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| 第 七 号 |
| 岸田 秀 Shu Kishida (和光大学教授) |
グラビア・アイドルの世界 『週刊プレイボーイ』という雑誌があるが、日米関係についてインタビューを受けたことがきっかけになって、毎号送ってもらっている。世界情勢やスポーツの記事、漫画などのほかにいつも何人かの女の子の(セミ)ヌード写真が載っていて、毎週眺めて大いに楽しんでいる。楽しんでいるうちに、この女の子たちは、にこやかに微笑んだり、誘うような目付きをしたり、すましたりして、立ったり座ったり寝転んだりのいろいろな姿で若く美しい肉体を誇示し、まさに青春を謳歌しているかのようであるが、結構厳しい競争世界にいるのではないかと思うようになった。 どの程度裸を見せるかは、水着姿以上は見せないのからヘア丸出し(欧米と違って、性器まで見せているのはないが)に至る間のすべての段階にわたる微妙な差異があって、実にさまざまである。下着を着ていても、それが濡れていて乳首やヘアが透けて見えるとか、オールヌードで何も身に着けていないが、手で隠していたり、後ろ向きまたは横向きになっていたりして乳首やヘアは見えないとか、ブラジャーが外れかけていて乳首がちょっとだけ見えるとか、パンツがずれてヘアがあるかないかほどのほんの少しのぞいているとか、覆われてはいるが豊かな乳房がありありとわかるとか。いろいろ工夫をしているが、こういうことは当の女の子の羞恥心とか露出欲とかだけで決まるのではなく、どこをどのようにどこまで見せるのがその女の子の魅力を高めるのに最も効果的かという専門的な誰かの細かい計算と判断でもっぱら決まるのであろう。それぞれの写真は、その背後に何十枚もの捨てられた写真がある選ばれた苦心作なのであろう。 女体の魅力は幻想であって、実体はないのであるから、身も蓋もなくすっかりムキ出しに見せてしまえばうたかたのごとく消滅することは必定で、見せるかのようで隠し、隠すかのようで見せるという揺れ動く不安定なせめぎあいのなかにしかなく、隠されているところがそのうちいつか見られるかもしれないと期待させ想像させることによって高まるのだから、見せ過ぎてもダメ、隠し過ぎてもダメで、しかもどの程度が適当かは個々のケース、個々の女の子で異なり一定していないから、この判断は極めて難しいであろう。特に、これまでヌードを見せたことがなかった女の子が一挙にヘアヌードを公開したりすると、センセーションを巻き起こし、爆発的な人気を呼ぶことがあるが、しかしまた、人気の衰えかけたアイドルがあせって最後の手段にすがったと見られてあざ笑われるかもしれず、そのいずれになるかも場合によるので、容易に予測できないであろう。 いずれにせよ、まかり間違えばたちまち脱落するそのような激しい競争に生き残った女の子が雑誌のグラビアに登場しているのであろう。しょっちゅう登場する女の子もいるし、ときどきの子もいるし、知らぬ間に姿を消す子もいるし、その栄枯盛衰はまさに大相撲の番付けのようで、A子とB子は横綱、C子は大関、D子は関脇といった風になっているのであろう。E子は前頭十四枚目に落ちているが、以前は小結であったとか、F子は三役に返り咲いたとか。そして、多くの女の子は、この世界に入ったものの、十両にもなれず挫折するであろう。 テレビで昔の有名力士の名勝負の場面が放映されることがあるが、それと同じように、雑誌で昔の有名グラビア・アイドルの(セミ)ヌード写真が特集されたりする。また、相撲界にハワイやモンゴルからきた外人力士がいるように、雑誌にも韓国やオランダなどからの外人ヌードが載ったりする。また、高校や大学の相撲部にアマチュア力士がいるのと同じように、ときにはOLや女子大生などの素人が雑誌にヘアヌードを披露したりする。 そして、今現在、この世界でプロとして表舞台に立って活躍している女の子は選ばれた人たちであって、関取と同じぐらいの限られた数しかいないであろう(序二段や序の口のクラスを含めれば、もっと増えるであろうが)。そして、十年も経てば、今の関取のほとんどは番付け表から姿を消しているであろうが、それと同じく、今やまばゆいばかりに美しいこのアイドルたちのほとんどもヌード・グラビアから姿を消しているであろう。 |
| 山本
真弓 Mayumi Yamamoto (山口大学助教授) |
