
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 新井奥邃の「父母神」とグノーシス派の「母父」なる至高神 |
| 荒井 献 (恵泉女学園大学長) |
新井奥邃なる人物が「神」のメタファーに「父母」を用いていることを笠原芳光さんやコール ダニエルさんから聞いたとき、私は奥邃を日本における最初のグノーシス者かと思った。私はその頃『新約聖書の女性観』(岩波書店、一九八八年、第六刷=二〇〇〇年十一月)を上梓して、その中の第九講でグノーシス派出自の「トマスによる福音書」の女性観を扱い、トマスは「至高神」に「母父」(ギリシア語で「メートロパトール」)あるいは「父にして母」(コプト語で「エイオート・インマウ」)のイメージを当てていた可能性があると想定していた(三一一〜三二〇頁)。奥邃とトマスはいずれも「神」ないしは「至高神」を両性具有的存在とみなしており、このような神理解は―キリスト教の歴史的系譜では―グノーシス派の特徴の一つなので、奥邃もまたグノーシス者かと思った次第である。 しかしその後、コール ダニエルさんから贈られた『知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく』(新井奥邃先生記念会監、春風社、二〇〇〇年一月)を読み、コールさん自身の発題を聞き(「『父なる神』を問う」をテーマとして二〇〇〇年七月に開催された日本フェミニスト神学・宣教センター「夏季集中講座」における―私の発題をも含めた―四つの発題のなかの一つ)、新井奥邃はグノーシス主義の系譜に連なるものではない、という結論を得た。以下にその理由を述べる。 まず、「トマスによる福音書」―より明確なかたちでは、これもグノーシス派出自の「フィリポによる福音書」(共に最新の邦訳は『ナグ・ハマディ文書U 福音書』岩波書店、荒井献・大貫隆など訳、一九九八年所収)―と『婦女新聞』掲載の新井奥邃の談話「女学に就て」(前掲『知られざるいのちの思想家』所収)の神理解、直接的には(至高)神の「かたち」を映して創造されたアダム理解を裏付ける聖書的典拠が微妙に異なっている。すなわち、前者は、創世記一章二六〜二七節(「『われらの像に…』と言って、神(エローヒーム)は…人(アダム)を創造した、男と女とに」)を前提しつつも直接的には二章二二節(「神(ヤハウェ)は人から…女を造り上げた」)に拠っているのに対し、後者は一章二六〜二七節のみに拠る。 次に、このような聖書的典拠の解釈によって得られる人間観とそれに対応する神観がトマス(とくにフィリポ)と奥邃とでは本質的に相違する。前者(「トマス福音書」語録八五、とくに「フィリポ福音書」訓言七一)によれば、女「エバ」は元来人「アダム」のなかにあって「生ける霊」(創世記二章七節の「いのちの息」)を共有していた(これが神の「像」を映す限りにおいて、神は「母父」なのである)。その後に、エバがアダムから離れることによって分裂が生じた。この分裂したアダムとエバが人類の始祖なのである。したがって、エバがアダムにもう一度入り込むことによって人間の元型を回復し、原人アダムとなれば、死がなくなり、永遠のいのちを得る。 ここで「アダム」の文法的性が男性であることに注目したい。これは文法的性に留まらず、グノーシス派のジェンダー観を本質的に規定しているように思われる。前掲拙著『新約聖書の女性観』で「母父」と訳したギリシア語「メートロパトール」は通常「母方の祖父」の意味である。これに対応するコプト語「エイオート・インマウ」も、直訳すれば「母の父」となる。これがグノーシス文書では両性具有的原初的存在のメタファーとして用いられているのだが、究極的には文法的にも本質的にも父性的・男性的存在であることは看過できないであろう。実際に、「トマスによる福音書」や「フィリポによる福音書」をはじめ他の多くのグノーシス文書においても、圧倒的多くの場合、至高神には「父」(あるいは「原父」)のメタファーが当てられている。 以上の至高神・原人アダム理解がグノーシス派の男女観にも反映している。確かにこの派では男性と共に女性も聖職に就くことができ、女性も典礼を執行している。このことが、女性聖職者を認めなかった正統的教会によってグノーシス派が「異端」として排斥された理由の一つであった。その限りにおいて、この派では女性が男性と対等に評価されている。しかし女性聖職者は、男性聖職者と共に、そのセクシュアリティを超えて「単独者」となり、至高神の「生ける霊」に与かる限りにおいて、男性聖職者と同等なのである。これに対して、一般女性の「子宮」に象徴される女性性は排他的批判の対象とされている。他方、一般男性の生殖器官批判はグノーシス文書に見出されない。総じてグノーシス派でも男性優位は払拭されていないのである。 新井奥邃の場合、他ならぬ創世記一章二六〜二七節が「男女対等」の典拠とされ、この箇所が次のように解釈されている(以下の引用は原文を筆者が現代的表現に書き換えたもの)。 ◎男女対等 男と女とは対等にして尊卑無きものである。神が人を創られたことは、神自らが言われている。「われらの肖像に人を造った。それは、男と女である。これはわれらの肖像である。われらは真の人である。父、母、である。子供はすなわち子女である。子女は父母われらの肖像である。われらは唯一の神である。唯一の神は真の人で、すべての父母である。父は母を尊び、母は父を尊び相共に愛敬游動して、宇宙社会の道はわれらに備わる。…」。(「女学に就て(一)」) 次いで奥邃は「女学に就て(二)」において、次のように「男女平等」について談話を続けている。 ―「完全なる人」というのは一人であって、これを二つに分ければ、半は男となり半は女となる。この「人」にある天与の権利、すなわち真の人権は、衡平にして完全なるものである。これを男と女との間に二つに分ければ、異性となるが、不衡平にはならない。男女に異なるところはあるが、その間に尊卑貴賤ということはない。したがって男と女とは、分ければ対等、合わせれば一体なるものである。 「父母神」は、奥邃にとって、現実社会における「男女対等」を基礎付ける根源的存在であった。それは、現実社会を否定的に超えた「母父」ではない。 |