新井奥邃 略年譜



1846年6月28日
(弘化3・5・5)
仙台に生まれる。常之進(つねのしん)・安静(やすよし)と命名。父は新井三郎左右衛門・安信(やすのぶ)という仙台藩士(49歳)、母辰(たつ・39歳)、兄三郎助・安方(やすのり・13歳)、姉(名・生没不詳)

1852年
(嘉永5)
7歳。藩校・養賢堂に入学する。

1859年
(安政6)
14歳。父死、享年62。

1861年
(文久元)
16歳。兄の一子、一郎生まれる。兄三郎助28歳で死去。彼は静好先生と呼ばれ、21歳より養賢堂の助教授。

1866年
(慶応2・8月初旬)
21歳。君命により、江戸遊学。昌平黌に入学するも数日にして安井息軒の三計塾に移る。

1868年
(慶応4・3)
23歳。戊辰の役おこり帰藩、「軍務局議事応接方御用」(御小姓之間詰)拝命。大槻磐渓と、専ら藩の公文書を司る役につく。また会津、米沢、新潟などへ使者として派遣されるなど、列藩同盟のため力をつくす。


9月仙台藩降伏後脱藩、10月に榎本武揚の幕艦に身を投じ、箱館に至る。友人の金成善左衛門、その知人沢辺琢磨のすすめにより、ロシア公使館付ニコライ司祭と会い、初めてキリスト教にふれる。

1869年
(明治2・2)
24歳。榎本の諒解と支持を得て募兵のため金成らと仙台に来たるも、募兵不可なるを知り、また左幕党の責任を追及するに急なる事態、捕縛処刑者のリストに奥邃と金成の名もあるとの友人の知らせに驚く。しばらく身をかくせとの友の忠告に従い、奥邃は房州平郡青木村の友人宅に、金成は庄内藩をたより二人別行動をとり仙台を去った。


奥邃は約7ヶ月青木村に潜んで、論語や陸九淵(象山)全集の研究に専念する。箱館戦争終結後の世情を静観し、身の振り方を真剣に模索する。
11月帰仙。旧友たちに共にキリスト教を学ぶことをすすめる。

1870年2月17日
(明治3・1・17)
25歳。沢辺らとキリスト教を究めるため、1人仙台を発ち函館へ向かう。5月から8月にかけ、同志8名が仙台より来函。


10月初め同志の生活費調達のため一旦仙台へ帰る。そこに、東京の金成から「至急上京せよ」との書状に接し、急きょ上京、金成の紹介で森有礼と会う。アメリカでキリスト教を学ぶという森の要請を受け奥邃の米国留学が決まる。

1871年1月23日
(明治3・12・3)
25歳。米郵船グレート・リパブリック号にて森一行とともに米国に向け横浜港を出航。
2月16日(明治3・12・27)サンフランシスコ着、大陸縦断鉄道にてワシントンへ。

1871年3月11日
(明治4.1.21)
26歳。森に連れられ、ニューヨーク州ブロックトンのトマス・レーク・ハリスの経営するコミュニティ「新生同胞教団(The Brotherhood of the New Life)」に入る。

1875年
(明治8)
2月 29歳。教団移転のため、奥邃ほか3名、その先遣として選ばれ、ハリスとともに、カリフォルニア州サンタ・ローザへ向かう。12月宿舎完成、移転完了。

1883年
(明治16)
37歳。母(辰)死去、享年76。

1891年
(明治24)
45歳。12月13日より数日間、サンフランシスコ・クロニクル紙上に、シュベリエ(女性記者)による、教団とハリスの暴露記事が載り、一大センセーション巻起る。世の指弾をかわすため、翌年3月ハリス(69歳)は、とかくの噂になっていたミス・ウェアリング(63歳)と正式に結婚し、ニューヨークへ去る。

1899年
(明治32)8月1日
54歳。奥邃帰国。甥の一郎、医師狩野謙吾、高野孟矩(もうく)、明治女学校の処静庵ほか、友人知人宅や借家を転々とし、4年余り流寓の日が続く。

1903年
(明治36)
12月31日 57歳。平沼延次郎氏の寄進を受け、巣鴨に塾舎・謙和舎(けんわしゃ)を建てる。未完の建物に奥邃一人移り住む。


翌年4月頃塾舎完成、かねてから生活を共にしていた学生・書生らと共同生活始まる。

1906年
(明治39)
60歳。3月23日ハリス死去、享年84。奥邃の友人で詩人のエドウィン・マーカムが葬儀を司る。
10月14日「大和会(たいかかい)」発足。初期会員36名。以後明治44年10月まで、月刊「奥邃語録」、ついで無署名の書物を随時刊行。

1922年
(大正11)
77歳。6月16日午前6時 奥邃謙和舎にて死去。18日森巌寺に埋葬。

<1930〜31年、『奥邃広録』刊行>