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| 第 七 号 わいわいガヤガヤ通信 |
| 浅見 洋 Hiroshi Asami (石川県立看護大学教授) |
死のポルノ化現象に抗して ポルノというのは「人間の一番プライベートで、本来大切にすべき聖なる部分をモノと見なして、売り物にすること」である。そして、情報化社会では性も死も否応なしにポルノ化せざるを得ないのではなかろうか。テレビ番組では愛らしい少女たちが赤面せざるを得ないような性体験をあっけらかんと語るし、高度成長期の申し子であった日活ロマンポルノなどはインターネットのアダルトサイトと比べたら、おそらく古色蒼然としたものであろう。 テレビやゲームには死や暴力シーンが溢れ、「○○殺人事件」などという書名は溢れるほどに人口に膾炙している。また、若者たちはホラーやオカルトビデオを好み、ゲームで子どもたちは痛みを感じることなく殺人、破壊行為を行い、その延長線上で生身の人間のいのちさえ平然と奪いかねない。 視聴者や読者の好奇心を刺激するためだけに、本来は公開すべきでない他人の悲しみや痛みやおぞましさが売り物にされている。古いと非難されようが、情報公開が進もうが、性や死をあからさまに公衆の面前にさらし、売り物、見せ物にするのは人間性の冒涜であり、堕落であると思う。性は二人だけの秘め事であり、死は近親者のみが看取るがゆえに、愛や生の畏敬を育むのである。神秘で、秘匿性をもった経験をゲーム感覚でモノに変化させ、視聴者を獲得するためにさらしてしまうのは情報化社会の性である。 書店に「死の本」のコーナーがもうけられるほどだが、最近私自身もそこに『二人称の死』という本を一冊加えた。死を売り物にしているつもりはないが、意に反してポルノ化現象の一端をになうのを恐れている。言葉の氾濫によって、それがもつ生身のイメージが薄れることもある。死や性はいつまでも生身の人間の喜怒哀楽が交錯する、不可避で聖なる体験であって欲しいと思う。 (『二人称の死 ――西田・大拙・西谷の思想をめぐって』を小社より刊行) |
| 河波
昌 Akira Kawanami (東洋大学名誉教授) |
もう一つの「平等」について 「自由」とともに「平等」ということばも民主主義の代表語となっている。とにかく平等でなければ民主主義ではない、というわけである。フランス革命の折の「人権宣言」における自由・博愛・平等はフランス人のみならず日本人をも熱狂させ続けてきた。 ところでその平等についてであるが、実はフランス革命よりもはるか以前からその思想は日本人の精神の根底に流れていたのである。そのことをたとえば法然の「一切衆生平等往生」(『選択本願念仏集』第三章)にもみることができ、また宇治の平等院の名はあまりにも有名である。 その思想の伝統を遡源するとき、そこでは、インド大乗仏教における『般若経』や『華厳経』等に実に豊かに展開されていたのである。とりわけ『華厳経』のごときはその全体が「平等経典」とさえいえるほどなのである。それはヨーロッパ文化の地平を超えて、人間と自然との間の、そして神と人間との間の差異さえも超えて、その平等が展開されているのである。そして重要な点はそれらの経典に説かれる平等思想の根底に「空」の思想が前提されていることである。たとえば『華厳経』中の、 「無性(空)なるが故に平等なり」(十地品) 等はその一好例である。山川草木に対してもそれらをたんなる対象として見るのでなく、その一々に無限の近親性を感じ、それと交感していた日本的感性のうちにも平等思想は流れているのである。 ところでかかる平等を西欧的な平等と対比するとき、同じ平等の語を共用しつつも、両者の間に雲泥の差のあることに気づく。 