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| 第 八 号 |
| 木田元 Gen Kida (哲学者) |
花売娘との恋 小学校五、六年のころ、しばらくのあいだ私はその花売娘に恋をした。人(ひと)気(け)のないのを見すまして応接間にしのびこみ、ケースの前で夢想にふけっていた。まだセックスには結びつかないものの、かなり性的な要素の入った夢想だった。言いつけられたり裏切られたりする心配のない人形と心を通わせ合ったように思いこんでいた、妙な安心感のあるあの甘酸っぱい気持、いまでも時どき思い出す。 |
| 四谷シモン Shimon Yotsuya (人形作家) |
竹べらを置くとき ガラスの目にかぶさった顔料の胡(ご)粉(ふん)をそぎ落とす。その瞬間から徐々に人形の目が開いていく。まなざしは私を見ている。私もそのまなざしをつかみ取ろうとしている。手に持った竹べらが私とそのまなざしの橋渡しをしている。 人形の目のガラス面が徐々に広がっていく。瞳を中心に、それから白目の部分にと。 ときどき水分を含ませながら、目がしらや目尻に向かって何度も竹べらを動かしていく。目そのもののかたちは胡粉を塗る前にすでに決まってはいるのだが、仕事の工程としてこの過程を省略することはできない。それこそ一ミリの数分の一ともしれない竹べらの運動によって、どういう目をした人形になるかが決まる。 ようやく目の全体がみえてきた。目があいたのだ。しかしこれは目があいただけだ。それでも人形は私を見ている。だが私は、そのつくられたまなざしがいまだ好きではない。なんなのだろう。私の脳髄にガチっとこない。このガチが大切だ。こんな作業を何十年やってきたのだろう。 ここからまた一勝負しなくてはならない。私は、この人形のまなざしに負けるわけにはいかない。いやでもこのまなざしを私のまなざしにと、ねじふせなくてはならない。 竹べらを置くときはいつなのだろう。止めどきはいつくるのだろう。 私が見るまなざしも、つくられたこの人形のまなざしも、できることなら彼方、いや、無そのものであることを願っているのだが。 |
| 恋月姫 Koi tsuki hime (人形作家) |
神への捧げもの 子供の頃、ある年のクリスマスの朝、枕元に一体の眠り人形が置いてあった。嬉しくて、よく遊んだ記憶がある。手近にある布を人形の体に巻き付け、物語の王女様や架空のおともだちに見立てて遊んだものだ。 ある日、いつものようにスカーフを人形に巻き付け着物に見立てて遊んでいた。その様子を目にした母が、一晩でちゃんとした仕立ての晴れ着を縫ってくれたのだが、その時から人形は、私の幻想の庭園から去り、現実のものとなった。私はそのことに驚いた。それからというもの、いつの間にか私は玩具人形とは遊ばなくなってしまった。 「人形」とは、手が届かないくらいに何かが足りないのがよい。たとえば恋焦がれる対象の写し身のように、眺めていると意識がこの世から浮遊してしまう不思議なモノなのだ。 いつかの夏、スペインのバルセロナから南にある町、バレンシアで数日過ごしたことがある。街が休息し静まる真昼どき、陽光照りつけるなか市場を目指していた私たちは、シエスタが終わるまですることもなく、中世の面影を今に残す街を散策した。その道に佇むゴシック建築の古い教会の扉を開け、ひんやりとした空気の漂う空間に入った。 子供の玩具として形作られるずっと以前から、人形とはそういうものだった。私はいつでも形無きものを求め、またそれに近い感覚をもつ形を探している。見えるものと見えざるもの、そのはざまに垣間見えるこの世のものでないもの、私たちの細胞のうちに眠る「神の光」を人形は見せてくれると、いつの頃からかそう思うようになった。 「神への捧げもの」としての人の形。そこに仄(ほの)見える、魂の浄化は、人がこの世に残してきた罪をすべて神の意とするに違いない。信心する神をもたぬ私は、そんな幻想を果てしなく繰り広げてくれる「人形」という夢の装置が好きだ。それこそが、信仰のない私が心の底で惹かれていく「神」と交われる唯一の方法でもあるのだから。 |
眉村卓 |
人形って、どうなのかなあ 人形といえば、髪の毛が伸びるとか、昔の人形のまなざしとか――いろんな話があり、会話では一応調子を合わせるものの、人形に対する思い入れめいたものは、私にはない。 強いて言えば、それなりの機能を持つロボットも、まあ人形の仲間であり、人間そっくりなのがアンドロイドということになるけれども、アンドロイドなんてある意味で人間の対極的存在であろう。これはこれで、アンドロイドとして論じるべきなのだ。 大体が人形とは、人間の属性から何を抜き取るかで成立するのである。いのちは当然として、大きさ、機能、その他もろもろ。その結果が可愛いと言われたりグロテスクとされたりするので、正直、人間に近ければ近いほどつまらない。 そんなわけで私は、ホラー映画の明確で奇怪な現実感のある怪物より、あるかなしかのこちらの気持ちによってどうにでも受けとめられるオバケのほうが好きであり、骨董店の精密な仕上げの人形より、バラエティショップの変てこな物体に引き寄せられるのである。 小さな目がひとつだけあり、体がけむりで不定形で、ときどき机に出現する――そんなものがあったら、楽しいだろうなあ。 |
