
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 新井奥邃との出会い |
| 笠原芳光 (京都精華大学名誉教授) |
出会いはつねに偶然である。そして一度きりとは限らない。 新井奥邃を初めて知ったのは大戦後、といっても、もう四十四年前のことである。一九五六年に創文社から出版された久山康編『近代日本とキリスト教―明治編』を読んでいて、そのなかで小塩力が語っていることが、ふしぎに心に残った。一部分を引用する。 「明治女学校関係の話の終りのところで、ひとこと触れておきたい人物があるのです。それは同校末期に、宗教指導のようなことをした新井奥邃です。幕末に札幌か函館の藩士として生れ、志を抱いて米国に渡り、米国ではハリスというメソジスト系の指導者に遭って信仰を得た人です。彼はハリスと共同して、農場兼修道院のようなものを何年もやりますが、その間の信仰生活の状況はクエーカー風の信仰に神秘思想を加えたようなものでした」 「奥邃が、巣鴨庚申塚のHermitage(隠者の庵)に、十数人の弟子を集めて行った東洋古典及び聖書の講義と、そこに成り立った師弟関係とは、かなりの意味を持ちました。その講義を、自分で書いたり、弟子に筆記させたりして、分冊刊行した文書は、非売品でしたが、その内容はかなり独自な神秘主義で、聖書の神観念とイエス・キリストに対する大体正統的な把握を行いながら、その表現は老子荘子論語其他中国古典に負うところが多いのです」 「札幌か函館の藩士」とあるのは「仙台」の、「四巻の『奥邃広録』」とあるのは「五巻」の、誤りである。それでも戦後の一般書のなかで新井奥邃に言及したのは、おそらく本書が最初ではなかったか。 印象的だったのは、知られざる隠者としての奥邃の姿である。日本にもこんなキリスト者がいたのか、という感慨であった。だが、ここで奥邃の思想が「聖書の神観念とイエス・キリストに対する大体正統的な把握」とあるところが、大きく違っているのに気づいたのは、それから十数年ものちであった。 その間にも、奥邃の感化で足尾銅山鉱毒事件の闘士田中正造がキリスト者となったことを林竹二の著作で知った。 だが奥邃との第二の出会いともいうべきものは、一九七〇年代、『奥邃広録』全五巻が同志社大学人文科学研究所にあったのを、通読したときのことである。第一巻の冒頭「信感一」を読み始めたところ、「貴神は真父たり。大父母たり」とか、「神は大父母なり。生命の本原なり」とある。 これは、いったいなんだろう。儒教的な表現かとも思ったが、読み進めるうちに、つぎつぎに「神は父母である」といった言葉が現れる。 通読というより散見といったほうがよい読みかたであったが、第四巻に至って「名実閑存」を開いたところ、 「神は真実の人にして宇宙万有の父母神なり」 「神其肖像を造り、之を名づけて人と曰ふ。乃ち男、乃ち女、斯く人は本来神の肖像にして二而一なり」 といった言葉が続々と出現する。つづいて 「クリスタス基督士クリスタ基督阿は其完称なり。即ち惟一の父母神」 とある。キリストは男であると同時に女であるという意味だとわかって、おどろいた。さらに第五巻の「たい大か和会読中」には「エイサス耶蘇士エスア耶蘇阿」という言葉もあり、イエスもまた男女だという。これはたとえばC・G・ユングが男性の内部にもアニマ女性性があり、女性の内部にもアニムス男性性があるといっていることに通ずるのではないか。 この「大和会読中」には父と母、二つの漢字を重ねたり、並べたりして一つの新字をつくり、「ちちはは」とか「ははちち」と読ませ、父母神を意味させるといったことまでしている。このような思想は米国でT・L・ハリスから学んだものであり、奥邃の独創とはいえない。だが日本ではただ奥邃のみが説いたところである。 これは「大体正統的な把握」どころではない。神をただ父としてきたキリスト教からいえば、きわめて異端的な思想である。もとより異端とは邪説ということではなく、正統とは異った思想という意味である。 こんなことがわかってきたので、一九八二年三月、在職していた京都精華大学の『木野評論』の第一三号に、「新井奥邃と父母神思想」を発表した。以来、なんどか、この問題を論じてきた。 もっとも、筆者は奥邃に大きな関心を持っているとはいえ、自分自身が父母神を信じているわけではない。むしろ神は客観的な実体ではなく、人間の究極的な問題性であり、それを主体的に探求し、了解することが大切だと考えている。 けれども奥邃の父母神説の、日本の思想史における独自性は、キリスト教理解が急速に多様化し、文化における両性具有論が注目されている現代にこそ、もっと知られるべきではないか。 およそ出会いにはさまざまな局面があり、いくつもの段階がある。新井奥邃との出会いも隠者としての印象から、独自の思想家としての評価へと変貌した。これからも、その難解な著作を読み解くにつれて、新しい発見がなされることを期待している。 |