新井奥邃を語る (月報より)



山川丙三郎訳ダンテ『神曲』と新井奥邃の言葉(二)


石川重俊 (元福岡大学教授、
日本P・B・シェリー研究センター会長)


 私が新井奥邃のことを知ったのは、もう四〇年も前に故・森信三氏からその人物と思想を知らされたからである。氏によれば、ダンテの『神曲』の翻訳のなかでその名前を知り、さらに断片的な文章を読むことにより感銘を受け、私淑していたが、まとまった著書を読みたいと思っていたところ、偶然氏のお弟子の福田与夫妻を京都に訪ねた折、その書斎に通され、書棚を見た際、『奥邃広録』全五巻が並んでいるのを見て、文字通り驚愕した、と語られた。そこですぐ氏はその二、三冊を借りて読み、奥邃の人間と思想にいよいよ深く打たれたという。森氏は奥邃のきわめて早い時代の発見者であった。氏はこの人の世に出ず、世に隠れた思想の偉人であると称賛しておられた。戦後随分後になって私も『奥邃広録』の復刻版を入手することができたが、それを散見することによってその人物と思想の偉大さと何よりもその生き方に深い感銘を受けたのである。


 私が特に奥邃に関心を抱くに至ったのは、奥邃が旧仙台藩士であり、戊辰戦争に参加し、さらに榎本武揚や土方歳三らと共に箱館に戦い、そこに共和国の新天地を築こうとしたが、戦い敗れてついにアメリカに渡り、キリスト教徒となり、晩年日本に帰って私塾「大和会」を開き、ごく少数の弟子と共に、隠者のような生活を過ごしたという彼の生涯において、私事にわたって恐縮であるが、幕末から明治にいたる時期において私の曽祖父と祖父とが彼と同じ仙台藩士であり、時代を共にしたということにあるのである。幕末に彼の同僚であり、なんらかの関わりがあったかも知れないと想像してみると、奥邃の在りし日の姿が眼前に彷彿とし、より親近感を覚えるのである。もとより私の祖先など奥邃のごとき群を抜いた俊才であったわけではなく、格別の功業を建てるでもなく、ごく平凡に生き、あるいは彼を仰ぎ見ていたかも知れない。


 よく知られているように、奥邃の独自のキリスト教観の一つは父母神の思想である。これは西欧にもいまだ考えられたことのない優れたもので、世界的に注目、研究されるべきものである。それは個人的には母に特別の孝養をつくしたという点にも由来するでもあろうが、ヨーロッパでも神が父=男性としてのみ捉えられ、キリストもまた男性であったし、女性は常に従と考えられてきた。それは男性的権威に満ちたものではあっても、母性の慈愛に欠ける点があったことは否めない。したがって西欧にも「マリア信仰」がそれを補うものとして存在したゆえんであろう。


 東方仏教においても、マリアに当たるものがあり、それは観世音菩薩にほかならない。仏教では、仏が父=男性であることから、特に慈悲を願う民衆が観音を信仰したものであろう。日本では観音の母性的な慈悲からキリシタン信仰が幕府の弾圧の目から逃れるために、観音をマリアとして信仰した隠れキリシタン信仰があった。いわゆる「マリア観音」である。こういう日本仏教の伝統が母親に特に孝養だった彼をして父母神という「二而一」なる神を信仰するに至らしめたのであろうか。ヨーロッパにも東洋にも比をみない独創的な神信仰の思想であって、今後、世界に知られれば大きな反響があるであろう。


 ただヨーロッパのキリスト教の一部では父母神を男性と女性の関係として見、両性具有というなにか淫蕩なイメージを抱いてこれを排斥する一傾向があると言う。インドの『理趣経』や『歓喜天』のようなものと理解するようであるが、もとより武士道を生きた奥邃がそのような形象を寸毫も意味するものではない。恥ずべきは一部の西欧人のこのようにしか捉えられない心性にあるだろう。また父神は女性差別につながるものであるから父母神思想は現代の女性差別を乗り越えるためにも大きな思想的役割を果たすものと言えよう。