| 谷川俊太郎 Shuntaro Tanikawa (詩人) |
私の人形たち 人形について書けと言われて、人形なんかに興味ないと言おうとしたが、ふとあたりを見回したら人形がありました、いやいました、いくつも。 コンピュータを前に椅子に座っている石膏の骸骨(多分メキシコ産)、昔ながらの錫の兵隊、巨大なペニスを突き出している石の小男(どこで買ったか忘れた)、ニューヨークで手に入れたゼンマイ仕掛けではいはいする妙にリアルな赤ん坊(ちょっと不気味)、オスロの民族村で買った丸々太った木製小母さん人形(下が丸くなっていてゆらゆら横揺れするのが可愛い)、小アジアのものか、蝋石に浮き彫りされた男、それに極め付きは父が昔北京から買って帰った宋赤絵の童子の坐像、それから古代ギリシャのテラコッタのいわゆるタナグラ人形。いずれもいわゆる人形らしい人形ではないが。 そう言えば私には人形を主人公にした写真絵本もあった。名をなおみというその人形は背丈九五センチの縫いぐるみだが、初めて見たとき背筋がぞくっとしたほどなまなましかった。作って下さったのは加藤子久美子さん、作るのに四ヵ月かかったということだ。 「人間そっくりのすがたかたちをもっていながら、人間とはちがって生れも育ちも死にもしないもの、いわば凍りついたような時間を生きている人形というものと、やがておとなになるなまみの少女、そのふたつの存在の交流と対比のうちに、時間をとらえることはできないだろうか――」 そんな着想で作られたこの絵本『なおみ』は、絶版になったいまでも、時折懐かしがってくれる人に出会う。あ、またひとつもう手元にはないが、昔ニューオーリーンズで見つけた稚拙な人形を思い出した。スカートをひっくり返すと白い顔が黒い顔に変る、二つの上半身をもつショッキングな人形だった。人形はときに言葉よりも多義的に、しかも正確にいのちを語る。 |
| 佐々木幹郎 Mikiro Sasaki (詩人) |
観音菩薩偏愛 小さなものが好きである。人形でも大きなものではなく小さな人形が好きだ。わたしの机の上に今あるのは、鉄腕アトムと恋人のウランちゃんのブリキの人形。カトマンズで買った木彫りの観音菩薩像。本棚に並んでいる人形は、いや、これはヒトではないな、繭玉で作った猫、猫、猫。ヒマラヤ山岳部の寺院の僧侶が粘土をひねって作った高山牛ヤク。チベットの泥で固めた仏たちのレリーフ。ブリキ製のチベット密教の男女神抱擁像。片手に玉を捧げて笑っている真鍮製の子象(ヒンドゥ教のシバ神の化身らしい)。ポルトガルで買った中世の木彫りのカトリック僧の像。 あらためて並べてみると、宗教関係の人形が多いな。どうしてだろう。そんなものを集めるつもりはなかったのだが、あちこちを旅している間に、いつのまにか小さな人形を見ると、つい手を出してしまうようになった。脈絡もなく、ただ、こいつらはわたしのまわりにいる。 カトマンズ盆地のはずれの村で、木彫りの観音菩薩像を手に入れたのは、木彫り師の家でだった。高さは十三センチほど。座像で、極端に腰が細く、官能的に肢体をひねっている。乳房が大きい。両足はしどけなくあぐらをかき、首を傾けて微笑している。沙羅双樹の木で彫られていて、三百ルピー(約六百円)だった。観光用に大量に作られたものだが、カトマンズ市内の土産店では、これと同じような美しい顔だちの人形には滅多にお目にかからない。寺院でも見たことがない。すっと引き寄せられるようにして、棚から取り出し、眺めているうちに、わたしはこういう可愛らしい人形を、自分のまわりに置いてよいのだろうかといぶかった。 愛してしまったのである。ひときわ美しいと思われる顔だちの像を選んで、自分のものにしたとき、何か悪いことをしているような気分になった。それ以来、わたしの机の上の電話機の横に、彼女は今もいる。ときどき、その細い腰をつまんでみたりしているのだが、どうも異国の仏は微笑しながらも、わたしを嫌いらしい。その官能的な肢体と顔だちばかりを愛でるので、仏である彼女はわたしを軽蔑しているようなのだ。その冷やかな眼差しがまたいい。惚れたが悪いか。 |
| 竹内 敏晴 Toshiharu Takeuchi (演出家) |
他人地獄 その青年はいつもにこにこしていた。だれに対しても。 「からだとことばのレッスン」の場に入ってかれは相手と向きあったが、動かない。なにもしようとしない。相手が近よろうとすると、拳をぎゅっと握り締め、目をさまよわせ、じりじりと尻を退いて、それでもにこにこは変らない。 ちぢこまり、ひとの顔色をうかがって愛想笑いし続けている「からっぽのからだ」。「他人地獄」だ。これはどこまで広がっているのだろう?大人も子どもも。 だが、この態度はムリヤリ引っくり返せば、上のものの意向をシャニムニ先取りして突っ走ってみせる「抜け駈け」根性になるに違いない。 |