実は西欧語のequalityに対して東洋の数千年の伝統を有する「平等」の語を当てたのが東洋文化にとってそもそもの悲劇の始まりであった。むしろ平等ということばはそのまま温存しておいて、たとえば「同等」といったことばを充当しておけばよかったのである。実にイクォリティに「平等」という訳語を当てることによって「平等」自体はその伝統的な内容を完全に消滅せられてしまって、たんなるイクォリティでしかなくなっているのである。たんなる一訳語の問題とはいえ、その一語の翻訳によって二千年にも及ぶ大乗仏教の中核的な思想内容そのものが殺戮せられ、イクォリティにおきかえられてしまっているとさえいってもよい。平等という用語が世間に流布しているといっても、ほとんど誰一人としてそれが本来の仏教語であることを自覚している人はいない。日本人は政治的な植民地化は免れたとはいえ、思想的にはその言語一々に至ってまでその植民地化の遂行の中におかれているといっても過言ではない。 本来の東洋的な平等とは決して一律的ではなく、実はそこで無限に多様にして豊かな種々万別の世界を生み出す基盤ともなっていたのである。そのことはたとえば『法華経』における、 「仏の平等の説は一味の雨の如し、衆生の性に随って受くる所の不同なること、かの草木の稟る所の各各異なるが如し。」 等の経文に、また修道に徹した一仏教者、田中木叉の、 白は白黄は黄のままに野の小菊 とりかえられぬ尊とさを咲く の歌にもみることができる。 東洋思想における平等は、たんなる差別と対立する平等を展開する西欧的文化の地平を超えて、どこまでも差別即平等であり、また平等に即して差別なのである。それは高次の平等論とも称すべきであろう。とくに日本の現代における教育について考えるとき、改めて本来の平等について熟慮さるべきではなかろうか。 (『形相と空』を小社より刊行) |
| 島岡
光一 Koichi Shimaoka (埼玉大学教授) |
風を感じる 息を切らして山林を登る。小高い高台に立つ。汗で湿った肌が風をとらえる。下方から、木々のざわめきと谷川のせせらぎが風に乗りハーモニーとなって這い上がってくる。それは冷気、いや霊気かもしれない。雨と風を存分に浴び、ぼくも風になる。学生と共に野麦峠を越え、ぼくはこの体験を二十年間続けてきた。 つい先日、「園芸セラピー」専門学校の寄せ植え講習会に出かけてみた。先生から与えられたお題は「里山」。 制作した寄せ植えに、ぼくは「かけっこ神社」と名づけた。作品の説明を求められ、ぼくは「かつて一度もケンカに負けたことがありません。なぜなら、逃げ足が速かったからです。その逃げ足をこの神社の参道で鍛えました」と。 ぼくがつくった寄せ植えは、ご神体のそばに一本杉があり、周りには低い木々、下の方に田んぼがひろがっている…。土を盛ったり掘り下げたりしながら地形を整える。杉の苗木の根に意識を集中させる。先生が「土を払いのけ過ぎないように」と注意してくれた。そうか。そこにちゃんとからみ合った一つの世界があるのだな。微小な生物の墓場。陽が当らない場所。それでいて生命の源でもある場所。ふと、古事記や日本書紀に登場する特異な「国」、「根の国」をそこに連想した。「里山」はたしかに心に根づいている。 幕末に吉田松陰という先生がいた。彼は刑死(二九歳)を目前に、志士と百姓に宛て「草莽崛起」(すべての草よ、萌え出よ)という言葉をのこした。 ぼくは、これまでの講壇(「高天原」)から観た俯瞰的な経済学をひとまずフォーマットして、コミュニティの基層(「根の国」)から「草莽崛起」するネットワーク、いや「根っと輪ーく」の経済学と真っ正面に向かい合う決心をした。その一端を編著『野麦峠に立つ経済学』に著した。 ぼくは、毎日、その鉢を外気に当てている。「根の国」でからみ合う木々の隙間からぼく自身が起こした気流が漏れ出るのをかすかに感じている。 (『野麦峠に立つ経済学 あなたの本気が世界を変える』を小社より刊行) |