おとこ オトコ 男 そもそもどうしてそんな話になったかというと、なだめたりすかしたりしながら二〇年以上にわたって一緒に暮らしてきた痔が、ひと月ほど前からどうにも言うことをきかなくなって、死ぬまでこいつとつきあってくつもりだったけど、ついに別れ時かな、と思いつつ、一年前に痔の手術をした友人にどんな具合かを尋ねたからだった。 彼はわたしに手術を勧め、わたしの不安を取り除くかのように入院中のことを事細かに教えてくれた。術後二週間の入院中、毎朝、若い看護婦がやってきて、彼のおしりを両手で開いてなかを覗き込むと、術後の患部の状態を確認するのだという。「いやあ、自分より若い女性に尻の穴を見られるなんてねえ」とさも可笑しそうに、いくらか恥ずかしそうに言うのを聞いていて「ああ、男ってナイーブなんだ」とつくづく思ったのだった。 そういえば、尻の穴まで見られる、といった表現があるが、これなんかは、女のわたしにはピンとこない。なぜって、尻の穴どころか、女のわたしは彼より短い半世紀足らずの人生で、もう何回脚を開いてアソコを人目にさらしたかわからないからだ。別にセックスのときだけではない。四〇歳を過ぎた女ならば、毎年、子宮ガン検診というのがあって、それは内診台のうえで脚を開くからだし、出産経験があれば、赤ん坊が出てくる前後は脚を開きっぱなしだったはずだ。二〇代前半で子宮内膜症を患ったわたしは、その頃から定期的に婦人科の内診台にあがっていた。それを、恥ずかしい、と思ってたら、生きてなんかいられない。友人にそう言ったら、「そうかあ。男は年に一回オチンチンを医者に見せる、なんてことないもんな」と感心する。女が男より肝がすわってるとしたら、もしかしたら身体構造上の差異に基づく、こういった経験のちがいにその原因の一端があるのかもしれない。 そうこうしてるうちに、痔は再びおとなしくなり、すったもんだの末の別れ話もいずこへと消えてしまった。 |
| 谷川
俊太郎 Shuntaro Tanigawa (詩人) |
一緒に寝棺 中江俊夫は若いころからの友人だが、私は彼の詩にずいぶん影響されている。中江は何回か細君を替えていて、私も何回か替えたが、これは別に彼の影響ではない。しかし二人ともスケベだというところは似ているかもしれない。ただし、彼には私にはない女に対する仮借ない目がある。 [女に だいじな物は任せるな/資産なら乗っ取られ/金は使いこまれ/男は騙されると/もっぱら 相場がきまっている]で始まる「反時代的教訓」という詩は次のように終わる。[邪悪そのもので出来ている女は/寝棺に寝かすまでは 安心できない/根っからの馬鹿でないかぎり男は/自分の魂を与えないものだがもしそうしたいのなら/今すぐ一緒に 寝棺に寝るのが一番さ] 魂を与えるなんて言うと男のほうが偉いみたいだ、魂はサッカーボールじゃないんだから、簡単にはパスもレシーブもできない。その点では女も男もないだろう。だが考えてみると、どうも私は女から与えられる魂を受け取り損ねてきたような気がする。からだのほうはどうにか受け取れたとしても。 中江はまた「若い女に」という若書きでこうも書いている。[蛇のうまれ 猫のうまれ/僕の部屋にはいりこみ 四季を忘れて/僕に見つめさせ 奇妙に鳴くやつらが/僕の友達なんですか?] 彼は何事にも中途半端が嫌いな男だから、女に対しても徹底的なんだろうと思う。私とは逆に、女は中江の魂を受け取り損ねるのではないだろうか。魂のやりとり(妙な言い方だが)というふうに考えると、女と男の仲がいくらでも深いものになり得る。からだの喜びだって魂に直結しているのだから、一緒に寝棺というのも悪くない。 |
| 佐々木
幹郎 Mikiro Sasaki (詩人) |
あくなき後退戦の中で 先日、イラク戦争のニュースばかりが紙面に踊っている新聞を読んでいて、これだからわれわれは戦争をしても負けるはずだ、と納得した。わたしに「衝撃と恐怖」の体験が襲ったのである。 新聞記事には、こんな内容が書かれていた。ある朗読を男性と女性に聞かせて、脳の反応を調べてみた。その結果、男性は左脳だけが反応しているのに対し、女性は左脳と右脳が同時に反応していることがわかったという。右脳は感情をつかさどる。女性は男性と違って、朗読を聞くとき、論理をつかさどる左脳と、感情をつかさどる右脳とが、瞬時に情報を交換しあっているのである。 こういうことだから、ぼんやりしている男性が、女性の直感力に足元をすくわれるのはやむをえない。勝てるわけがないのである。とにかく、肝心なとき、右脳が寝ているのだからね。 半世紀以上を生きてきて、思い当たることが多々ある。 あるテレビ番組に出演する機会があったとき、番組を見たわたしの友人の一人は、髪の毛がめっきり薄くなったね、と電話で言ってきた。