  続いて、奥邃先生が「浄火」篇に与えられた文節とその大意に移る。この巻頭で、先ず「『浄火』の友言」という見出しで、八つの文章(12から19まで)が与えられている。これらの文は(「ママ雑録」の中より)とことわってあるが、出所を明にし得ないでいる12と18以外の六つの文節は『難録 其一』の中の二文、『難録 其三』の中の四文に当るものである。12は奥邃先生の山川へのオリジナルな文章として注目される。『難録 其一』は浄火篇出版(一九一七年、大正六年五月)の前年の秋、『難録 其三』は浄火篇出版と同年に冊子になっていたものである。これらの八つの文節は三つに区分されているが、脈絡が通っている。


12.浄火は審判の階段也。人をして己に勝つて[タイカ]大和に昇らしむる所以の者即ち是れ。審
判の来るは福也。福に至る所以也。


13.生にして物ならず。物ならずして生有り。神に非らず。之を自然と呼ぶ。…神の実
体に対して、此れ其影也。神の真音に対して、此れ其響也。影響は其性にして、神の生命に其外部に従ふ。是れ則ち自然の本性也。然るに此世、人不順に陥りしより以来、之と関係する範囲内に於て、自然は化して、或程度に、不自然の性と為れり。夫れ自然は本来影響。善ならず又悪ならず。…責任は唯夫れ人に在り。…人は当に自然を愛して之を馴致しべし。自然に致さるべからざる也。然るに今の人間の状其れ如何。不自然に役せられざる者幾何。


14.此世自然(不自然)の人間に於けるや、其気海を通じて外囲内繞、機変の巧を以て游玩至らざるなし。危険焉れより大なるはなし。…白を黒と見せ、黒を白と思はしむ。…名を好めば名を以て我を釣り、財を欲すれば、財を以て我を誘ふ。…此れ病的の自然也。自然の本分には非ざる也。今や其勢全世に亘りて溢る。


15.我れ若し天下を取るも、我が生命を失はゞ、天下夫れ誰にか帰する。子孫にか。知人にか。朋友にか。皆非也。自ら智とするの愚慾亦憐むべし。


16.日や月や至らざる所なし。惨憺たる爆火の中にも之れ臨み、流血苦死の間に照らして大終慈悲顕現するの日に及ぶ。広十字架を負ひて、羔の新婦自ら飾る所の聖域茲に大成するの日に及ぶ。


17.『若し人の肉体を殺すも、同に其霊を殺す能はざる者は恐るゝに足らず。恐るべきは他に在り。』假令人の国を亡ぼすも、其霊魂をして我に従はしむる能はずば、何ぞ其勝者に有らんや。栄辱の跡は只其時の現影也。形而上は、其勝亦敗而已。…勝者暫く傲然自ら欺くと雖、必ず安眠し得じ。法也。命也。人得て動かすべからじ。


18.(この文章も出所不明。)
  救手必ず主より遣はさる。惨々の中にも必ず救手の遣はさるゝ者ありて離れず。然
らずば、地獄の者自火の苦に堪へず。彼等若し一旦改転すれば、備はりて神の活水
亦茲に湧く。


19.一人之を見る。一人之を感ず。或は感じて之を執り。或は見て之を識る。執りて相抱くあり。識りて共に立つあり。類あり。一ならず。皆一に至る所以の者備はる。そして、このあとに山川は、「右は新井奥邃先生が訳者の請を容れて贈りたま(ママ)へ抜粋文なり。」と記している。


 12 この最初の文章は出所不明だが、「浄火」篇巻頭に与えた以下の文書の中心思想を述べ、ダンテの『神曲』「プルガトリオ篇」の真義を照射する認識を訳者山川に与えた励ましの言葉であると理解される。それと共に、煉獄界にいる者たちへの励ましでもある。奥邃先生が山川に対して特別に書き与えたオリジナルな文章と思われる。ここで奥邃先生は、浄火の段階とは、我らつみびと罪人が、己の私我に克って、神の幸に至るために、どうしても通らなければならない審判の過程である、と述べている。


