新井奥邃を語る (月報より)



新井奥邃と中村秋三郎

太田雅夫 (前桃山学院大学教育研究所所長)


 谷中村の「土地補償金額裁決不服訴訟」控訴審の主任弁護士中村秋三郎を、田中正造に紹介したのは新井奥邃であることは知られている。訴訟の途中で谷中村救済会が解散したため、控訴審を担当する弁護士がいなくなった。正造や残留民たちは、新しい弁護士を依頼するにも金もないという窮地に立たされた。



 島田宗三によれば、一九一二年六月十二日が控訴の期日であったので、六月三日になって困り果てた正造は、師事していた新井奥邃を訪ね、その困窮を話すことになる。奥邃はその時、人柄は信用できるとして、謙和舎の門下生中村秋三郎弁護士を正造に紹介したのである。依頼を受けた秋三郎は、恩師奥邃と正造らの信頼に応えるべく、一九年八月十八日の控訴審の判決勝訴までの七年二カ月間、手弁当の無報酬で献身的な働きをした。しかし、正造はすでに一三年九月四日、秋三郎の最後までの奮闘を見ることなく没している。



 勝訴後、秋三郎の長男静彦が一九年十一月に十七歳で病死するという悲劇がおそい、秋三郎のショックは大変なものであった。二〇年十月十六日の元谷中村問題解決奉告祭のあと、秋三郎は記念帳に「村の人も定めてつか労れたるべし僕も労れたり、休安静養せよ、神明の加護必ず我等の上にあらん、切に田中翁を追憶す。」と記した。秋三郎の心情が如実にあらわれている。



 秋三郎自身は、生来頑健でなかったので積年の疲労が一時に出て、二二年六月七日に中耳炎が因で四十四歳の生涯を終る。吉野作造は秋三郎の死亡の報に接し、その日の『日記』に「好漢惜しむべし」と記した。続いて二五年末には、次男邦彦・次女安子を残して、夫人チエ・長女夏子も相次いで病死した。中村家の悲惨な状態は、すべてを谷中村訴訟に捧げ尽くした果ての貧困と過労からきたものであり、まさに谷中村葬送と行をともにした感を強く受けざるをえない。誠実で篤志家ともいうべき、秋三郎の略歴と実像は、現在ではまったく知られていないのが実状である。



 私が秋三郎に関心をもったのは、吉野作造研究との関わりからである。偶然の機会に工藤正三先生から、秋三郎が奥邃の門下生であることをご教示いただき、私は初めて「新井奥邃」の名を知ることになる。また、秋三郎の次男布施邦彦氏(当時八十八歳)の住所を知り、四年前に亡くなられたが布施氏からの書簡で秋三郎の略歴を知ることができた。さらに、今夏のお盆過ぎに、西宮市在住の秋三郎の次女小川安子(八十四歳)さんを自宅に訪ねた。床の間には、奥邃が秋三郎に贈った「嗚呼微妙即是宇宙、宇宙即是微妙神也。実是真人乃父母乃子女純乎二一于永遠矣」の書軸が掲げられていた。安子さんは七歳の時、父秋三郎とは死別されているが、秋三郎の実像を知る機会を得たので、奥邃との関係を中心として紹介してみよう。



 秋三郎は一八七八年十月十五日に、北海道小樽市に生れる。網元布施市太郎の五男三女の三男。九八年二高理科に入学し、中沢臨川と同級となる。翌年法科に転じ三淵忠彦、江渡狄嶺とともに、一九〇一年九月東大法科に入学し、秋三郎は〇五年七月に卒業。吉野作造は、二高・東大法科と一年上級生であったが、秋三郎はこれら友人とは終生交際を続けた。秋三郎は東大在学中に、歌人中村秋香の姪中村チエと結婚し、中村家の婿養子となる。チエは九八年明治女学校を卒業していたが、校長であった巖本善治の仲人で秋三郎と結婚した。秋三郎は、巣鴨に謙和舎が完成する前から、江渡や実弟布施現之助たちと、奥邃の門下生となり「大和会」の会員となっていた。秋三郎は東大卒業後、上海の捕鯨会社に入社したが浦和地方裁判所検事となり、三年ほどして〇九年弁護士に転じている。



 秋三郎の実弟四男の布施現之助(四高・東大医科卒)は、兄と同様に奥邃に師事していたが、東大卒業後、再度スイスに留学し、一六年東北大医科大学さらに医学部教授となり医学部長をつとめた。秋三郎の病気の時は、仙台の大学病院に移してその死に至るまで献身的な治療にあたったという。のち「謙和舎」にならい「昭和舎」という医学生のための塾舎を作り、自ら塾長となって人間教育を実践した。ちなみに、現之助の妻は相馬黒光の妹である。また、実弟五男の久須美幸松(二高・東大法科卒)は、弁護士として最初の仕事が谷中村事件の弁護で、兄秋三郎を助けて控訴審の勝訴まで戦った。これらは奥邃の教えを守った、麗しい兄弟愛のあらわれであった。



 秋三郎は、奥邃の紹介により横浜の平沼銀行の顧問弁護士として、収入を得てはいたものの、谷中村事件の弁護を長い間無償で担当していたため、経済的には苦しく、谷中村の農民たちが野菜類を届けることもあった。安子さんは父親の性格について、お人好しで人づきあいがよく、慌て者で、ひょうきん者でもあり、タバコと酒が好きであったという。



 秋三郎夫妻は奥邃の教えどおり、父母神の思想を男女平等論に適応し、家庭内でも男女平等の和気藹々としたクリスチャンホームを形成していた。夫婦喧嘩をすると、いつもどちらが悪いか奥邃先生に聞いてもらおうと、二人で出かけ謙和舎に行くまでに二人の間で和解ができ、先生の所に行ったときには、別の話をして帰宅していたという微笑ましい話もある。
 一方では、秋三郎は社会問題にも関心があり、大逆事件の公判の傍聴に三淵とともに出かけ、『大逆事件公判日記』を書き続けていたというが、残念ながらこの日記は現在行方不明である。



 奥邃は、常に秋三郎一家の事を気に掛けており、秋三郎の子ども四人の名前は、すべて奥邃が命名している。とくに長男静彦が病死したとき、その夭折をわが子のように嘆き、自らは墓を建てることを嫌った奥邃が、静彦のために「中村之墓」と大書して墓碑銘を与えている。また島田宗三が、二二年三月二十三日に病床の奥邃を見舞った時、秋三郎の足利市出張事務所の様子や、中耳炎の様態などを尋ね心配していた。



 その三カ月後、六月十六日に奥邃は七十七歳で謙和舎で永眠したが、すでに秋三郎は六月七日に仙台の大学病院で病没していた。奇しくも六月十八日の同じ日に、奥邃の葬儀と秋三郎の埋骨式が行われた。島田宗三は、谷中村農民を代表して、田中正造と谷中村残留民の恩人である二人の葬儀と埋骨式に、それぞれ参列し心から感謝と哀悼の意を表したのである。