 訳)刊行特集ページを公開しました。ぜひ本と合わせてお読みください。
女は文化なのか? 自然なのか?――語りからさぐる人類社会の多様性と普遍性(前半)
女は文化なのか? 自然なのか?――語りからさぐる人類社会の多様性と普遍性(後半)
前半に引き続き、ボニー・ヒューレット著『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』(原題Listen, Here Is a Story)の訳書刊行を記念して訳者3人にお話をうかがいました。
最大の特色は、「森」の女性たちによる語りです。女性たちは、子ども期から老齢期まで、さまざまなプライベートな話をじつに詳細に語っています。たとえば性生活についてもこんなふうに。
とくに最初,赤ちゃんに成長をもたらすのは男なんだ.だから赤ちゃんがかなり大きくなる6か月くらいまでは毎晩2回セックスを続ける必要がある.それから後は,一晩に1回にペースダウンしないといけない.(本書、p.202)
このような率直で赤裸々な語りは、著者自身がまず女性たちのほうから投げかけられるプライベートな質問に臆することなく答え、信頼関係を築いてきたからこそ可能になったものでしょう。また、著者は人類学の研究を始める前に看護師として出産と育児のサポートをしていたので、プライベートな質問をすることに対する躊躇や照れなどが少なかったのかもしれません。いずれにせよ、著者の経歴や人柄のたまものです。聞き取りの手法や研究対象との関わり方について、訳しながら学ぶことがたくさんありました。
私たちもカメルーン東南部で現地調査をしてきましたが、性に関する質問を詳細に聞き込むことは難しいです。調査者が男性の場合には女性に性に関わる話を聞くことは気が引けますし、同性でもプライベートな話題は勇気がいります。著者のように自分のこともさらけ出さないといけないからです。
戸田 私は、「生理のときどうしているの?」と聞かれてはぐらかしてしまったことがあります。手持ちの生理ナプキンが残りわずかだったので、ナプキンを使っていることを話したらちょうだいと言われるかなと思って。
「はじめに」の、「カブトムシの幼虫のような大きなイモムシ」(本書、p.26)を著者が 無理やり飲み込むところは、訳者一同非常に共感しながら読みました。著者も述べているように、人類学者は研究対象と信頼関係を築き、これを土台として調査を進めていきます。相手の文化を尊重し受け入れるのは、人類学者として非常に重要な倫理ですし、友人として受け入れられ一緒に生活していくために必要なことでもあります。
ただ、人類学者自身もこれまで自文化のなかで学習してきているために、どうしても食べられないものもあります。ストレスをため込んで心身に不調が出ると困るので、学生には、どうしても無理な場合は断っていいと言っています。
服部 私の場合、食べなかったものはありません。イモムシもヘビもカメも出されるものはすべて食べました。ただ、イモムシを初めて食べるときはやっぱり苦労しました。
著者が無理やり飲み込んだものと同じだと思われる、油ヤシにつくゾウムシの幼虫を茹でたものを食べたときのことは忘れられません。平静を装い口の中に入れ、勇気を出して噛んだときに、幼虫の頭部が歯に挟まりました。なんとか手で歯から取り出したものの、今度はそれが飲み込めなくて……。今から思うと、著者のように一気に飲み込んだらよかったのかもしれません。味はかなり美味しかったです。ただ文化の壁というのはなかなか越えがたいもので、フィールドで出されたら食べますが、自分から積極的に食べようという気持ちにはまだなれません。
大石 私が咀嚼しにくかったのは、ゴリラの肉でした。狩猟ではありません。ゴリラは絶滅危惧種で狩猟は禁じられており、タブーのために食べない人も多い動物です。しかしあるとき、森でキャンプに滞在していたら、ひょんなこと(川から溺れて死んだ新鮮なゴリラが流れてきた)でゴリラの肉が手に入ったので解体から見ていました。
まず体毛を焚火で焦がして除いていましたが、その焦げる匂いが自分自身の髪の毛が燃えるのと同じように感じられました。鍋で肉を煮ている間も、他の動物の肉はだいたい「いい匂いだな」って思うのですが、そのとき鍋の中で脂肪が溶ける匂いはそう思えませんでした。さあ食べるぞと言われて、無理やり口に入れようとしましたけど、ほとんど喉を通らなかったことを記憶しています。
戸田 私は、毛をしっかり炒めて調理するケムシも味があって美味しかったです。しかし、どうしても食べなかったものがあります。
農耕民の家に一緒に暮らしていたころ、ネコが一匹いました。毎日残りのおかずを与えて、子どもたちも私もすごく可愛がっていました(多分)。ネコは私たちの役にも立ちます。家の中に食事があるとネズミがやって来て、そのネズミを餌に次にヘビがやって来てしまいとても危険ですが、そのネズミをやっつけてくれるのです。私は寝ている間にネズミに足の指を噛まれたこともあり、ネズミが怖かったので、ネコはヒーローでした。でもあるとき、ストックの獣肉をそのネコが食べてしまうことが続きました。そしたらネコがいなくなって……シチューの具になっていたときは言葉を失いました。
この本には、たくさんの森の食物が出てきます。編集担当の櫛谷さんはアフリカ未経験だったと思いますが、編集されるなかで本書に出てくる動植物で食べてみたくなったものはありますか?