 13、14 ここでは「地獄」篇巻頭文節11の、「晩年餘息」からの文章で述べた「自然」を再びとりあげ、神の支配のもとにある宇宙、自然についての奥邃先生の省察を背景として、神の本質が語られる。即ち、自然は神ではない。万有は神の本質を写す影、その声の響きである。(影響はエイキョウと読むべきでなく、カゲ、ヒビキとま間を入れて読むべきである。)また、人はこの自然を不自然にしてしまった。(この不自然も、フシゼンと読むべきではない。フ・シゼンとま間を入れて読む事によって、その意味が鮮明になる。)その結果、人は、本質を失わしめられた不「自然」の諸相に惑わされ、その倫理生活に於ても、価値判断に於ても、愚弄されている。従って、『不求是求』に於ける表現を借りれば、「不」自然は「回転して超自然に帰し、…昇らし」めなければならない。山川へ与えた文章18では「改転」と記してあるが、それは神の御顔に向かってメタノイア方向転換をして、はじめて救は成就するに至るのである。


 15、16の文節では、さらに天下、国家へと敷衍された文言となっている。それは、奥邃先生の霊性に啓示されたイエスのことばに立つ文言となっていく。〔マタイ一〇章三八〜三九節、同十六章二四〜二六節、ルカ福音書九章二三〜二六節〕


 17 ここではマタイ一〇章二八節に於ける「また、からだを殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」のイエスの言葉を引用し、再び「地獄」篇冒頭の文節と同じ主張の文言をここに配し、体を滅ぼす者があっても、その者の魂の中に入り、その魂をキリストのものとして奪取しないでおかないとの主張をくり返す。


 18 この文章も出所不明であるが、「浄火」篇に与えるという本旨に帰り、かの地獄の世界の中で苦行している者も必ず神の救のうちにあること、即ち、神の御顔の方向に向かえば、救いは成就し、神の活ける水が与えられる、と説く。奥邃先生は、ここでも、前掲の5の文章に於いて用いられている用語で、奥邃先生の信仰・神学・思想を知る場合の鍵となる独特の用語の一つである「改転」を用いる。そして奥邃先生の「上昇」、魂の上昇はアウグスティヌスの三位一体論の中に見られる「魂の上昇」に比すべきものである。この魂の上昇こそ、救の本義である。


 19は、煉獄の世界にいる者にこの救に至る絶対の条件である「魂の方向転換」の契機となる認識を求めている。


 最後に、「天堂」篇への文節とその大意。
 「『天堂』に就て」の十三の文章は、すべて「手控書」(『奥邃著作集』第七巻「信」(手控書)所収)からのものである。この「手控書」は、山川の『神曲』天堂篇出版(一九二二年・大正十一年)の前年に冊子になったものである。これらの文節の示すところは奥邃先生の信仰・神学・思想に於ける認識の中心である「二‐而‐一」なる認識構造によって示されるキリスト論、救済論、神の国と神の愛、教会批判がその要点となっている。


 20.霊と肉と二‐而‐一也。…肉は其霊を離れて独り善なる能はじ。…耶蘇基督は天降のすくひがみ救主也。尚ほ、しゅうたみ(衆民)真実に於て浄潔にならん為に、御身自ら戦ひ自ら勝ちて、自ら真実と成れり。主上自ら取りて世の旧物全部を御身に機微に聚めさせたまひし処、乃ちみいのり御祈の最高事実にして、誠に宇宙より重き也。
21.神の国は、実際有用の真国家也。天の父母全く子女と偕にして楽しませ給ふ所也。凡そ神の国人は其勤、御意に因らざるなく、其願ふ所、御名に由らざるは無し。神の国の人は皆神の愛を以て一貫す。故に其願成らざるなく、其行至らざるなし。…。


22.夫れ皆愛也。実際愛を以て貫徹す。故に悪魔は叛いて其自滅に至る。愛の実際に貫徹する順序なり。御業の機密なり。…。〔この文章で、奥邃先生は引き続いて、その裏付けとして聖書の句節を引用する。〕


