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| 第 ニ 号 |
| 竹内 敏晴 Toshiharu Takeuchi (演出家) |
ことば2000 〜変容するからだとことば(1) 「イカツク」というコトバをわたしが知ったのは今年になってからだが、高校生が使い始めたのはしばらく前からのことらしい。わたしの耳に入るのが遅かったのは、住んでいる名古屋という土地柄もあるだろう。大阪の人も聞いたことがないと言う。ひょっとするとこれは東京学生方言であるかも知れない。 聞いた時、ははあなるほど、そうなって来たのか、と、からだが斜めにすべり落ちてゆくような感じを持った。 これは明らかに―とわたしには思えた―「ムカツク」の発展形だ。敢えて言えば「キレル」、あるいは「イカル」からだへの変容の一プロセスである。 「むかつく」とは、呑みこむことも吐き出すこともできないからだの状態、つまり世界を受け入れることも拒否することもしない中ぶらりんのからだ、である。一九七〇年代の終りに少年たちがこのことばを頻発し始めたのを聞いた時の驚きは別に書いた(『ことばとからだの戦後史』筑摩学芸文庫)。 「ムカツク」からだは二十年続いた。しかし、受容せず拒否もせず、ひたすら平衡を保つことに自意識を研ぎ澄ましている状態は、実は極めて緊張度の高い状態であって確実に疲れに蝕まれる。だけでなく、結局のところ、反応を見せぬからだにいら立つ外界=社会の規制力の圧迫に身動きが取れなくなってくるであろう。やさしく、おとなしいと見える子が、内にこらえる被圧迫感が次第に増大して、もはやダムは決潰寸前になっている―。「イカル」ところまではまだいかせない、だが、からだは「イカル」地点へとじりじり追い詰められている。 「イカツク」とはみごとな命名だ。まないたの上の魚がピクッピクッとうごめくさまを思わせる。 「キレル」は今や流行語だが、これは「ムカツク」からだの、ある瞬間の反応だと見ることができる。しかし「イカツク」となると、生活における無自覚な身構え自体の変容を感知しているコトバだ。若者のからだの鋭敏さ。歴史の暗闇の行方をのぞきこみながら、若者のからだは、「イカル」からだへ、「からだの反乱」へと変容しつつある、のかも知れぬ。 |
| 上田 薫 Kaoru Ueda (都留文科大学名誉教授) |
本はいつもそのあたりに 本の中に半身を埋めるような生きかたは、もうこの世の中から失われてしまうのであろうか。私の父は裁判官だったが文芸書を中心に新本古本の山が、狭い家の中を雑然と我物顔に占領しているというふうであった。母も一生短歌に熱中していたから、歌書の類も少なくなかったであろう。少年のころの私は、はじめからそういう空気に馴らされて育った。 一方母方の祖父は哲学者で、こちらも書斎と書庫におびただしい洋書和書が、深閑というかいかめしく収まっていて、取りつく島のなさと懐しさがないまぜになっている感じだった。 やがて当然のように私も本を買い求めるようになるのだが、本とのこの久しいなじみの感覚は、どういう長短をもっていただろう。とにかく高校の時代は、人並みに眼の色を変えて古本あさりもしたし、新刊書をペーパーナイフで切り裂きながら胸をときめかした記憶もある。戦争にいくときは、ああこれでおしまいかとわが書棚に感慨を催したはずなのだが、どうしてかよく覚えていない。 運に恵まれて私は再び本と親しくつき合う生活にもどってきたのだが、半世紀たった今、世の中は全く新しい流れの中にあるようにみえる。 本も書店もすでに変わった。私が若いころもったような本との微妙な親近感は、どんどん乏しくなっていく。ことにIT革命とかいわれる情報手段の変化には、どう抵抗しようもないということであろう。でもそうなれば、コミュニケーションの手段だけでなく、人間そのものも変わらねばならぬのではないか。たしかに人間は最近変わったのかもしれぬ。しかしそう簡単に変わりきれるといってよいのだろうか。昔私が本に抱いたそこはかとない情趣といったものは、もう本当に無用なのか。無用と切り捨てて、人類は無事にいくものか。何千年来人間は本というものに厄介になり続けてきた。そこに消えがたくあったものは何か。目前の利便に目をくらまされて、人間を真に人間として保つかんじんのものを軽率に破壊してしまう愚を、また重ねることがあれば悲しい。ことは読書好きのたんなる感傷といったものではない。いささかの縁あって、三浦さんの得がたい情熱に触れえた。三浦さんが生み育てられる本に、強い期待を寄せている。 |