服部 美味しいですよ。私は生肉は食べたことがありませんが、燻製されたものを何度も食べたことがあります。これをキャッサバの葉やヤシ油といっしょに煮込んだものを食べました。自分でも、玉ねぎといっしょに煮てスープを作ったことがあります。
大石 私もおすそ分けでいただいたことがありますが、とにかく量が多い。おしりの肉の燻製だったと思いますが、とても良いだしがとれてうどんにしたことがあります。鼻はチューインガムのようで噛んでも噛んでもかみ切れない感じでした。
一般的な学術書では章の終わりに著者によってまとめと考察が述べられますが、解説者の竹ノ下博士が指摘されているように、「著者は,読者にアカやンガンドゥのことを『教えない』」(本書、p.403)という実験的なスタイルをとっています。本書で著者は、さまざまな理論を用いて考察を行っていますが、アカやンガンドゥの女性たちの語りをまとめることも、これをもとに彼女たちの社会の特性や人類社会の普遍性を総括して論じることもしていません。本書で行われていないまとめや考察は読者に委ねられており、「考察のための問い」はそのための導入となっています。
読者のなかには、一般的ではない本書のスタイルに戸惑われる方や、手抜きだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、訳者は著者の勇気のある試みをポジティブに評価しています。「アフリカの森の女たち」のステレオタイプ化を危惧する著者があえてまとめを避け、自由に考え感じる窓口を読者に開くやり方は、異文化理解に関して有効な一つの方法に思えるからです。
著者は、とくにアカ社会で重視されている自律性の尊重や「シェアリング」の信念を、読者にまで広げているのかもしれません。「考察のための問い」を皮切りにして、読者の皆さんは日本社会に暮らす自身の経験や価値観と比較し、人類社会の特殊性や普遍性について探求していただければと思います。
訳者三人は全員、中央アフリカ共和国での調査経験はありませんが、近隣のカメルーンやコンゴ共和国において長期間にわたる調査経験があります。これらを存分に生かす形で日本語版を手がけました。
まず克服しないといけないと思ったのが、本書の特徴のひとつでもある理論の難しさです。文化人類学に加えて発達心理学や進化生物学、進化心理学から理論が紹介され、訳書のサブタイトルにもあるように「文化・進化・発達」の面から女性たちの語りを補足しています。これらの理論については文献を調べながら用語解説を付け、読みやすくなるように工夫をしました。
たとえば第6章には「祖母仮説」という進化生物学の仮説が登場します。ヒトの女性には閉経があり、直接は生殖活動を行わない閉経後の人生が数十年に及びます。これはチンパンジーなどの類人猿をはじめ、ほかの動物には見られない特性です。この仮説は、なぜ人類が進化の過程で閉経後の長い人生を獲得してきたのかを、祖母の役割から考えようとするものです。
理論の記述は女性たちの語りに比べて難しいかもしれませんが、私たち人間のあり方について新しい視点をもたらしてくれるはずです。ぜひ、用語解説を読んでいただき、本書の理解を進めていってもらえたらと思います。
中部アフリカや南部アフリカでフィールドワークを行っている研究仲間に、各章末のコラムと全体の解説をお願いしました。コラムは、アフリカ農村での健康調査の実際や、洋服が「森」の世界に入ってきたときの人々の反応など、執筆者がそれぞれの研究テーマや経験から魅力的な文章を寄せてくださり、本書全体に広がりと深みが出たと思います。
南部アフリカで狩猟採集民サンの研究をされている高田明博士と中部アフリカでゴリラとチンパンジーの研究をされている霊長類学者の竹ノ下祐二博士にお願いした解説(巻末に収載)は、最初に読んでいただければと思います。学問的刺激に満ちた羅針盤によって本書が読みやすくなり、理解がさらに増すはずです。
さらに、大学の授業での教科書として使用することや、人類学や中部アフリカについてあまり知らない読者が読むことを念頭に置き、訳注を充実させました。訳注では日本の読者にとって耳慣れない言葉や熱帯雨林の動植物について説明しているほか、文献も紹介しているので、詳細について知りたい方はぜひ紐といてください。章ごとに日本語のおすすめ本も載せてありますので、そちらも参考にしていただけたらと思います。
