新井奥邃を語る (月報より)



北方の視座から

太田愛人 (エッセイスト、牧師)

 昨年秋、遺愛女学校の招きで函館に行って三日間すごし、中日の半日を函館市立図書館の蔵書の閲覧にあてた。
二十年前の訪問のときは、トラピスト修道院の取材であったので修道院の歴史文書を読み、ついでに啄木文献の希覯書といわれる盛岡中学の同人回覧雑誌『爾伎多麻』第一号を手にとって見た。
明治三十年代の盛岡中学の修学旅行先は北海道で、第一夜は函館泊りであった。同人雑誌には金田一花明、野村右近、石川翠江らの名前が見えた。今回は折から野村胡堂伝を盛岡の新聞に連載中であったので胡堂の中学時代の文章を写す作業が加わった。



 筆記を終えてから館蔵書の希覯本である奥邃の『読者読』を借り出して読みふけった。
高村光太郎がくりかえして読んだこの本は、明治三十四年発行の処女作で、奥邃帰国後間もない著述である。『奥邃広録』五巻にたじろぐ人には奥邃入門の書となるだろう。著述家にとって最初の出版にその人の全貌が予測されるものであるから、この本の価値は高い。
北国の秋の半日を人けのない図書館で読書にふけったことは旅の思いがけない収穫であった。館を辞して啄木の歌に出てくる青柳町を歩き、五稜郭に向かった。五稜郭をめぐる攻防は明治維新最後の戦いであったが、奥邃は幕臣たちの抵抗に加わらず、覚めた立場で対処していた。



 函館の教会建築は市の名所になっており、カトリック、ギリシャ正教、聖公会、プロテスタント教会は、メルメ・ド・カション、ニコライ、バチェラー、ハリスなど日本近代史に精神的影響を与えた宣教師たちの拠点にもなっていた。中でも奥邃にとってニコライと沢辺琢磨の函館居住は大きな意味を持っていた。
明治維新の前後、キリスト教禁圧時代における宣教師との接触が新島襄や新井奥邃の運命を変えることになる。日本キリスト教史では、とかく札幌、横浜、熊本に焦点が当てられるが、函館の役割は三都に劣らない役割を担っていたと言える。この十年間にニコライ伝、日記、研究書が出版されて蒙を啓いてくれている。奥邃の全生涯にとっても函館の役割は大きい。



 新井常之進が何故に何時から奥邃の号を用いたのかは不明であるが、いかにもその人にふさわしい号であり、その生涯と著作によって実感させられる。奥羽、奥州、みちのくなどの連想であろうか。しかし空間的な関連と同じく私には時間的な関係に思いが向けられる。
二十代前半の奥邃は函館戦争よりも戊辰戦争後への関わりが深かった。奥羽越列藩同盟に対する薩長閥による新政府の仕打ちは、山口昌男氏の著書『「敗者」の精神史』に記されている。私は四年前、白石を訪ねたとき、城趾を歩いて列藩同盟開催の場所ということで城だけでなく石垣も崩された事実を見聞した。



 藩士は北海道に移住を余儀なくされ、今日の白石区居住の歴史を再考させられた。盛岡藩士は家屋敷を売って六日かけて白石に減封移住させられ、数ヶ月で盛岡に帰国命令が出るという一方的な官軍の処分があった。会津藩士の斗南藩への移住の悲劇は敗者の最たる処遇であった。
新井常之進が奥邃と号したように原敬が一山、原の友人陸実が羯南、江渡幸三郎が狄嶺、野村長一が胡堂・あらえびすと号したことは、北の辺境から勝者の立場にある薩長閥の権力に対して言行をもって対峙しようとする気概と決して無関係ではなかった。



 信仰を若き日に自覚的に受けとめたことは、生涯心の底に流れるものである。奥邃の生涯の中でアメリカ時代が十分理解されておらず、三十年間の亡命にも似た自己流謫を表白する文章は多くはない。
また自己を語ることが極端に乏しい人でも函館における信仰者との出会いは重大であったはずだ。奥邃と同じ船グレート・リパブリック号で渡航した木村熊二は、帰国してから友人の勧める新政府への仕官を拒んだ。奥邃も同様、在米三十年の経歴を活かす途に就くことなく、在野の人として東京の奥、巣鴨に隠棲して農耕を始めた。



 『広録』の中に時の政府に対して批判する言葉は少なく、内村のような激しい薩長閥政府攻撃を読むことができない。しかし荒野の洗礼者ヨハネを連想させる厳しい批判が軍事大国に向かいつつある日本に対して向けられたことは、一種の小気味よさを感じさせる。これとて奥邃の全体の文章からみると、例外中の例外といえることであるが見逃せない。



 明治天皇の死と乃木大将の殉死は社会的な広がりをもつ事件であったが、人々は発言を押えた。生方敏郎は新聞社内の乃木批判の声と新聞紙上の体裁を整えた賛美論との矛盾を正直に書いたが、署名記事発表には至らなかった。
奥邃の発言はまさに北の奥からの直言であり、戊辰戦争、日清日露戦争の勝者になった薩長閥の高位高官に向けられた。



「……故に是の日に於て余之を華族衆に問はんと欲す、公侯伯子男を通じて皆其清浄自新私奉殉の心に問はんと欲す、曰く、公侯伯子男諸君各々皆断然其爵位を返上し、再び青年に更生して、爾餘の民人と均しく新帝に奉ぜんと欲する心ありや否やと。夫れ明治は旧時を一新して功烈赫々彼の如かりし、今や大正、又更に一新して大に新なるを図るべきの時ならずや、夫れ大新は大革を以てせざれば得べからず、然り而して大革は毫釐の私を民人の間に遺すを許さず。況や公侯以下諸華族の列に在る者の間に於てをや」。



奥邃は志ある者に対して語り、小冊子を頒布して現代の批判を続けたのである。奥邃の死は山県有朋の死の年と同じ大正十一年であった。
元老の墓には「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勳位功一級公爵」と彫られていた。前年に暗殺された原敬の墓石には、遺言通り「原敬墓」のみが彫られた。新井奥邃は遺言で墓石すら拒否した。