23.愛レ人如レ己。今夫れ己立つ所必ず斯に在り。己斯に立ちて、当に己の如く人を愛すべし。…乃ち愛也。透徹の生命也。


24.夫れ愛して神を信ずる者は福也。果たして神を信ぜば、分裂離散の苦も亦皆福となる。…我等何事を為すも、其心性意力皆主及び福音の為ならば、其途次の分裂離散も亦皆百福の本となる。…福に入るの前、必ず厳治を受けざるべからず。其治法は神の慈愛の御業なれども、悪魔心を見て残酷無情となして、之に叛き、終に自ら弑逆の罪に滅ぶるに至る。


25.卑近の変動は却て意表に出るの多きも、遠見は古今多く違はざるなり。…飲まざるべからざるの苦杯は、必ず永遠に亙らざるなり。若し之を避けんと欲する者は、即ち己が生を救はんと欲する者にして、却て自ら進んで之を失ふ者なり。…貧なる者泣く者の福にして、富む者笑ふ者の禍なる所以は、皆其主及び福音の為にすると其然らざるとに由りて判る也。…十字架を負ふは此に在り。主に従ふは此に在り。万生の大同和合は必ず此を経て然る後夫れ能く成る。切なる哉主の御教や。深い哉大いなる哉御心の愛。


26.夫れ己に克ち、十字架を負ひて、主に従ふ者は、是御名に由る者也。是れ二‐而‐一の命に従ふ者也。…御名に由る者の願ふ所は、一に…積極的に御業の成就せむ事を求願す。即ち其賜りし所の愛を尽して以て二‐而‐一の生活に生活するなり。…愛して信ある者は福也。


27.然に人の情状同じからず。同中異あり。各々前定に於て適従する所有り。強ふべからず。…前定なる受品は変ずべからず.。而して皆其定る所に安んず。是れ天の生命にして其奥義也。…永遠に於て亦何ぞ甚だ長差あらんや…。


28.神の遠大なる、人得て其知るべからざるを知るべからざる也。然に神の親近にまします、万児皆其程度に於て其愛を感知し奉るなり。夫れ児等の児たるは、各々其賜りし所の愛を尽して神を愛して、又其同愛を以て能く相共に愛し、而して、、自他御名に於て二‐而‐一となるに在る也。是賜や人皆之を霊の本に受けたり。…然に其道たる、人に聴て之を知る者少し。必ずや自ら任じて之に当り、百困千難、自ら切り自ら開き、自ら之を発揮して、而る後始めて之を身に体する也。


29.世の自ら基督教会と称する者は神の愛なし。彼の自ら信者と称する者は、皆己が為に図る。外礼執る所或は似たるあらんも、其心は則ち我が為にするなり。彼等は隣人を神の道に愛せず、況や広民をや。彼には活水の其情に流るなし。泉を其内に塞て彼自ら涸れ、却て又人をして地獄に入らしむ。…中心、其私我に於て、痛く神の情の性を拒むなり。…。


30.自称基督教会をば、我等外部其意に任して、或は第二次の日の到るに及ん。然と雖も憐むに堪へたり。…。


31.今人其情を失へるは殆と一般。…現世生活に人情なし。情なきに非ず、皆私也。所謂私とは、皆悉く公心なきの謂に非ざるなり、人皆未だ其私心を脱せざるを謂ふ。…相共に同じく神の子女なる兄弟の愛を有せざる者は福ならず。…。


32.夫れ主基督の誰たるかは、道既に存して人々の生命自体にあれば、心有りて、失はざる者は、皆得て之を知る。…本教は、其自体に於て任を負うて万物を改造新作す。乃ち基督の御業にして、最下の無‐処‐界をして、最上なる実‐体‐処の如くに複‐新‐生せしむるまで、凡て新しく造らせ給ふもの也。そして、最後に山川は「右は新井奥邃先生が訳者の請を容れ、其著「手控書」の中より抜粋して贈り給へるもの」と記している。


 20 この最初の文章では、奥邃先生の根源認識の最も本質的な部分が顕示される。奥邃先生はギリシヤ哲学のように霊肉を分けない。霊肉は「二‐而‐一」なるものとみる。キリストの救いは霊肉の救い、真人なるすくいがみ救主、道となり、真となったイエス・キリストにある。これはまさしく、「身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず」クレードー(「使徒信条」)である。また、ヨハネの認識であり〔ヨハネ十四章六節、十一章二五節〕、パウロの「死人の復活」への言及〔第一コリント十五章四二〜四四節〕そのものである 。


