新井奥邃を語る (月報より)



竹久夢二と新井奥邃

関谷定夫 (西南学院大学名誉教授)


 筆者は昨年秋に『竹久夢二―精神の遍歴』という著書を出版した。その中で新井奥邃をとりあげ、彼の特異な思想が夢二に与えた精神的影響を私なりに推理した結果をのべた。それは夢二がまだ十代の後半、九州から上京して早稲田実業学校に入った頃親しくなった友人助川啓四郎(後に福島県会議員、衆議院議員)を通して知った奥邃の最初の高弟、東京女子大学教授の渡辺英一との長い親密な交友を通して、間接的にではあるが、奥邃の思想の影響を受けたと思われるからである。



 渡辺英一は一八七五年(明治8)に福島県田村郡逢隅村(現郡山市)に生まれ、二〇歳で東京高等師範学校の理科地質学に入学、二四歳(明治32年)で卒業し、一八九七年(明治30)に自ら創刊した『教育実験界』の主観となった。二六歳(明治34年)の時、成瀬仁蔵創設の日本女子大付属高等女学校の教師に迎えられ、七年後に日本女子大学教授になった。



 一方、奥邃は周知のように、明治三年に後の日本最初の文部大臣になった森有礼に将来を見込まれて彼に随行して渡米し、明治三二年に帰国した。その四年後の明治三六年暮れに移り住んだ東京巣鴨の謙和会で、少数の有為の青年を集めて、新井独自の精神教育を行った。渡辺英一はその最初の門弟となり、家族ぐるみで彼の感化を受けた。明治三七年、英一が妻繰子(とりこ)と結婚した時、奥邃がその立会人になっている。英一死後に出版された『隈川の流れ』によると、明治三五年に奥邃が渡辺宅を訪れているから、謙和会のできる前から両者の交友関係があったことがわかる。奥邃を最初に世に紹介したのは明治女学校校長の巖本善治だった。彼は奥邃を内村鑑三や植村正久、海老名弾正といった当世を代表するキリスト教指導者に紹介した。奥邃は内村に頼まれて彼の主催する『聖書之研究』の第八、九、十号に連続三回寄稿している。



 奥邃の信仰の特異な点は神を父母神と呼び、キリストを両性具備の貴神と呼んでいることである。最近は世界的にフェミニスト神学の立場から神を「父にして母なる神」と呼ぶ風潮があるが、奥邃は百年以上も前にすでに神を父母両性具備の神として表明したのである。また彼は人は皆兄弟姉妹であり、万国は一族であるとの観点から国家間の戦争を全面否定した。



「率然として衆に雷同すべからざる也、……夫の肉殺血伐、即ち人を殺すの業の如きは、高天の下、広地の上、永へに当に全廃すべき也」



と、日露開戦に反対している。
これは若き夢二が私淑した内村や安部磯雄らと全く同じ立場であるが、渡辺英一も同じ非戦論を彼主催の『教育実験界』に発表している。奥邃はそうした絶対非戦論の立場から、これまで幾多の戦争にたいして反対することのなかった既成教会を非難し、



「平和来る。必ず詐偽なる教会滅びて而る後是れ成るべし。毒心なる教会滅びて而る後夫れ成るべし。戦争教会、傲慢教会、自己主義教会、……皆滅びて而る後平寧大和夫れ成るべき也」



と断言している(『難録其二』)。徹底した現代キリスト教会否定論である。夢二は内村や安部、さらには羽二もと子らの非戦論に大いに共鳴したが、さらに深く奥邃の非戦論とそれに結びついた現代教会否定論には強いインパクトを与えられたに違いない。



 奥邃は足尾鉱毒事件救済活動の中心にいた田中正造の精神的バックボーンだったこともよく知られているが、夢二は『法律新聞』に依頼されて明治四〇年二月一五日の誌面に「足尾銅山騒擾の光景」と題した絵を六枚も描いている。もちろん夢二は直接現場を見た上で描いたのではなく、想像で描いたのだが、この問題に相当の関心をもっていたことが窺える。彼はすでに明治三四年一一月一日に神田美土代町の青年会館で足尾鉱毒演説会があった時、弁士のなかに内村と安部がいたので、その講演を聞いて感動している。



 田中正造はしばしば奥邃を訪問して、その教えを受けている。奥邃は「私がいつも考えていることを、田中正造さんは実行しています」と言って、信仰における知行合一の実践家としての田中を尊敬評価している。また田中正造の天皇直訴(明治34年)についても、これを擁護する文を書き、その中で「民権を軽んじ民生を顧みず、唯自利是図り唯私党是れ与みし以て帝国の侮辱を上天の眼下に開く」権力者の大罪に対して天は必ずこれを罰すると言い切っているが、この一文がなによりも正造の心の支えとなったと思われる。そしてこの反権力主義こそ夢二の生涯を支配した思想でもあった。彼は滞欧中のスケッチ帳に「地位が個人に魔力を与へる。権力」と書いている。ベルリンでナチスによって迫害されるユダヤ人に同情し、彼らの海外亡命を助ける運動に積極的に協力したと言われているが、それもこうした反権力主義ヒューマニズムの実践に外ならないといえよう。



 正造は大正二年九月四日に死去したが、八月二二日夜半、翁危篤の報を受けた奥邃は二六日に島田宗三宛てに手紙を送り、その中で「肉体も実に大切なものに候へども、人の生命は誠に永久にして肉体以上に在ることを明らかにせざるべからず。田翁は其肉に死するも其人は死せず、何事の其身辺に起るも必ず翁の為に悲しむ勿れ」と戒めている。奥邃の面目躍如たる一文である。奥邃は大正一一年六月一六日に七七歳で逝去した。「墓石を造るな」との故人の意志に反して、彼の墓は世田谷の森巌寺にある。筆者は親戚に当る元東北大教授、宮城教育大学長の林竹二を通して奥邃を知ったが、数年前から、毎年東京で行われる「新井奥邃先生記念会」に何回か出席し、一九九七年六月一五日に始めて工藤正三氏の案内で森巌寺の奥邃の墓を訪れた。また渡辺英一は昭和三四年四月二日に死去し、墓は彼の生家に近い郡山市西田町にある。墓石の表面に「ひたすらに求めしものは真と善、敬神静黙勤労の日々 渡辺英一之墓」と記されている。一語一語に師奥邃の感化の跡が読みとれる。



 最後に筆者の心に刻み込まれた奥邃の最も印象的なことば「自分はキリストの志願奴隷である」を以て結びとしたい。