
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 触れえた奥邃 |
| 鹿野政直 (日本近現代思想史) |
新井常之進がどんな思想的な経過をへて、わたくしの知る新井奥邃となったのか、まったく知見に欠ける。そもそもいつ、何を契機として「奥邃」と号するに至ったのかという、彼を識る人びとには周知であろう基礎的な事実にすら、疎い。怠惰ゆえにそのなかに分け入ろうとはせず、高峰、ひょっとすると孤峰を、遠望する想いで仰いできた。 奥邃を念頭にのぼせるとき、わずかに、佐幕派出身であったこと、ハリスの経営するコミュニティで長く暮したことが、彼の原体験ひいてはバックボーンをかたちづくっているであろう、と漠然と想像し、それにしても彼のなかでキリスト教と儒教とはどのように統合されていたのか、と思ったりした。同時に、山路愛山の、「総ての精神的革命は多くは時代の陰影より出づ」(「現代日本教会史論」)という言葉を、脳裏に浮べたりした。 『新井奥邃著作集』はそんなわたくしに、初めて可能なかぎり原典に忠実に、また洩れ残しなく、さらに歳月を追うかたちで、この思索者に接近する途を拓いてくれた。 直面した奥邃は何よりも、極限的な表現を連発するひとと映じた。帰国後、日本での初期の、といっても五十歳台の半ばを越えていたが、思索活動の滴りというべき『信感』(第二巻所収)の文言が、いきなりわたくしを圧倒した。「生命の生命」「太陽の太陽」「電気の電気」「精気の精気」「光の光」、あるいは「真有は真実」「貴神の貫息」「実よりも実」「完一」「霊格知勇」「光明発耀」「真光真命」「真人」「真父」「真子」「真神」「宇の又宇、宙の又宙なる被造の総生」「栄光の至極」「無尽の謙譲」「万能」「無疆」「自在」「永生」「無量」「至大なる上天広地」「真道」「広大深遠」「最高最明」「至聖たる大太陽」「宇宙完体」「真父真母」「栄光無限」「唯一生命」などと、いかなる言葉をもってしても想いを表現するに足りないとばかりに連ねられた文字の数々は、十数頁を辿るだけでも、枚挙に遑がない。とびこんでくる辞句群は、このひとがなんと、絶対的な価値への純一な帰依者であったことか、との感慨を呼び起さずにはいない。 何が奥邃をこう駆りたてるのか。彼の神観念や信仰については語る資格をもたない。が、そんな人間にも、彼が渾身の力をこめて価値としての完美な観念世界を築こうとしているという、気迫は伝わってくる。彼はそこにみずからを張りつけようとしたのだ。 在るべき世界へのこうしたひたすらな希求は、もとよりいま在る世界への非妥協な拒否感に発している。それだけに、価値観における排除の対象と献身の対象とは、鋭い対比をもって示される。いわく私慾・自我対無我、いわく暗黒対光明、いわく全黒対真白、いわく死・病対生等々。そうして排除の対象とする全体が、「偽文明」を構成しているのであった。 奥邃のこういう思索は、信仰を根元としてもつとともに、時々刻々の時勢の動きによって触発されるところがあったに違いない。が、ここでいう初期の場合、それはまったく影を落していない。後年に至るまでなまの時勢観の吐露されることは寡かったが、ことに初期にあっては、みずからの言論を、そこから意識的に絶縁したものとして展開している気配がある。そのことが彼の文章を、個別事象を昇華させた抽象論・観念論の完結体とした。このような筆致は後年にも、田中正造を述懐するに当って、わざわざ「某(君)」と、具象性を抽象性へと濾過しているところにも見えるが(「追懐の記」ほか)、初期にあってはことに徹底していた。その点では、時勢に直接に言及しないこと自体が、それへのトータルな対決の姿勢をあらわしているといえようが、そのため奥邃の言葉はいっそう、極限的な抽象概念の提示という性格を帯びなければならなかったのでもあろう。 全面的な対決への信念を堅持するがゆえに奥邃は、戦えと呼号する。「この偽文明と正に相反対して戦はざるべからず」(『著作集』第二巻二〇〇頁「信感第二」)。しかもその戦いは、現世を離れて宗教・道徳に籠るというような、消極性を帯びたものではなかった。「此れ直ちに物質的文明機械を捨て社会と離れて独り宗教や道徳の名を唱へよと云ふに非ず」(同)。世界あるいは社会また人類の、根本からの組み替えに向けての戦いを、果敢に求めた。「クライストに於て宇宙統一の律法に根本したる人道を開発するが為めに、世の偽善罪悪なる者共と戦へと謂ふなり」(同)。「人道」開発を掲げて、邪悪なるものとの全面戦争を唱道する点で、初期の彼の言葉は、省察録というには、かなり檄文の響きをもつように覚える。 奥邃が帰国して日本での起居に戻った十九世紀末―二十世紀初は、いうまでもなく、日清戦争・北清事変・日露戦争をへて、日本が、産業革命を遂行するとともに、極東の新興帝国としての地位を築いた時期に当っている。こうした"達成"は、モノとカネを至上とする社会体制・社会意識、いい換えれば世俗的・現世的価値の勝利をもたらした。「立志」に代って「成功」が鼓舞されるようになった。が、まさにそれゆえにこの時期は、そのような趨勢への懐疑を、さまざまなかたちで噴出させた時期をもなした。「文明」が勝利を誇っただけ、それへの懐疑は、文明への唾棄・憎悪や、もう一つの文明への憧憬、造出されてきた悲惨に寄り添う心、さらにそうじて"物質"にたいする"精神"への著しい傾斜として発現した。 初期社会主義や『六合雑誌』の活動、また横山源之助『日本之下層社会』のような仕事をのみいうのではない。田岡嶺雲の反近代主義、知識青年たちにみられた禅宗への傾倒、清沢満之の精神主義など、やや遡れば出口なおによる大本立教も含め、それらは、嶺雲の口吻を借りれば「唯物功利」への(「禅宗の流行を論じて今日の思想界の趨勢に及ぶ」)、心の叛旗の結晶であった。そのような思想の噴出は、それだけ救済願望が人びとのうちに高まっていたことの反映でもあったろう。 奥邃の出現に、こうした思想のなかの屹立した一つの手応えを感じた。「謙」を軸として、自己誇示の対極に生きようとした姿勢そのものが、セキュラーなものの凱歌や瀰漫にたいして、譲らぬ意思を突きつけている。 そののちの奥邃については、語るべき準備は皆無に等しいが、精神の姿勢としての基調を保ちつつも、漸次、「世界大和して、万方共愛政治」へと、力点を移動させていったような印象を受ける。 |