四 
ワイワイガヤガヤ通信





小野寺 功
Isao Onodera

(清泉女子大学名誉教授)
原風景


 定年を過ぎ、年を経るごとに、子どものころ田舎で過ごした風景が花びらの淡い色彩で甦ってくる。
 私の育った土地は、宮沢賢治がイーハトーヴと呼んだ花巻と遠野の中間に位置し、かつて詩人の村野四郎が、岩手という地方にはどんな文明でも知り尽くせない神秘的な鉱脈があるといった場所で、本当にそんな気がしてくるコスミックな盆地風土であった。
 ふるさとの体験の中で最初に思い浮かぶのは、春真っ先に咲くカタクリの花の清冽な美しさである。雪間からひっそり、生の証しのように花開く姿は一心にひたむきで、私にとって絶対の世界そのものであった。
 岩手はまた、昔から馬の産地で、山路の草深い傍らに、馬の墓があった。お盆には花を献じ手厚く供養した。私も、年老いて死んだ山羊を、祖父といっしょに、冬、橇に乗せて運び出し穴を掘って埋めたことがある。この地方では、家畜を家の中で飼うことが多く、家族も同然であった。
 さらに思い出すことがある。
 子どものころ、一時釣りに夢中になった。背中がゾクゾクするほど楽しかった。ある日、大きなふな鮒を釣り上げた。そのとき、釣り針が深く顔面に突き刺さっていてなかなか抜けず、眼の辺りから血が吹き出てきた。それを見ていて、突如として私は鮒の痛みを自分のこととして感じ取ったのである。岩手弁でいうほんとうの「むぞい」という実感を初めて味わった。それ以来、私は、あれほど好きだった釣りをプッツリやめてしまった。いま考えると、このときが私の魂のめざめの始まりであったと思う。
 その後、東北を後にし、長い思想遍歴を経、「大地の哲学・大地の思想」をめざすようになった背景に、生まれ育った風土が私の中に深く息づいているような気がしてならない。



橋本 勝
Masaru Hashimoto

(大阪外国語大学教授)
モンゴルの夏の草原を思い


 夏七、八月を迎えると透きとおった真っ青な空を戴くモンゴルの広大な草原が頭に浮かび落ち着かなくなる。しかし、今年は『現代日本語モンゴル語辞典』の仕事を完成するためモンゴル行きは早い時期に断念し日本にはりついている。日本の夏と違いモンゴルの夏は正に快適である。
 モンゴル国の首都ウランバートルは海抜約一四〇〇メートルで四方を山に囲まれた盆地状の土地にある。そこをトーラ河という大きな河が蛇行して流れている。日中は三〇数度になることもあり紫外線は極めて強い。海から遠く隔たった内陸性の気候なので非常に乾燥している。蒸し暑さはない。今夏は雨が極端に少なく干魃が心配される。冬は冬で零下三〇〜四〇度にも及び雪害に悩まされ家畜の大量死が毎年伝えられる。自然環境の厳しい風土である。
 モンゴルの人たちは都市部の住民を除くと基本的に遊牧生活を送っている。モンゴル民族は古来、家畜を放牧して生業をたててきた。彼らが放牧する家畜は「五畜」と言い、馬、牛、ラクダ、羊、山羊である。彼らの衣食住は、本来この家畜に依存している。モンゴル人の飲み物として乳茶のほか六月末ごろにつくられる馬乳酒(アイラグ)がよく知られている。色は白濁で味は非常に酸っぱい。アルコール度は低いが、ビール程度はある。モンゴル人は小さな子どものころから飲み親しんでいる。彼らがお酒に強いのはこの辺りにその理由があるようだ。
 この夏は、冷たいビールでも飲んで草原の夢を見ることにしよう。



プレブジャブ・エルデネ
Erdene Purevjav

(大阪外国語大学外国人教師)
一番難しい仕事


 ここ数年、モンゴル学者で大阪外国語大学教授の橋本勝先生と力を合わせ『現代日本語モンゴル語辞典』という大きな共同作業のために、睡眠や疲れを忘れるほど一筋に仕事をしてきた。辞典づくりが、ほんとうに細々した面倒な仕事の連続で、大変な作業であるということを自分の体で実感できた。
 モンゴルでは、「辞典というのは一番難しい仕事、胡椒というのは一番きつい香辛料」と言われるが、ほんとうだった。二つの言語の翻訳辞典をつくるとき、その二つの母語で話す人たちが心を合わせれば、かなりの成果をあげられることが分かった。
 初めは一万ぐらいの見出し語の入った小さな辞典をつくろうと思っていたが、時間が経つにつれ、少しずつ大きなものになり、当初の予定よりもだいぶ見出し語が増えた。この辞典には日本の生活状況や文化を表す、伝統的な「生け花」「大関」「着物」「桜」「相撲」「茶道」などの言葉をできるだけ入れるようにした。同時に、モンゴルの遊牧文化を表す「鎧」「轡」「鞍」「栗毛の馬」「鬣」「馬勒」などの言葉をなるべく多く入れるように努めた。
 この辞典の原稿をコンピューターに入力しながら、現代のコンピューターの知識を少しずつ習得できたことはとても幸運なことだった。



