新井奥邃を語る (月報より)



新井奥邃の"Responsibility of Man"のこと

小野 四平 (奥羽大学教授)

 一八九九年(明治32)の八月。三〇年ほどの滞米生活を終えて帰国したとき、新井奥邃は五十四歳になっていた。「言わば着のみ着の儘で」(永島忠重『新井奥邃先生』)帰国したのだが、彼は、そのときアメリカで執筆したInward Prayer andFragmentsを持参したという。そして、これはのちに『奥邃広録』第一巻に収められた。一九三一年(昭和6)のことである。さらに、これは工藤直太郎氏によって翻訳され『内観祈祷録』として刊行された。一九八四年(昭和58)のことだった。そのなかに「人間の責任について」という文章が収められている。一九八五年の執筆というので、彼の帰国する四年前にアメリカで書かれたことがわかっている。奥邃四十九歳のときであった。もちろん英文で書かれていて、タイトルは"Responsibilityof Man"である。私は、工藤氏の翻訳を手がかりにして、この文章を理解しようとつとめてみたが、どうしてもうまくのみこめなかった。



 止むを得ず、自分の手で翻訳してみることにした。私の試訳に対しては、工藤正三先生、コール・ダニエル先生による全面的な検討を辱くした。深甚の謝意を表したいと思う。なお、まだまだ十分でないところがあるかもしれない。読者のご批正をいただくことにしたいと思う。



翻訳「人間の責任・一八九五年」


「人間の先天的性格は、もともと善でも悪でもないものだが、自己占有という悪の法則を自ら採ることによって、悪なる後天的性格を生み出すことになるし、一方、同胞の人間的豊かさを増進する、自己を放棄した生産的行動の法則を採れば、善なる後天的性格を生みだす助けともなり得るものである。条件付きで限定的に言えば、人間なら誰でも、自分自身を再創造するものである、しかも絶えることなく何度も」――G.B.M.



 これは、人びとを勇気づける福音である。もし断固としてやり抜けば、人間は誠実な努力を通して変革を遂げることができるのだ。



ここに、人間の誕生の重大な意味がある。ここに、人間の本然の心に対する責任がある。だが、間違ってはいけない。人間は、すべてのことができるわけではないのだ、すなわち、「人間は、存在として、無限の能力を有しているのでない」ということだ。そこで前述したパラグラフの言葉を、注意ぶかく読もう。



人間は、「善なる後天的性格を生みだす助けともなり得るものである」。
まことに、神は、人間の助け、つまり忠実な奉仕を通して、人間のためにそのような性格を創るのである。変革における獲得、獲得を通しての変革。



前者は父としてのもの、後者は子としてのものだ。だからして、条件付きで限定的に言うならば、「人間なら誰でも、自分自身を再創造するものである」。けれども、これは無条件に言えることではない。さらに、同じ論理の脈絡をたどると気づくのは、条件付きで限定的に言うならば、人間なら誰でも、自分自身を再創造する、しかも「絶えることなく何度も」する、ということである。だが、そのプロセスは独特なものである。そのことについて見ておこう。



善でも悪でもない先天的性格からなる人間が、善か悪かいずれか一方に成長せざるを得ないというのは事実である。つまり、母親の胎内に捉えられた時から、あどけない幼児期に至るまで、人間は消極的な無垢の状態にあり、責任の自覚は持っていないのである。



 しかし、それから後は、意志と理解力を働かせることで、彼は善に向って、あるいは悪に向って進まざるを得ない。ところが、初めのうちは、私たちには奇妙なことと思えるにもかかわらず、ある一定の期間、人間の有機的状態は必ず善悪の双方に向って発展していかざるを得ない。それは事実なのだ。そして、善と悪の、どちらか一方が他方よりも強力になる傾向がある。このような成長の道程は、その人の精神生活がある成熟した段階に達するまで、長期にわたって続くこともあろう。



 だが、その段階に達した時には、人間の内面的な危機が発生する。それは、地上における生活が、要するに戦いなのだということに由来する。一方に主の軍勢が、もう一方に破壊性をおびた勢力が、双方とも人間の有機体に住みつくのだ。それらの勢力はやって来ては、去ってゆく。呼吸するたびに、考えたり感じたりするたびに、接触したり行動したりするたびに、扉が開く。そして、細胞という細胞、組織という組織など、あらゆる身体の器官を駆けめぐり、夜も昼も、合戦が絶えることなく続くのである。やがて勝敗を決する戦いが行なわれ、勝利者が宣告される時がくる。その時になって、その人に一時的な休息がやってくることもあろう。



