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| 第 五 号 ワイワイガヤガヤ通信 |
| 石井 博 Hiroshi Ishii (小学校教員) |
「人と出会う」ということ 「やっているときはたいへんだったけど、できたときはすごいうれしかった。音が出たきは、作ってよかったと思った。作り上げたという感じがすごくあった。作るのも楽しかったけど、えんそうもすごく楽しかった。ぜひもう一度(演奏を)やってみたい。作るのも、次に、もし作れたら、つづみ太鼓じゃないのを作ってみたい。○○さん(太鼓屋さん)すごい」 太鼓作りの最後の学習での、ある子どもの感想である。 太鼓作りの学習は昨年十一月から始まった。この感想を書いたのは三月半ば。四ヶ月間もの学習であった。 昨年の夏休み、太鼓屋さんにうかがい、今年もそろそろ太鼓作りを始めたいと申し上げた。 その時の太鼓屋さんの言葉が忘れられない。 「先生。今年は鼓太鼓をつくんなよ。音もいろいろ変えられるし、そうしなよ」 「えっ。鼓太鼓ですか。だって、縫いが入るでしょ。それに輪になるリングがなかなか見つからないでしょ」 「縫いは先生が手伝ってあげれば何とかなるよ。リングも探してみたら。だってね、今までの子どもたちの感想を読むと、ほとんどが『太鼓作りは大変な仕事ですね』なんだ。ほんとうは、音が出て演奏をしてはじめて楽しいものなんだ」 もう何年ものおつきあいになる。私の学校での太鼓作りに端切れの皮を毎年用意してくださっている方だ。今まで作ってきた太鼓は、締めるだけの桶胴太鼓である。それでも、子どもたちはでき上がると音を出して喜んでいた。簡単な演奏もした。 私は今まで、子どもたちを「大変な太鼓作りをする○○さん」として出会わせてきたのかと思った。私は、子どもたちに「こんな楽しい、おもしろい太鼓を作る○○さん」として出会わせなくてはならないと感じた。子どもたちと太鼓屋さんとの出会いを豊かなものにしたいと願った。 それにはまず、私自身がもう一度太鼓屋さんに出会う必要があった。 道具を探しては聞きに行き、皮を鞣しては聞きに行き、皮縫いをしては聞きに行き…。挙げ句「道具も自分でつくんなよ」ということになり、鞣し台や鞣し道具も自分で作った。 いつのまにか、私自身、大変だけどおもしろいと思いはじめていた。 横浜と平塚の距離なので、子どもたちが太鼓屋さんに会いには行くのは簡単ではない。鼓の一枚目の皮ができ上がったころを見計らい、会いに行くことにした。 自分で作った一枚目の皮をお見せしながら、子どもたちが自分を主語にして、太鼓屋さんと話してほしかった。 「わたしは何度も鞣したんですけれど、乾かしてみたら白い皮にはならなかったんです。鞣しのコツはなんですか」 「わたしは縫うのが難しくて、皮がしっかりと張れませんでした。どこに気をつければいいんですか」 「ぼくは、今度この道具で鞣したいんですが、この道具でも大丈夫ですか」 子どもたちの質問に太鼓屋さんは、それぞれの皮や道具を見ながら具体的に答えてくださる。 「九回は鞣しなさい。丁寧にやれば大丈夫だよ」 「ウラのひもをしっかりと締めてから縫ってごらん」 「この道具で十分だよ」 質問をした子どもは「自分ひとりへのメッセージ」として受け止めたようだった。 満足げな顔で帰ってきた子どもたちは、さっそく、鼓の二枚目の皮なめしをしたいと言った。真冬、一月半ばのことである。 子どもたちが「人」と出会うとき、「自分語り」のできる子であってほしいと切に願っている。 |
| 一柳 廣孝 Hirotaka Ichiyanagi (横浜国立大学助教授) |
かくして、ロボットは妊娠した かつては夏の風物詩だった怪談話も、いまや季節をとわずに大はやり。「奇跡体験!アンビリバボー」「USO!?ジャパン」など、そのテのテーマをあつかう人気番組が、すぐさま頭に思い浮かぶ(私だけか?)。しかしまあ、心霊番組が花ざかりなのも、わからないではない。なにせ放送局自体が、怪談の宝庫なのだから。NHK放送スタジオに現われる将校の霊、文化放送スタジオを徘徊する修道女の霊などは、有名な話だ。 こうしたフォークロアを支えている理屈のひとつが「電波と霊は相性がいい」というもの。この仮説(?)の背景には、二十世紀初頭における科学と心霊学の複雑微妙な関係が潜んでいる。詳しくは『妊娠するロボット』所収の拙論に委ねるが、これもまた、科学が生み出した多様な幻想の産物である。これらの幻想は、文学に対しても格好の素材を提供しつづけた。その意味で科学とは、特異なイマジネーションを供給する子宮に他ならない。かくしてロボットは、妊娠する。 「妊娠するロボット」とは、科学が提供する想像力の象徴でもある。そしてときにこのイマジネーションは、コード化され、実体と化す。放送局から霊が消えないのは、この想像力の問題と切り離せない。一九二○年代の日本を舞台として、現代までつづく想像力のありようを多角的に論じた本書は、このような問題系に対する取り組みである。 *奥山文幸・吉田司雄編『妊娠するロボット 一九二○年代の科学と幻想』二○○二年五月刊行予定 |