服部 本書に登場する「アフリカの森の女たち」は、それぞれの人生における悲哀や怒り、そして喜びを堂々と素直に語っています。この迷いのなさが、彼女たちの語りと生き方に見られるまぎれもない魅力です。語り手と著者、そして語り手と読者の間には、1ミリの隔たりもありません。女性たちの生々しい語りに、驚き、笑い、戸惑い、反発し、共感し、読者の感情は揺さぶられるでしょう。その揺さぶりから、現代日本の社会に暮らす自分自身の生き方や価値観を相対化し、自分たちの生きている世界や人類について見つめなおしていただけたらこんなうれしいことはありません。
また、理論の説明は翻訳のなかで最も難しい作業でしたが、炎のように燃える女性たちの肉声に対して、理論にはそれをしずめる水のような働きがあるように思います。理論は研究を方向づけ、問いと理解を深めるとともに、人類の普遍性という豊かな学問的テーマへ私たちをいざなってくれます。本書をきっかけに理論についても関心を持つ人が増えるとうれしいです。
大石 この本は、ジェンダーやセクシュアリティについて、肩ひじを張って論じられている本ではありません。ブロンディーヌ、テレーズ、ナリ、コンガという4人の女性のごく個人的な経験のほかに、日本に暮らしていては想像すらもできないようなたくさんの「お話」が彼女たちの語り口のままに入っています。
翻訳する前に、勤務先の大学の授業で原著を学部生たちと読みましたが、毎回そんなお話の部分で盛り上がりました。「そんなことがあるの?」「これ、私は絶対無理!」といった違和感もあれば、「あー、これよくわかる」とか「よく言ってくれた」といった反応もありました。日本の日常生活では、たとえば生理やセックスのこと、妊娠と出産のことは大事なことだけれど、なかなか話しにくいものだと思います。男女間であればなおさら、特に男からはなかなか怖くて話題にしにくいかもしれません。しかし、テレーズやナリたちのお話を媒介にすると、あら不思議。思いがけないディスカッションや対話に発展することがたびたびでした。
私たちもまた、ジェンダーや性に悩み喜ぶヒトであること。この本を読みながら、そのことについて考え、身近な仲間と語り合ってほしいと思います。そうすることで、アフリカのどこか遠くの国の森の奥に住んでいる4人の女性の生きる世界が、ぐっと身近に感じられることでしょう。
戸田 アフリカの密林に暮らす女性たちのエキゾチックな世界を知りたいと、本書を手に取ってくれる人が多いのかもしれません。イモムシを食べたり、邪術を信じたりする登場人物たちは、一見すると日本に暮らす私たちとは全く異なります。
人類学者である著者は好奇心に素直な一方で、こうした物語がステレオタイプや偏見を生み出してしまうことに注意深くもあります。冒頭で著者は、ナイジェリア人小説家のチママンダ・アディーチェの言葉である「シングルストーリーの危険性」を用いて、一つ(一人)の物語が強調されることでステレオタイプが生み出されると言っています。そこで本書では複数の女性による誕生から死を迎えるまでの人生の断片が語りとして描き出されています。
私自身、子ども期に登場するバナナの赤ちゃんのお話しは自分の小さかった頃の記憶が蘇り、思春期の戸惑いや死別の痛みに共感する一方で、夫への献身や辛い性生活の中で母として生きること、年老いるのは悪くないと語れる気持ちはまだわかりません。だからこそ本書を読んで、年を重ねることが楽しみになりました。本書で描かれるのは彼女/彼たちの日常ですが、そこには生とは? 死とは? 愛とは? そして人間性とは何かを考えるきっかけがあります。
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『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』
ボニー・ヒューレット(著)/服部志帆、大石高典、戸田美佳子(訳)