| 斉藤 由貴 Yuki Saitou (女優) |
真空管 まわりからどう見られるか知らないけれど、実は私は大変な小心者で、小さな事につまづきくよくよし、よく自信を失くしては落ちこんでいる。そして、どういうわけだかそんな時、無性に本が読みたくなる。 本のジャンルは全く問わず、サスペンスからラブロマンス、エッセイまで、正に乱読というに尽きるけれど、落ち込んでいる自身にとって、とにかく“本を読む”行為そのものがとても重要であるようだ。 自信がない時、私はとても自分が空っぽでとるに足らない卑小な者のように感じてどんどん内にこもってしまう人間だ。けれどそんな時こそ、何もやる気がおきない割に、貪るように本にむかってしまう。何であれ本にむかっている間は、そして特に集中できている間は、私は空しい孤独の中に居なくてすむ。その本の筆者の思い、考え、想像の世界を、今の自分に合ったペースで知り、味わい、楽しむ事ができる。 そうしてしばし“読書の愉楽”にひたって、情ないくよくよから意識が離れているうちに、下手に落ち込み過ぎるのを避け、健康的な発想を(多少なりとも)取り戻す事ができるのだ。 そういう意味では一冊の本を読む時間というのは、とても、丁度いい。そして運良く、質の高い本に出逢うことができたなら、きっとその本は夢中になって、集中して読み進んで我を忘れている時間は私を真空状態につれていってくれる。その真空が、雑多な日常の中で私の中に溜まったおり澱やうみ膿を優しくろ過してくれるのだ。 私が私らしくある為に、本は、そして“読書”はいつも私の側にある。 |
| 鎌田 慧 Kamata Satoshi (ルポライター) |
小の魅力 いま、毎月一回、地方紙を訪問してあるいている。どんなひとたちが、どんなことを書いているのか、との探訪である。ある月刊誌から依頼されて、もう三十社を越えた。 はじめに考えていたのは、地方の民主主義は、地方のジャーナリズムがつくりだす。だから、地方紙が地方主権にむけて、どんなことを考えているか、というようなものだった。 もちろん、それはこっち側の思いこみで、それぞれの地方の特質があり、程度があるのだが、新聞が地方に分散している利点というようなものが、わかるようになった。といっても、その地方紙は、たいがい、「県紙」と呼ばれ、地方の大マスコミであることにはかわりはない。 無茶な真珠湾攻撃がはじまってからすこしすると、各地方の新聞は、内務省によって、強引に一紙だけに統合させられてしまった。「県紙」は、それ以来のことだとしても、たとえば、いま、その延長線上で、朝日、読売、毎日などの傘下にはいっていたとしたなら、言論はいまよりなお、もっと硬直していることは疑いない。読売のように、憲法改定の急先鋒になるのもある。地方紙では、例外を除いてまだそんなのはいないようだ。 たしかに、県紙は県権力には弱いのだが、全国紙が国策に弱いのよりは、はるかに救いがある。それに一紙づつ経営がちがうのだから、「新聞紙条例」のような言論統制の悪法が成立しないかぎり、まだ大丈夫のようだ。労働組合の機関紙やサークル誌が壊滅状態で、民衆のジャーナリズムの基盤は弱くなった。これから、インターネットがそのかわりになるのかどうか。ただ、その中味は、ジャーナリスト精神でささえられていなければ……。 小出版社が元気がなくなったのが、九〇年代の特徴だと思う。少数者の言論にこそ真実がある。ところが、それらは、ベストセラー指向のけばけばしい出版物の大群によって、書店の平台と棚から排斥されている。 出版社とは、ベストセラー作家に依拠するのではないはずだ。書籍を売るためにではなく、つぎの時代をつくる書き手を育てる場所であるはずだ。 |