
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 「霊心貧しき者は福なり」 |
| 鈴木範久 (立教大学教授) |
最近、新島襄や内村鑑三というキリスト信徒はもちろん、夏目漱石、鈴木大拙においても、その用いた聖書のことを述べたことがあるので、新井奥邃についても同じ目を向けてみたい。 奥邃の「随筆」とされる『読者読』が、一九〇二年、小関太平治の手で初めて刊行されたとき、これを紹介した『護教』の記事によると「戊辰の役後漢訳新約全書を読で大に得る所あり」となっている。このことは、はたして奥邃自身が述べたものかどうか確かでないが、もし記述どおりとすると、奥邃は、早くも一八六八年ころには聖書に接していたことになる。 渡米後は、当然、英訳聖書と出会う。その痕跡を物語る文章として、英文のInward prayer and Fragments をみると、気づいただけでも、新約聖書ではルカ伝17章21節、ヨハネ伝14章2〜6節、ヨハネ黙示録21章6、7節、旧約聖書からは歴代志上16章29節、ヨブ記1章21節の言葉が引用されている。使われた聖書は、Authorized Version いわゆる欽定訳であり、そのほぼ忠実な引用である。 帰国後に書かれた文章には、聖書からの引用はほとんどないような見方があるが決してそうではない。『奥邃広録』に収められた「教訓自読」にいたると、まるで新約聖書抄である。引用がないとの誤解の原因は、それらが当時流布していた翻訳委員社中訳(明治訳)の文章によってないためであろう。たとえば、奥邃が「若し汝等感化成りて孩提の如くならずんば、天国に入る能はず」(奥邃は出所を明示していないがマタイ伝18章3節)と記している文は、明治訳では「もし改まりて嬰児の若くならずば天国に入ることを得じ」である。確かに意味は取っていても引用とは言いがたいかもしれない。ところが、ある漢訳聖書では「若爾不感化成如孩提則不得入天国」となっているのである。「感化」にせよ「孩提」にせよ漢訳聖書の語彙をそのまま用いた書下し文といってよい。 漢訳聖書にもいろいろあるが、今とりあげた聖書は、アメリカの宣教師ブリッジマンおよびカルバートソン訳の『新約全書』である。函館の市立図書館の佐藤在寛文庫には一八五八年刊行の『新約全書』(上海)が保管されている。未見ではあるが、それか、または同種の漢訳聖書を奥邃が手元に置いて親しんでいた可能性が高い。 奥邃の聖書観については、すでにコール ダニエルさんの論及(『キリスト教史学』五〇、一九九六)がある。そこで、ここでは奥邃の聖書の引用にあたり、「父母神」をのぞき、もうひとつ顕著にみられる特徴をあげておきたい。 それは「霊心(または霊)貧しき者は福なり」との表現である。この文章は、奥邃のものを読んでいて気になる表現であった。それのみならず、数のうえでも度々登場している。いうまでもなく聖書では名高い「八福」の最初に語られている文である(マタイ伝5章3節)。前述の漢訳聖書では「虚心者福矣」であり、明治訳では「心の貧き者は福なり」である。奥邃は漢訳によりつつ、「心」でなく「霊」にこだわっている。原語はpneuma であるから「心」より「霊」に近い。「霊心」が貧しい人とは、そこに「自我」がなく、文字通り謙虚にして神の「霊」を受け入れる余地が逆に豊かにある人である。 「霊心貧しき者は福なり」の言葉は、『知られざるいのちの思想家』(春風社、二〇〇〇)の「奥邃のキーワード」からは漏れているが、十分「キーワード」に加えられてよい。 |