| 伊藤
松雄 Matsuo Ito (四国学院大学助教授) |
菫 小学校に通う娘が「春をみつけたよ」と道端に咲いた花の絵を誇らしげに見せてくれた。スミレである。驚いたことに、描かれたスミレは実物とはずいぶん違うが、どことなく似ている。スミレの花には上に突きでた一対の上弁、一対の側弁、一対の唇弁の合計五枚の花弁があるが、どれもちゃんと描かれているからだ。これに似て上に突きでた二枚の花弁をもつ草花にツユクサがある。こちらの花弁は三枚と少ない。花壇を黄色や紫色で賑やかに彩るパンジーやビオラの大きな花も、よく見ると、色や模様で容易に区別できる上向きの二枚の花弁があり、スミレの特徴を残している。 万葉の昔から春の野を飾ってきたスミレの名から清楚な美しさを連想するのは私だけではないだろう。ところが、野に咲くスミレは美しい草花の扱いを受けていないようだ。同じスミレでもヨーロッパ生まれのパンジーは、季節はずれの花壇でその色鮮やかな大きな花弁を揺らしている。そして、パンジーが咲き誇る花壇の片隅や舗装された道路の端にひっそりと咲くスミレは、しばしば雑草のようにとられてしまうのだ。スミレと知ってか、雑草と間違えてか、その地上部が削りとられるのであるが、どっこい、体は小さくなっても、地下にある大きな根の栄養によって翌春もしっかり顔を出し、けなげにもまた可愛い花をつけてくれる。花が小さくても、花の時期が短くても、また人が勝手に決めた花壇の中に納まっていなくても、毎年春の訪れを告げてくれるスミレを楽しめる心のゆとりをもちたいものだ。 (『里の植物観察記』を小社より刊行) |
| コール・ダニエル Cole Daniel (福岡女学院大学助教授、『新井奥邃著作集』監修者) |
奥邃と出遭う(2) 奥邃の名を知り、彼が非戦論者であり、「黙」と「実業」を重視し、フェミニスト神学に通ずる父母神観を唱えたことがわかったとき、クエーカーの私はとてつもなく惹かれた。こんな人物が日本キリスト教思想史上に実在したことは驚きで、今まで想像しなかった世界の扉の前に佇んでいる思いがした。だが一九八七年当時、『奥邃廣録』は稀覯本で、じかに「取りて読む」機会も能力もないと堪忍した。 かわりに田中正造について読み漁った。林竹二は正造を旧約聖書のヨブに擬したが、日本の民衆的伝統から湧き上がった解放の神学の実践者として、私は預言者ミカの言葉を想起した。「人よ、エホバの汝に要め給ふ事は唯正義を行ひ憐憫を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや」(ミカ書6・8) 八九年、福岡に職を得て大学人となった。岩波より『田中正造選集』が出た頃で、正造の文語体を読む手ほどきを当時同僚だった木脇悦郎教授から受けた。その秋には思いがけなく、妻が林の「新井奥邃ノート」の掲載された『人間雑誌』を古本屋で見つけてくれた。初めて永島忠重の『新井奥邃先生』を読むことができ、奥邃の文に触れえた。 やはり、深い! 奥邃の一見晦渋な表現は、あのエックハルトの説教に似た、高尚な直観性と読み手に対する諄々とした熱意を湛えていた。「いつか『廣録』を見出し、読もう!」との念いが募った。 そして一九九一年の初夏、日本のプロテスタント一般信者向けの雑誌に、『奥邃廣録』復刻の広告が目に飛び込んだ。よもやこんな「大衆」雑誌に奥邃が宣伝されるとは……。一刷はすでに完売と聞かされ、『廣録』が相当待望されていたことを実感、二刷が届くのを待たなければならなかった。 届いた『廣録』を一巻ずつ開いて眺めたとき、私は、やっと出発点に辿り着いた戦慄感に襲われた。 |