| 松原 好次 Ko-ji Matsubara (湘南国際女子短期大学教授) |
ハワイ先住民の視点 ハワイ大学のトラスク教授著From a Native Daughter: Colonialism and Sovereignty in Hawai'i の初版を読んだのは1994年のことだった。先住ハワイ民族運動指導者の一人でもある著者は、国家内国家を目指した主権回復運動に取り組んでいる。通読後、感銘を受け、翻訳を試みたが、部分的なものに過ぎなかった。2000年の春に、改訂版をハワイ大学の書店で購入し再読したときも、本格的な翻訳に踏み切れないでいた。 ところが、2001年2月、実習船えひめ丸が、米海軍の原子力潜水艦に衝突され沈没するという大事故が起きた。事故のほとぼりがさめやらぬ3月、ハワイを訪れた私に友人の一人(先住民)が、「真珠湾の時と同じように、今回も、日本と米国という大国が私たちの庭先で喧嘩している」と言ったのだ。私はハッとした。こうした先住民の視点がマスコミ報道に欠落していたからではない。私自身にも、この視点が欠落していたことに気付いたからだ。数年間、ハワイ語の復権運動を調べてきたものの、第三者的な観察に慣れ切っていた。友人の言葉は、そのような自分の姿勢に対する警鐘となった。この一言がきっかけとなって、私は本書の翻訳を決意した。早速、ホノルルのハワイ研究センターを訪ね、翻訳の許可を申し出たところ、トラスク教授から快諾を得ることができた。 ワイキキのビーチやショッピングセンターに群がり、数日滞在後、おみやげを抱えて帰国する多くの日本人にとって、先住民の置かれている状況がどのようなものか、先住民が何を考え、何を訴えようとしているかなどということは、関心の対象にはなりえないかもしれない。「楽園」に行ってまで、そのようなことは考えたくないはずだ。しかし、そうだからこそ、本書の投げかけている問題から目をそらしてはいけないと思う。 *翻訳は『大地にしがみつけー先住民女性の訴え』として今春発行の予定。 |
| 工藤 正三 Sho-zou Kudou (新井奥邃先生記念会幹事) |
奥邃と酒 (2) 奥邃帰朝直後から親交のあった医師狩野謙吾は、奥邃の体質健康状態をよく承知しており、医師としての立場から、「酒は先生の健康に最も必要であるから、毎日一定量ずつ差上ぐるようにせられたし…」と木公に注意した。彼は、それからなるべく欠かさず奥邃に酒をあげるようにしたという。それは謙和舎が建つ以前、大塚辻町で、奥邃が木公と寝室をともにし、十数名の学生や書生らと共同生活をしながら薫育にあたっていた明治三六年のことである。 木公がいうには、謙和舎以後も含め、彼自身秋田で常用していた「親玉」を奥邃も愛玩し、命を終るまでその酒を用いたという。奥邃の馳走にあずかった者によっては、「両関」あるいは「太平山」だったともいう。いずれにしても、奥邃の愛飲した酒は概して秋田県産、辛口の銘酒だったようである。 酒にまつわる面白い逸話などないものかとよく訊かれるが、俗人を悦ばす如き話はほとんど見当らない。 木公・中村千代松は、酒量はさほどではないが、酔うと必ず一席詩を吟じたという。愛誦するのは藤田東湖の「三たび死を決して死せず、二五回刀水を渉(わた)る」云々という詩一点のみ。朗々美声で最後の一句に差しかかるや突然吟詠を中断、「斃(たお)れて後(のち)已(や)む」が原詩だがこれは先生の教旨により特に改めて吟じます、と自ら注釈を加え「斃れて復(ま)た起(た)つ」と朗吟。奥邃の前で詩や歌を朗誦できるのは彼だけだった。 江渡狄嶺は酒のため奥邃から破門されたと伝えられている。 明治三三年一月二日の新年会の席上酔った狄嶺の乱暴が少々度を越し、あとで奥邃が注意したときのことをおそらく指していよう。しかし、奥邃は一度の過ちぐらいで門下生を拒み斥けるような人ではない。門下仲間も彼を譏(き)排(はい)した気配は一切ない。原田嘉次郎は山羊のことで三蔦園とは深く関わるし、狄嶺を奥邃に紹介したと思われる中村秋三郎は旧制二高以来の親友であるが、終生家族ぐるみで親交をつづけ、柳敬助も彼を訪ねる仲であった。 奥邃は、隅田川の舟遊びに狄嶺を誘い二人だけで悠々半日清遊したこともあった。酒欲しさに夕方訪ねてくる狄嶺のことをおそらく承知の上で、だれに対すると同じように、馳走を並べ酒をくみ交わしたことだろう。ただ、妻子ある身の愛弟子の将来を憂慮し、酒で他に迷惑をかけたり酒毒に冒され身を亡ぼす愚を懇々といましめたことだろう。 狄嶺自身この業病からの解脱に悩んでもいただけに、奥邃の切々たる訓戒は身にこたえたはず。 狄嶺は人知れず幾度禁酒を誓ったことか。 酒癖の「業(ごう)」から脱し切れない狄嶺は、自然奥邃から離れていったものと思われる。一方奥邃は狄嶺の「百性愛道場」のなりゆきを心配し、時折中村秋三郎あたりから様子をきいて、徐々に発展しつつあることを心中密かに喜んでいたのかもしれない。奥邃は、離れていった者についても、将来の安泰を祈る人であったからである。 破門云々の話は、「業」の呪縛からのがれ得ない狄嶺の一種照れ隠し的創作と見るのが、正鵠を得ているのではないだろうか。 |