新井奥邃を語る (月報より)



新井奥邃師と渡辺英一先生

一番ケ瀬康子 (日本女子大名誉教授・長崎純心大教授)


 渡辺英一先生の師は新井奥邃であるということを、私は、元宮城教育大学長でいらっしゃった林竹二先生から伺った。その頃、林先生が、学長を務めながら小学校の生徒を自ら教えつつ、教育改革を、現場からやろうと試みられていた。そして、日本女子大学附属小学校にも来られたのである。その折、女子教育研究所に立ち寄られ、当時主事を務めておられた菅支那先生と私の二人の前で、新井奥邃師のことを、熱心に語られ、その時、渡辺英一先生が、高弟である旨を教えて下さったのである。その時以来、新井奥邃師と渡辺英一先生の師弟関係は、気になっていた。


 ことに私は、渡辺英一先生については、いくつかの思い出がある。

 第一には、私が日本女子大学校の学生だった時に、日本女子大学校の中心必修科目であった実践倫理の講義を、一年間、渡辺英一先生から受けた。きわめて穏やかな講義であり、紋付和服姿の先生が、静かに一言一言学生に伝え、その話もさることながら端正なお姿そのものの存在感に、心が何か澄むような想いがするという講義であった。その印象をもって卒業し、数年後に日本女子大学に帰って後、私は、附属高等学校の主事(実質的校長)という重責を負わされた。その時、附属高等学校は内発的な自治の精神が伝統であることを感じとった。その伝統を創られたのが、附属高等女学校の主事を大正九年から昭和二一年まで、二一年間も務められた渡辺英一先生であった。


 さらに渡辺英一先生の教育態度というものを、当時、教員であった近藤久子先生から伺った。近藤久子先生は、理科の教員であった。当時、男女の教科書に格段の差があることを知り、男子の生徒が用いる中学校の教科書を使うことを考え、渡辺先生に相談をしたところ、快諾を得たという話である。


 今ひとつ重要なことがある。私たちが学生時代には、必ず必読の書として持たされた「成瀬先生伝」(大正一四年初版)という日本女子大学の創立者成瀬仁蔵の伝記があった。少し難しい表現ではあったが、しかし、格調の高い文章でリズムがあり、私たちは、しばしばそれを声を出して読んだ。あるいは先生方の講義の際に聞かされた。学校行事の折には、音読されることもあった。その執筆者が渡辺英一先生だったのである。それ以後成瀬仁蔵の伝記の要約のようなものが出されたが、それは、あまり読まれなかった。渡辺英一先生の『成瀬先生伝』に勝る伝記は、当分現れないだろうと思っている。


 以上のような渡辺英一先生に関するさまざまな思い出がありながら、実は、その人物、人生歴およびその方向づけがなされたきっかけについては、充分学ぶ暇もなく、今日に至った。


 ところが、ある学会で、『新井奥邃著作集』を販売していることを知って、思わず、「渡辺英一先生との関係があることを知っている」と述べたら、この原稿を依頼されたわけである。それ以来渡辺英一先生の書いたものを集め、それを一応、読んだ結果ふたつのことがわかった。


 ひとつは、渡辺英一先生は、新井奥邃師のきわめて身近な直弟子であったということである。


 いまひとつは、それを縁にして操子夫人との結婚の媒酌人が、新井奥邃師であったということである。二人の師弟関係は、まことに密接であり、渡辺英一先生の人格そのものの形成に、新井奥邃師の果たした役割というのは、並々ならぬものがあるということを知った。


 渡辺英一先生の書いたもののなかで、師、新井奥邃については、次のような表現がなされている。
 「奥邃先生に参じた同行の彼と親友の大山さんは

  真の人は 智もなく
         徳もなく
         名もない
  簡素な生活をして
  奢侈をせず
  財産を貯えず
  衆人に対して我儘しないのが、
  立派な人である。」
  (「隈川の流れ」渡辺操子著 若葉会 昭和三六年発行)

 「新井奥邃先生のお言葉の、お言葉の如何に大なる深き教訓の含まれ居るや、殆ど計るべからず、今後幾年を費やして、其真意の一端をだに窺ひ得ば、誠に小生の幸福に候、新井先生語録に出来たる時にはお贈り下されたくお願ひ申し上げ候。」(前掲書 二五二―二五三頁)


 渡辺英一先生その人の人格については、操子夫人が、次のように記している。

 「どんな不愉快な事件にぶつかっても、何が不足でも、病気をしても、もの柔らかに、おだやかに、静かで、人気のない所では、いつもよく頭を垂れている。いつも祈りのような状態で、ひる夜も、学と修、修と学と、沈黙とだけがつづく。

若いときの日記の第一ページに、
『生存は沈黙』
『実行は沈黙』
『思想は沈黙』
『修養は沈黙』
『神に対しては祈祷と勤労』
『人に対しては沈黙と協同』
吾れ之の句に讃す。
と書きつけてある。」(前掲書 二―三頁)

 二人の人物像が重なり合うということも、この事実を知って改めて確認した。


 新井奥邃師という人物については、いまだ充分『著作集』を読み切っていないこともあって、充分認識できていない。しかし田中正造との関係を知るにつれ、並々ならぬ人物であったことと思われる。当時の足尾鉱山事件に対して、果敢に身を挺した田中正造の在り方は、私のように社会福祉を生涯学んできた者にとっては、まさに理想像である。


 新井奥邃師は、自らの考えを次のように述べている。

 「○貧者は福なりと云ふも、人をして貧ならしむる者は誠に禍なり。而るに此の世此の
類多きに非ずや。朋党の為に利を図る者なからざるも、全民の安を思ふて尽す者幾人
ぞ。全民の性格を賤賊するに至るも顧みざる者は、朋党の歓を得と雖も其身に福せず。」
(『著作集』第四巻「語録」一九一〇年八月 春風社)

 「○抑も私慾を以て富を築く事、此の世に於ては必しも不可能に非ざるも、亦可能と必すべからず。其能くする者は少数なり。然らば則ち其少数の者は幸運と云ふべき乎。其幸不幸は之を其最後に徴せん。然るに非理の義は、多く積むも正義ならず。不義の富は、高く築くも真富となるべからず。如此き富を築く、仮令其身に於ては免るるにせよ、災害必ず後昆に及ぶ。」(同 一九七頁)

 まさに田中正造の想いそのものである。これを読みながら、さらに考えた。


 渡辺英一先生が附属女学校の主事をしておられた頃、その生徒から多くの社会事業家の先駆者が生まれている。創立者成瀬仁蔵の想いを貫いて、大正一〇年に出来た社会事業学部(のちの家政学部三類)に、附属高等女学校から、優秀な人々が進学をしたからである。清いそして深い人脈の中から、それを本流として、いろいろなつながりが支流となって生まれてくる。


 優れた師弟の出会いというものが、いかに社会の在り方に生命を吹き込むかということを、深く感動せしめられる新井奥邃師と渡辺英一先生の師弟関係である。