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ボニー・ヒューレット著『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』(原題Listen, Here Is a Story)の訳書刊行を記念して、中部アフリカの「森」の社会とその生活、小規模社会の研究から見えてくるもの、本書の特徴や翻訳にあたっての苦労など、著者と同じく中部アフリカでフィールドワークをしている訳者3人にお話をうかがいました。
話し手: 服部志帆、大石高典、戸田美佳子(訳者・執筆者)
聞き手・構成: 櫛谷夏帆(編集担当)
バナー写真:ドローンで見たアフリカの森。(撮影:大石高典)
アフリカ大陸の中央に広がるコンゴ盆地の北部に位置する、中央アフリカ共和国の熱帯雨林が舞台です。この森には、ゴリラやチンパンジー、ゾウなどの絶滅危惧種を含む多くの動物や8000種をこえるといわれる植物が生息しています。豊かな森の恵みに依存しながら、本書の主人公である狩猟採集民アカと農耕民ンガンドゥは暮らしています。
「狩猟採集民」は、野生の動植物を直接採捕してそれを食料にしている人々のことです。約1万年前に農耕と牧畜が発明されるまでは、全人類(ホモ・サピエンス)が狩猟採集をして暮らしていました。一方、「農耕民」は定義的には農耕をなりわいとする人々を指しますが、本書のンガンドゥは焼畑農耕を基盤としながら狩猟採集、漁労、家畜飼養などを組み合わせた複合的ななりわいを営んでいます。
中部アフリカの熱帯雨林というと、豊かな自然環境のもと変化の少ない社会で人々が暮らしているというイメージを持つ人もいるかもしれませんが、過去1世紀の間にアカやンガンドゥは次から次へと押し寄せる劇的な変化を経験しています。
中央アフリカ共和国はアフリカ大陸の多くの国や地域と同様に、ヨーロッパによる植民地支配を19世紀後半から受けました。1960年に独立した後もクーデターやクーデター未遂が続き、さらには隣国のチャド、スーダン、南スーダン、コンゴ民主共和国での内戦の影響を受けて政情不安が続いています。
さらに近年では、伐採事業や環境保全により生態環境が変化したり、宣教師や人権団体などの外部社会が関与したりしています。「森」はこのような激動の歴史と現在を内包しているところでもあるのです。
なお、本書の舞台であるナンベレ村の様子をビジュアルに体験してみたい方は、BBCのドキュメンタリー作品『A Caterpillar Moon』をウェブ上で見ることができます。この動画を監修したワシントン州立大学のバリー・ヒューレット博士は本書の著者ボニー・ヒューレットのパートナーでもあります。
アカとンガンドゥは同じ地域・同じ生態系に暮らしていますが、社会のあり方や対人関係の築き方、育児、価値観など両者の文化は大きく異なっています。どちらかといえば、日本の社会には農耕民であるンガンドゥの社会と似ている点が多く見られます。
たとえば、アカの社会は平等主義的で、リーダーはおらず、収穫物や道具類を分け合う「シェアリング」という価値観を大切にしています。それに対して、ンガンドゥの社会ではクランと呼ばれる出自集団どうしの政治的な連帯に価値が置かれており、アカのように物のシェアリングを行わず、代わりに返礼を伴う贈与関係が中心になります。また、父や夫を尊重すべきという、親族関係に基づく秩序を重視します。
本書の第1章ではアカとンガンドゥの女性たちが子どものころに教わったことを語っています。アカの少女たちは森でのヤマノイモ採集や動物の狩りの仕方と同時に、シェアリングの大切さを学びます。食べ物を独り占めしたら「あの子はほんとにケチ!(本書、p.130)」と言われるそうです。一方、ンガンドゥの少女たちは周りの人を尊敬することの大切さを教わります。ある女性は幼いころに母親から、いつか結婚したら「夫によく尽くさないといけない(本書、p.118)」と言われたと語っています。
ンガンドゥでは男性が女性に手を出すことが多く、しつけのために子どもを叩くこともあります。もしアカで子どもを不用意に叩いたら離婚沙汰になってしまいます。日本の社会は家父長制を基盤としてきた歴史があり、ジェンダー間の不平等や家庭内暴力についてもンガンドゥ社会のあり方に近いといえるでしょう。
