
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 新井奥邃先生の一語 |
| 寺田 一清 (不尽叢書刊行会・代表) |
「隠路あり、昭々の天に宏遠の道より開く。基督の微妙の戸なり。一息開けて億兆相抱くべし。一息閉じて衆星いんえつ隕越を致さむ。生命の機は一息にあり。――意なり。」 かつてダンテの『神曲』の訳者の山川丙三郎氏が、奥邃先生に序文を乞われたところその序文代りに、奥邃先生自身の語録十数篇をもって代弁せられたのです。その内の一語が、この初掲の語録にあたるもので、森信三先生が最も感銘を深くし、この一語が、奥邃先生と森信三先生を結びつけたものと言えましょう。しかも森先生は、広島高師時代の若干二十三歳ごろと承っております。その時以来、奥邃先生への憧憬やむなく、探し求めること七年、遂に『奥邃広録』にめぐりあえたとのことです。時すでに奥邃先生は帰幽の人でした。 わたくしが森信三先生に道縁を頂いたのが昭和四十年二月で、その五年後『奥邃広録』を古本屋にて入手、読み始めましたが、わたくしの歯牙にかからぬ難物でした。幾たびか挑戦しましたが、全く手も足も出ないというのが実感でした。ところが、奥邃先生の語録を和紙に毛筆で書写するにいたって、ほのかに光明を見出しはじめました。 そこで私自身の座右必携の書とすべく、語録三百六十五を選び『聖言』と題し、制作したのが、昭和六十年六月のことでした。 その一冊を、いちはやく森信三先生に謹呈申し上げたところ、「これは何より枕頭の書にしたい」とお喜び頂きました。その後数年経過して、森先生の曰くには、「この一句(本稿初掲の一語)を三六五選出の語録の中ほどに入れているが、それはこの一語の重みを未だ感得していない何よりの証拠です。次に再版発行の時はぜひ、最後の結びにもってくるように――」と、やや厳しく仰言られました。このひと言は、わたくしにとり、正に頂門の一針で、申すまでもなく再版の時には、仰せに従い、枠で囲み、最終結の語録として位置づけました。 ただ私が守ったことは、この一語について一度たりとも森先生にその解説を求めたことはありませんでした。万一にも解説を求めるや否や、必ずや一喝を受けること必定、と思ったからで、これだけは愚かな私も容易に憶測できたからです。 ところで以来、「生命の機は一息にあり」の一語だけは、微妙にわたくしの胸中にとどまり、忘れ難い一語となりました。 奥邃先生は森先生にとっても生前、面語の機を失し、終生幻の師としてひたすら景仰のみに終った人でした。 森先生は七十歳をすぎて、生涯の全著述を全集二十五巻にまとめたのち、七十五歳にして、最後の啓蒙書として『幻の講話』全五巻を執筆しましたが、それ以前に、『隠者の幻』『ある隠者の一生』(全集所載)をものされこの三冊をもって「幻」の三部作と称されています。この「幻」の師とは、必ずしも奥邃先生ただ一人を指すのではありませんが、大いに、その内容のパーセントは、高いのではないかと想察できるものがあります。 かつて、森先生の晩年(九十二、三歳ごろ)ある日例によってお訪ねしたところ、「けさがた夢をみましたよ。立花の駅前あたりに十数名の人だかりがして、一人のひとを囲み立ち話を聞いておったので、私も近づいていくと、一人去り二人去り、やがてその中心人物とわたくしは二人きりになりました。その人はあなたは何をウロウロしているかと、言われるや否や、大地にたたきのめされたとのことです。そして立ち上るや、視野に入ったのは、師の後姿を拝するのみでした。」このような夢の内容を、森先生はたのしげに告げられるのでした。その師こそ、奥邃先生そのひとではなかったかと思われます。この夢物語は、まことに印象ぶかいもので時にしばしば思い起してやまないものがあります。 いま一つ、忘れがたいことは、乗鞍岳の山麓の一寒村平湯に、篠原無然という一伝道者がおりました。かねてより『飛騨と無然』を読んでおり、この人物に興味を抱き、次第に深く探求するにつれ、新井老人という語が日誌にしばしば登場してくるのです。「老人とは余り長い問答をしたことはない。ただ要点だけを訴えるのであるが、それに対する寸鉄的な一言一句が千斤の重さをもって私の心の闇を打ち破ってもらえる心地がした(云々)」とある。また「そのうちこの老人は三十年程も米国の山中生活をした人である、ということを内ヶ崎氏から聞いて、山中生活に対する憧憬が芽を吹き出した」とあるではありませんか。まさしく奥邃先生に相違なく、奥邃先生の風格がほうふつと浮んでくるので、嬉しく大発見をした思いは忘れがたいものです。 |