佐々木 光郎
Mitsurou Sasaki

(水戸家庭裁判所)
転機


 非行臨床の同席面接のとき、滝子が母親と少し離れて座っているようにみえた。突然、母親に向かって叫んだ。
 「うるせぇ。このクソババア。おメエが悪いんだ」
 私は、一瞬たじろいだ。が、勇ましい言葉とは裏腹に、滝子の寂しそうな表情を見たとき、彼女の「荒れ」には母への悲しいほどの深い思いがあると感じた。中学二年生の彼女は、同級生の奈美恵と深夜街をふらついているところを補導された。訊くと、何度か「援助交際」に手を染めたことがあるという。ぐ犯として家庭裁判所へかかわった。
 母がひとり親の家庭である。二歳違いの弟がいる。ここ一、二年、母は仕事の「出張」と称し、家を空けることがある。男性と交際していた。思春期に差しかかった滝子には母親の行動が許せず、ことごとく不潔に見える。中学一年の暮れ、抑えていた気持ちが爆発した。「なんで母がいないのや。夕飯は三人で食べたいんや。なんでや」
 この頃、同じく家庭に居場所がない奈美恵と親しくなった。滝子は、わざと問題行動をおこして母を困らせようとした。母の関心が自分へ向くように願ったのである。母同席の面接で、そのことをポツリと伝えた。
 審判の結果、滝子は調査官の試験観察となった。私は、月に二、三回の面接をおこなった。学校や家庭にも訪ねてみた。
 二ヶ月経ったある日、学校から突然の電話があった。滝子がウーロン茶にウイスキーを入れて飲み、酔っぱらって登校したという。ちょうど、母の「出張」がまた始まったのと時機が重なった。

 それから三ヶ月経ったある日のこと、私の前に滝子と母がくっついて座った。滝子の目に心なしか穏かさがみられた。母がひとことつぶやいた。「親が変われば子も変わるんですね」



工藤 正三
Shouzou Kudou

(新井奥邃先生記念会幹事)
奥邃と酒(1)


 キリストの志願奴隷を自ら標榜し、いわばキリスト教の行者としての生涯を送った新井奥邃(一八四六〜一九一二)に、「世俗的趣味というものを求むれば、それは酒であつた。而して日本酒であつた。この日本酒は先生の健康剤でもあり、また慰労薬でもあつた。先生は随分酒は強かつた。私のお逢いした五十七歳の頃から六十七、八歳に至る頃までは酒を飲まれても少しも顔にも容姿にも所謂酔態は顕われず、その後といえども晩酌後やはり文筆に親まれてあつた。」とは中村木公氏の証言である。
 また奥邃の酒のお相伴にあずかる機会が多かったと思われる永島忠重氏はいう。
 「先生が酒を飲まれた事に就き一言しなければならないが、要するに其れは先生の言はれた通り、毒を以て毒を制する為に他ならなかつたであらう。故に世の酒を好む者が只好んで飲むと云ふやうなものではなく、無論習慣などに囚はれての事ではない。先生に於ては酒など止めようと思へば、何時でも止める事は何でもない事であつたろう。先生には酒も茶もコーヒーも格別の相違は無かつたであらう。故に親しき者が訪問すれば夕飯の時には誰にでも出して勧められた。而して先生は余程酒量も強かつたものと見え曾て顔を赤くされた事もなく、談話の調子さへ少しも変つた事はなかつた。何時も極めて静かで、膝も崩されず端然と坐つて話して居られた。絶えて酔はれた様子など見た事はない。又聞いた事も無かった。……酒の利害に就いて云々する者があると、先生は、『多く飲めば水でも害になりませう。』とか『酒を飲んで害になるのは、酒が悪いのでなく、人が悪いのでせう。』とか、『基督も婚姻に招かれた時、水を酒に変へてやられた事があるでせう。』などと言って、余り取り合はれなかつた。……」
 大和会例会初期の頃、奥邃の講義に続いて質疑が交わされたあと、奥邃が酒を提供し、会員各自あり合わせの肴を持ち寄って飲食しながら歓談するのが恒例となっていた。しかし、酒を用いるのは各自の態度に不調和を生ずる虞れがある、あるいは、道を聞くより飲食の方を楽しむ者があるとでも察せられたか、奥邃はその後一切酒を廃す。一人二つずつ盛り蕎麦を馳走に出し、奥邃も会員といっしょに食事するようになったという。
 奥邃は人と飲食を共にすることを心から悦ばれた。ふつうの意味でご馳走するということのほかに、さらに深い意味があったはず、と木公氏はいう。なるほど、謙和舎の食堂に掲げられていた「食堂訓」にも、その間の事情がよく表明されていると思われる。
 滞米略三〇年、日本酒を嗜む機会はなかっただろうが、奥邃の暮らしたハリスの共同生活体は、巨大なワイナリーと貯蔵庫を有し、世界中に販路も持っていたのだから、たぶんワインには不自由しなかっただろう。ところが、洋酒がおくられた場合、人には供しても、自ら飲むことはなかったらしい。ただワインの利き酒、ソムリエの腕前には、その道の専門家でさえ驚いたという話を、永島氏が書き残している。