本書は、狩猟採集や農耕を基盤とする小規模社会に目を向けることによって、人間の普遍的な特性を描き出そうとしたものです。このような社会は、技術や資本(富)を集中化しない生産様式をもち、人口密度が低いまま現代に至り、政治や経済が先進国の社会のように複雑に階層化することもありませんでした。一見、日本などの先進国の社会とは非常に異なっているようですが、人類としての共通性も多く見られます。
本書で挙げられている人間の普遍的な特性の一つに、生物学的な母親以外からなされる子どもへのケア、すなわち「アロマターナル・ケア」や「共同育児」があります。
アカやンガンドゥの赤ちゃんは母親以外に祖母や兄弟姉妹たちからも手厚く世話をされて育ちます。また、特にアカの社会では、男性が育児を積極的に行い、子どもたちを狩りにも連れて行って、長い時間を一緒に過ごします。
このような育児はそもそも人類に普遍的な形態でしたが、現代の日本では母親に過度の役割と責任が押し付けられるようになってしまっています。近年では男性の育休など、男性の育児への関わりにも光が当たってきていますが、他の社会の例を見ながら、日本の人々ももっと自分たちを相対化する必要がありそうです。
社会的学習とは、学校教育のような制度化された教示のほかに、遊びのなかで他人を観察してまねをしたり、競争し合ったり、といったさまざまなインフォーマルな学びを含んだ他者からの学習のことです。
アカやンガンドゥの子どもたちは、火の起こし方や森の歩き方などの実践から、アカであれば平等主義、ンガンドゥであれば親族関係の秩序といった自分たちの文化に特有の価値や信念まで、生き抜くために必要な知識を年上や同年代の子どもたち、大人たちと遊ぶなかで試行錯誤しながら学んでいきます。
たとえばお母さんの真似をする「ままごと」は日本でよく知られた遊びですが、ンガンドゥやアカの社会にもあります。ンガンドゥ女性のブロンディーヌは次のように「バナナの赤ちゃん」を一番の思い出として語っています。
バナナの葉や他の葉を切って束にして背中に結びつけて,私たちの赤ちゃん,バナナの赤ちゃんにしたんだ! 最高の思い出は,母が私の背中にバナナの赤ちゃんを付けてくれたこと.それから,棒とバナナの葉をとって,傘のようにしてくれたから,私は赤ちゃんをもつ大人の女のようだった.(本書、p.117)
このように子どもたちは身近なものを遊びの道具にして、「ごっこ遊び」の中で家事や育児にふれていきます。このような社会的学習は人類に固有のものだと言われています。もちろん、学ぶ内容は文化によって異なりますが、アカもンガンドゥも日本の子どもたちも、社会的学習によって集団の中で生きていくための基盤を身に着けていくことは同じなのです。
日本では、教育といえば学校教育ばかりが想像されがちですが、小規模社会における学びのあり方を丁寧に見ていくことで、人間の学びのユニークさや可能性について考えることができます。
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『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』
ボニー・ヒューレット(著)/服部志帆、大石高典、戸田美佳子(訳)
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『永遠なるカミーノーフランス人作家による〈もう一つの〉サンティアゴ巡礼記』(ジャン=クリストフ・リュファン 著、今野喜和人 訳)を黛まどかさんがFacebookでお薦めの本としてご紹介くださいました。
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『日本経済新聞』(2020年4月18日)に『神西清の散文問題』(小林実 著)の書評が掲載されました。「翻訳語で日本語の確立試みる」
書評は日本経済新聞HPでもご覧になれます。
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『朝日新聞』(2020年5月2日)に『同定の政治、転覆する声―アルゼンチンの「失踪者」と日系人』(石田智恵 著)の書評が掲載されました。評者は戸邉秀明先生(東京経済大学)です。「日常の何げない言葉やふるまいを読み解いて、粘り強い変革の道程を描き出す本書からは、文化人類学という学問の可能性も見通せる」