
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 佇立する思想に時の思潮が近寄る |
| 花崎皋平 (文筆業/哲学・社会思想) |
三年ほど前から、急ぎの仕事がない日には朝毎に新井奥邃の文章を少しずつ読むことにしてきた。彼の文章そのものが日々の思索を綴ったもので、そういう読み方をしたほうが味わいやすいように私には思える。パスカルの『パンセ』と共通する省察録のスタイルだからである。 私にとって、近代日本のもっとも敬愛する民衆思想家は田中正造である。田中正造を読み、その交友関係を知るにつれて新井奥邃にめぐりあった。正造の奥邃への尊敬と親愛も深いが、奥邃も正造に余人には表さない親密さを抱いたようである。正造の訃報を聞いた奥邃は、島田宗三宛書簡で次のように述懐している。 「顧れば田翁と相識只十二、三年、然れども兄弟啻ならず……其精神に至りては誠に希有なり。……翁の深き心に於ては神の嬰児なり。……翁は死して死せず、其死は却て再生の楷段なりしと感ぜらる。翁の如きは死するものに非ず」。 このように相接した二人の思想的、人格的な響鳴関係をたずね、新井奥邃とはいかなる人物か、と著述や資料を読み始めた。新井奥邃の書いたものは、世のいわゆる著述ではない。祈祷し、独り沈思黙考して獲得した独自の信条を開陳したものである。だからくり返し同様類似のことが語られる。しかし、あるいは教えを請う人の問いに答え、あるいは世相や世人の動きを批評するなど、そのつどの機に即して思うところがのべられていて、一本調子の教義のお説教ではない。 私は、まず彼の父母神の思想に興味を覚えた。ちょうど現代のフェミニズム神学が「父なる神」という神のイメージを問い直しつつあることを知っていたので、グノーシス思想の系譜を引く「父母神」観が新鮮に映った。グノーシス思想は神の男女両性具有説を説いたので、従来、正統派から異端邪説と退けられてきた教説である。 また、彼の男女平等思想が、当時の日本社会の家父長制男性中心主義の考え方と真っ向から対立する点にも惹かれた。この線に沿って彼の思想からまなぶ努力はこれからもつづけるが、奥邃を読むにつれて、彼が肉体を卑しいものとみなす精神主義者ではなく、身体やその感覚を重視し、労働、実業といった日常の営みを思想の現場としていることにも共感をおぼえるようになった。神の観念においても霊と肉とを一体のものとしてとらえ、「霊は肉を兼ぬ」「霊にして無体ならば真霊に非ず」といっている。 労働は、我意を抑制するために必要なものであって「人は必ず勤労の事なかるべからず」という。「仕事の形は種々に変はるとも、其の意味に於ては一也。即ち人を造ること之れなり。人を造るとは自分が ― 神に於て神に由りて ― 自分を造る事。自分をたしかなる人とする事にして、仕事は畢竟皆之がための仕事なり」。また、実業、実践を重んじる。「実業の道に由らざれば宗教はわかるものに非ず。文学的に真理を研究し教会的に聖書を伝説して以て宗教は得らるる者ならず。必ず実際日用の業務に由らざるべからず」。「道を履む」という実践は神を自己の内に迎え入れることである。「神は人の良心の体の拡充せらるゝ其範囲に住み給ふ」のである。「夫れ我が心身に於て活神を実体し、我が手足を以て神の我に由りて為さんと欲する所を実行し、正しく神と相接して、其神体に於て樹立する者、是を之れ道を履むと謂ふ」。このあたりは、儒教の実践倫理が彼の思想形成の基盤をなしていたことをうかがわせる。 神を霊として自己に宿すという考えは、「生命=気」が、全宇宙、人と自然すべてに偏在して働いており、その働きが神であるという思想によって支えられている。人は天地を象り、天地は人の如くである。そして、両者を活かしているのは「気脈」「神気」「生息」である。人の体が神経で組織されているのと同じく、天地にも神経が存在する。人の気と地の気とは通じ合っている。「凡そ天天、天地、地天の間、気脈潮流無数に無限、上下縦横、繊転細折、生々変化の妙至らざるなし」なのである。 この思想は、現代ではエコフィロソフィーとかエコエティカといった、エコロジーの立場を哲学的宗教的に基礎づけようとする思潮の脈絡へと連結させて学ぶことができる。とくに、スピノザの「神即自然」やガンジーの「非暴力」の宗教哲学を受け継ぎながら自然との有機的な関係の回復を追及するディープ・エコロジーの思想は、奥邃の神即生命、神即気の思想に近いように思う。 近代的なフェミニズムが持つ自己中心主義を批判し、近代を越えるフェミニズムを追及する立場は、身体・生命を重んじ、育児、介護、動植物の世話などの価値を再評価するところからエコロジー主義と結びつき、エコフェミニズムという思想を生み出している。エコロジズム、フェミニズム、スピリチュアリズム、パシフィズムというように近代においてバラバラに、時代の隅で生息してきた思想と生き方が、いま、文明の危機が感得される状況のなかで見直され、結合され、その活力を増そうとしている。新井奥邃の思想は、まさにそうした現代の思想の要請にたいして、聴く耳ある者は聴くべし、と佇立している。 |