吉田 司雄
Morio Yoshida

(工学院大学助教授・日本近代文学)
妊娠恐怖症候群


 京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』は、ニ十箇月も子を身籠ったままの妊婦の存在と、その夫の失踪事件という不可解かつ猟奇的な謎を扱っている。医師である夫は、ホムンクルスすなわち人造人間の製造研究に打ち込んでいた。夜毎、妻の梗子と間男の内藤との淫らな性行為を研究室の窓から覗き見ながら、体外受精の研究にのめり込んでいったのだ。留学中の事故で生殖機能を失った彼は、妻も自分と同じように遺伝子を受け継ぐ子供が欲しくて、それで不義を働いているに過ぎないのだと思い込んで。そして研究が完成した日、惨劇は起こった……。
 ロボットやアンドロイド。硬質でメタリックなボディに包まれたそのイメージの背後には、自らは決して身籠ることの出来ない男たちの、妊娠する身体の生々しさへの恐怖と嫌悪とが隠されているように思えてならない。長いこと、ほとんど男性だけに領有されてきた科学は、生殖技術やロボット工学や遺伝子操作などの研究を通して、性的関係を必要としない単為生殖ヘの夢を紡ぎ続けてきた。
 けれども文学は、一見合理的中立的な科学的思考の底によどむ欲望を時にあらわにしてしまう。例えば『フランケンシュタイン』。この死体をつぎはぎして造られた怪物の物語が、メアリー・シェリーという女性によって書かれたことはよく知られていよう。人工生命を創造したマッド・サイエンティストの物語が孕む意味については、近年フェミニズム批評の担い手たちによって様々に解明されている。
 『フランケンシュタイン』と『姑獲鳥の夏』。一八〇年近くの隔たりをもって書かれた二つの妊娠系恐怖小説(!)の間に横たわる時間が、日本の「近代」である。そこでは科学と文学とが、どのように絡み合い睦み合い鬩ぎ合ってきたのか。考えるに値する課題は、いくつも残されていると思う。


會津信吾、一柳廣孝、奥山文幸、中沢弥、安田孝、吉田司雄『妊娠するロボット―一九二〇年代の科学と幻想―』二〇〇二年三月刊行予定。
(次号は一柳廣孝氏の執筆予定)



矢萩 英雄
HIdeo Yahagi

(画家)
月の輪熊

 ツキノワグマは本来深山幽谷に住んでいて滅多に人里に姿を現すことはありません。そのような深い森へ行ったことのない私は実際に山で熊に遭遇したことはありません。遭ったことはないのですが、私のどこかにあのどんぐりまなこの赤い舌の山神が居るような気がするときがあります。

 昨年、私は小さな画廊で木版画の個展を開くことになり、ツキノワグマをテーマにしました。……ところが、何枚描いてもツキノワグマは現れません。それでもなんとか気力を振り絞って何枚も何枚も描きました。でもやっぱり描けません。白い紙の前で茫然自失。私はすっかり自信をなくし、版画家を罷めてしまおうか、と思ったくらいです。
 その夜、不思議な夢をみました。
 夢は、――こんなのです。
 ちょうど、鈴割の薬玉くらいの頭をした巨きなツキノワグマが私の前に出てきて、そのでかい赤い舌でべろべろと嘗め回すのです。もう顔中熊の唾液でぬるぬるです。
 (エヘヘヘ くすぐったな)なんて思っていると、熊は私をじっと見て言いました。
 (おれを描こうとしたって 描けやしない
 おれを描きたいなら 山を描け
 山を描くことは おれを描くことと同じだ)
 そこで、夢は終わりです。夢から醒めた私は、何とも楽しい気に落ちて暫く、エヘヘヘ……って顔になりました。



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