こういうことを平気で言うのは、女性に決まっている。彼女にとってはその番組でのわたしの発言内容よりも、髪の毛の様子だけが気になったらしい。右脳が活躍していたのだろう。 「まあ、そんなことしか言ってこないんですか?」と、その話を聞いて驚いた声を出したのは、同じ番組を見ていたという、わたしの髪をいつも担当してくれているヘア・デザイナーの女性だった。わたしは髪をカットするとき、理髪店ではなく美容室を利用する。 四十歳になったとき、決めたのだ。これから男として、二つのことに気をつけようと。一つ目は、ファッション。二つ目は、体力。この二つは、中年以降の男性が一番おろそかにすることだから、わたしは逆を行こうとしたのだ。 わたしの髪の毛について文句を言ってきた人がいると聞いて、ヘア・デザイナーはプライドが傷ついたらしい。彼女は職業柄、わたしの髪の毛が薄くなったとは決して言わない。軽くパーマをかけませんか、いっそもっと短くしましょうか、同じスタイルだと飽きるでしょう、友達を驚かしましょう、などと言って、それ以来、冒険を勧めてくれる。わたしはすべてを任す。 ヘア・デザインをゆだねるわたしの気持ちの中には、男性理髪師に任せるよりはずっと安心だという気分がある。彼女がいつか、もう坊主にしましょう、と声をかけてくれるときがきたら、素直に従うだろう。髪の毛という、勝負することのできない後退戦で、わたしは圧倒的に受け身である。ヘア・デザインという領域は、論理と感情が同時に働く。へんなことだが、そのときのわたしは半分以上、女性になっているのかもしれない。 |
| 室井 佑月 Yuduki Muroi (作家) |
難しいことなのか 以前にくらべて臑毛が濃くなった気がしてならない。鼻の下の産毛の本数も増えたかもしれない。そういえば足も臭くなった。これはあたしが、最近、女であることに未練がなくなったのとなにか関係があるのだろうか。 三十三年間、女をやってきた。ミスコンテストに出たり、クラブのホステスをしたり、女ということを生かしそれで飯を食っていた時期もあったが、いきなり最近、女でいることが馬鹿らしくなったのだ。 まず、化粧をするのが面倒くさくなった。なぜ、女は化粧をしなくてはならないのだろうか。生活していく上で、男より女の役目は多いというのに。 たとえば、働きながら子どもを育てる。保育園の閉園時間に脅える毎日。仕事仲間からは「やる気ないんじゃない」と嫌味をいわれ、五分の遅刻でも保母たちからは説教をくらう。子どもに飯を食わせ、風呂に入れ、寝かしつけを済ますと、自分の時間などない。せめて土日は身体を休ませたいと思うが、そうもできまじ。 けれどよそ様から、「お母さんが働いていて、お子さん、寂しいんじゃない」というようなことをよくいわれる。これとまったくおなじことを父親がやっていたら、「なんていいお父さんなんだ」と感激されるだろう。 ね、女でいるのって馬鹿らしい。だからあたしは、自分が女であるということをあまり考えないことにしたのだ。女、というより、人間というもっと大まかなジャンルであたしを見てほしい。まわりの人たちにもそう宣言しておいた。 そして先月のこと。女友だちとバリ島に行った。大きなビラをみんなで借りた。そのビラの庭にはプールがついていた。水着に着替えいざ泳ごうとすると、友だちの一人に手入れを怠った脇を指摘された。 「あんたそれ……」 「ああ、これ? あたし、気にしないから」 「いや、あんたが気にしなくても、みんな気になるから」 そういうものなのかしら。女を放棄するのは、難しいことなのかもしれない。 |
| 竹内 敏晴 Toshiharu Takeuchi (演出家) |
要約は文に非ず 中学三年生の時、娘が社会科の教科書を持って来て、ココゼンゼンワカンナイ、と言う。 見ると議会の機能に関する章だ。一読すらすらと判る。どこもムツカシクない。どこがわからないの?ときくと、ゼーンブ、マルッキリ、という返事。 仕方がないので行を追って話していった。院の構成、審議事項、総理大臣の選出……。 「そんならよくわかる」と娘。と言ったって、書いてある通りにしゃべっただけだが……? 娘が去ってからもしばらく考えていた。 突然気がついた。 そうか! あれは要約なのだ。内容を既に知っている大人の知識を順序よく並べた整理ダンスだ。 だが――初めて文を読むとはなにか? 子どもが一つ一つのことばに出会ってゆくたびに、そこから新らしい世界が立ち上って来ることではないか。 教科書から要約を追放せよ。要約は文ではない。死んだものだ。 |