 21から29の文節では、まず、天の神を「父母神」とする「二‐而‐一」の認識構造の中で、神の国と神の愛について説く。「愛」については独住修女ジュリアンの啓示と同じ認識を示し、その根拠として、聖書のことばがそのままの引用される。〔詩篇二三篇一節、マルコ十二章二九〜三一節、ヨハネ十二章三四節、マルコ十章二九〜三〇節、マタイ十六章二四〜二五節、ヨハネ十八章十一節、マタイ五章三〜十二節、六章九節など〕


 そして「平和をつくり出す人たち」、「義のために迫害されてきた人たち」、キリストのために罵りや、偽りや、悪口にさいなまれてきた人たちは、皆愛の勝利である「天堂」に於て神の前に集う至福を与えられ、悪は自ら滅落する。(これはアイスキュロスのプロミーシユースではなく、P・B・シェリーのプロミーシユース精神と符号する)


 このように、「二‐而‐一」なるキリストに従うことは神の平和に至る道、25でいう「万生の大同和合」の道(「浄火」篇巻頭文節12の「[タイカ]大和」の道)であることを説く。


 29から31 ここでは、神の愛を失った今日の教会や信者を慨嘆する。経営体、運動体になっていくところに働く「私我」の力学に於ては、もはや神の愛は阻まれてしまっている。奥邃先生は、ご自分のもとに集う人たちの組織体の形成願望を厳しく戒められた。「謙和舎」なる表札を掲げることすら許されなかった。また、ご自身の書かれたものに署名をされなかった。奥邃先生の月刊『語録』の一九〇七年一月号に 「無名」と題する書き物がある。名を求むるな、は先生がご自身に向けられた厳しい戒めであった。この三つの文節や月刊『語録』に見る文章の脈絡に沿って行くとき、「天堂」に非ざる教会を山川に示すことによって、煉獄の世界にいる人々こそ、十字架の聖ヨハネの暗夜の苦行の行程の中に於けるメタノイア改転によって、天堂へと向かわしめることを説いておられる奥邃先生の眞意に出会う。


 32 この最後の文節に至って、改めて「主イエスとその十字架の業」を認識することを説く。非実態のこの地上の生が、真の真理をめあて目標として新しく生れ変るよう、神は今も休まず働いておられる〔ヨハネ五章一七節〕ことをを説いて、末尾を結んでいる。


 ダンテは、煉獄を経巡り、今や、ベアトリーチェに導かれて天国に至り、諸聖徒たちと共に神の御前に進もうとしている。奥邃先生の霊性と出会った、ダンテ『神曲』の訳者、山川丙三郎の霊性に語りかける奥邃先生の文章は、もはやご自分の言葉の限界を超え、聖書それ自体の啓示となっていく。奥邃先生は、時に「我言に非ず」と言う。また、「知る者は知れ」という言葉とともに、『読者読』と題する書き物も残しておられる。ダンテの「地獄」、「浄火」、「天堂」に関わって、訳者山川に与えたこれらの文章の集成の中で、我々は先生の思弁の一貫した凝視に出会う。そしてそれは、通常の序文、助言あるいは序説、解読には持ち得ない役割を果たしている。山川丙三郎訳『ダンテ神曲』の「地獄」、「浄火」、「天堂」各篇の巻頭に与えられた新井奥邃先生の文章を消去することは、許されるものではなく、捨省すら何らの理由も成り立たないのである。


付記。本稿は、筆者の左記の三つのものに拠ったものである。

一.山川丙三郎訳ダンテ「神曲」及び『新生』――文体と改訳(東北学院英語英文学研究所編『東北学院英文学史年報、第十五号、一九九四』
二.恩師山川丙三郎先生 付、山川丙三郎先生を中心とした文学略年表)(セリタ研究所、一九九三)
三.新井奥邃が山川丙三郎訳ダンテ『神曲』各巻頭に与えた文章(BIBLIA No26、山形ビブリヤの会、一九九六年)