『原発災害と生活再建の社会学』の書評が『社会学評論』に掲載されました

日本社会学会編『社会学評論』Vol.74, No.3(2023年12月)に、庄司貴俊著『原発災害と生活再建の社会学―なぜ誰も作らない農地を手入れするのか』の書評が掲載されました。評者は山本薫子先生(東京都立大学)です。「原発事故に伴う放射能汚染によって農業生産ができない状況におかれているにもかかわらず農地の手入れを続ける人々に着目している」

『ディープ・アクティブラーニングのはじめ方』の書評が『大学教育学会誌』に掲載されました

『大学教育学会誌』第45巻第2号(2023年12月)に、山川修・早川公著『ディープ・アクティブラーニングのはじめ方―つながりのなかに主体性を取り戻す』の書評が掲載されました。評者は森朋子先生(桐蔭横浜大学)です。「他実践への転移を意図して、考え方の基盤となった学習に関する理論がふんだんに盛り込まれており、実践と理論の双方の内容が有機的に連動している」

 

『自己形成への道程』の書評が『図書新聞』に掲載されました 

『図書新聞』第3622号/2024年1月13日号に、千々岩友子著『自己形成への道程―精神科看護師による実践記述の解読から』の書評が掲載されました。評者は早藤夕子先生(新潟県立看護大学)です。「日々逡巡しながらも精神科看護師として生きていきたい、そう願う者たちへ勇気をもたらす一冊

『新聞4コマ漫画と内閣総理大臣』が『新聞研究』で紹介されました

『新聞研究』2024年1-2月号(日本新聞協会/第816号)で、水野剛也著『新聞4コマ漫画と内閣総理大臣―全国3大紙に見る小泉純一郎から野田佳彦までの首相描写』が紹介されました。「漫画からある程度の公共性、論理性を備え、かつ実生活に根ざした市民感覚を見いだすことができるとした」

『アヴェルノ』の書評が『英文學研究』に掲載されました

『英文學研究』第100巻(日本英文学会編/2023年12月)に、ルイーズ・グリュック著/江田孝臣訳『アヴェルノ』の書評が掲載されました。評者は富山英俊先生(明治学院大学)です。「グリュックを語る難しさは、ときに不確定になるペルソナだけでなく、一見して平明な文の配置からなる作品で、それらの繋がりがしばしば空白や暗示に留められ、解釈は読者に委ねられることにもある(今回の翻訳は正確にその通りを伝えている)」

『社会教育における生活記録の系譜』の書評が『月刊社会教育』に掲載されました

『月刊社会教育』No.810/2023年11月号(旬報社)に、新井浩子著『社会教育における生活記録の系譜』の書評が掲載されました。評者は古里貴士先生(東海大学)です。「視野を明治期の学校での作文教育・綴方教育にまで広げた上で、明治期から大正期、昭和の戦時期を経て、戦後期に生活記録が社会教育の学習方法として成立していく、その過程を明らかにする」

『個から群衆へ』の書評が『英文學研究』に掲載されました

『英文學研究』第100巻(日本英文学会編/2023年12月)に、佐久間みかよ著『個から群衆へ―アメリカ国民文学の鼓動』の書評が掲載されました。評者は西谷拓哉先生(神戸大学)です。「アメリカにおける文学活動が初期のピューリタンの自伝や説教からアメリカの固有性に基づいた国民文学へ、さらには国境・境界を越えて広がる多文化的な文学へ展開していく様を鮮やかに描き出している」

『書きかえる女たち』の書評が『英文學研究』に掲載されました

『英文學研究』第100巻(日本英文学会編/2023年12月)に、竹山友子著『書きかえる女たち―初期近代英国の女性による聖書および古典の援用』の書評が掲載されました。評者は土井雅之先生(関西学院大学)です。「初期近代英国における女性の教育……の受け手である6人の女性作家たちにそれが浸透していく様子を辿っている」

 

『原発災害と生活再建の社会学』著者・庄司貴俊氏のインタビューが『聖教新聞』に掲載されました

『聖教新聞』2023年12月5日号に、『原発災害と生活再建の社会学―なぜ何も作らない農地を手入れするのか』著者・庄司貴俊氏のインタビューが掲載されました。「見通しのない非日常と日常 「仮」の状態に置き、立て直す」

◆記事は下記の聖教新聞ウェブサイトよりご覧になれます。

https://www.seikyoonline.com/article/107CA90D3E60E6924399CCCBF35DE01D

『レオナルド・ダ・ヴィンチの源泉』の書評が『図書新聞』に掲載されました

『図書新聞』第3619号/2023年12月16日号に、田辺清著『レオナルド・ダ・ヴィンチの源泉―様式・文学・人物表現』の書評が掲載されました。評者は宮田徹也先生(嵯峨美術大学)です。「凡そ五〇〇年前に生きたアーティストが、今もまだ生きている、身近な存在のような感覚を我々に与えてくれる……五百年「も」、前なのか、「しか」なのかによって、発想が変わってくる」