 けれども、場合によっては、本人でさえ、それを外側から看取できないし、特性によっては知覚すらできない。先天的なものとしての人間の無垢は、消極的で休眠状態にあるものであって、積極的なものではない。有機体としての人間は、遺伝悪からすっかりとは清められていないのである。主の恩寵により、悪からの勝利を一つ得た人間は、その程度に応じて清潔さを獲得する。しかし、彼は永久に安息できる慰めを見出すまでには至らない。その有機的な衣に関して言えば、その人はまだ完全に清められていないのだ。彼は新しい装いをまとっていない。



 彼の内面で、また彼を通して、さらに多くの戦いが待ち構えている、ますます獰猛で、さらに大々的な恐ろしい戦いが。そして、主に助けられながら、彼は悪を一つひとつ残らず克服するに至るのだ。戦功を立てた兵卒は昇任される。彼は生産的な軍隊の将校に、将軍に、そして長官へと昇進する。けれども、彼の有機体はなお完全には清められていないのである。確かに、敵は打破された。ある者は殺され、ある者は捕虜となり、ある者は逃走し、他の者は退却した。けれども敗れた敵は援兵を呼ぶ。そして、さらに多くの敵がやってくる。多くの戦いに勝利を得た長官は、その偉業によって今や栄光につつまれる。



 だが、彼は完全に登りつめたのではないし、完全に悪から解放されたのでもない。私たち人間にとって、戦いが最終的に終わるのは、自然が現在の状態のままではもはや存在しなくなってしまったその時であろう。自然はただ、その破壊力の程度において、超自然に呑み込まれ、再生によって完全となる時にのみ、霊の花嫁となるだろう。その時、私たちは平和を享受し、輝かしい衣、つまり永遠に朽ちることのない肉体をまとうであろう。



 その時まで、毒麦の種は小麦の良き種とともにこの世に存在しつづけなければならない。その時まで、善と悪は、人間の有機体のなかで交戦しなければならない。その時まで、人類の秩序は、神の救済の法則に厳しく則った生産的な精神の勢力によって維持されなければならない。そしてその時まで、殉教の精神の叫びが聞こえるのだ。「おゝ父よ、何故に私をお見棄てになるのですか」と。



 私たちは天の父を心から認めており、みなその子どもである。だから、私たちは、最内奥について言えば、天上に輝く太陽や星と同様、純粋で楽しく、穏和で調和のとれた状態にある。けれども原罪による人類の堕落以来、人間の生活が悪に対抗する善の勢力によって維持され、特異な法則によって支配される、そのような大地の上に、私たちは生まれてきたのである。それだから私たちは紛争にまきこまれており、最も内奥にある魂を除けば、純粋でないばかりか、楽しくもなく、穏和でもなく、調和もとれていないのだ。



 自然の状態にあるかぎり、私たちは真の人ではない。私たちのうちにいかにそう見える者がいるとしても、実は真の人は一人としていないのだ。いかに純朴であり正直であったとしても、また自分でその事実を自覚していないとしても、自然の状態の中では真の人は一人もいないのである。ここに、救世主・神人の降臨がある。健康な人は医師を必要としない。しかし病人は医師を必要とする。彼こそ「良き医師」なのであって、私たちの病気が重ければ重いほど、彼は私たちに近づくのである。彼こそが唯一の真人なのであって、彼はこの使命のためにやってきたのであり、そして惨殺され、復活し、今やふたたびやってきているのだ。



 外見上はいかに強く見えても、絶対的な意味で、私たちは皆病んでいるのだ。厳密に言えば、この地上には肉体的な面でさえ真に健全な人は一人も存在しないし、堕罪以来、一人として完全に健康な者もいないのである。そうなのだ、あまねく人類は、有機体としては病んでいるのだ。そして、外見上より強健な人びとが、その内面では、柔弱な人びとよりも病んでいるケースは、往々にしてあることだ。また一方においては、私たちの肉体的疾患が、場合によっては人類の変革の過程で生起することもあろう、――もちろん、これには一定の保留をつけなければならないのだけれども。



 沈滞した病的要素というものは、私たち自身の行為によってもたらされたものではないとすると、遥かな昔の先祖を通して私たちの身体に受け継がれ伏在してきたものなのである。だが、もしも私たちが救済され、聖なる自然態になるべきものならば、審判の過程において、これらの要素は私たちの身心から放逐されなければならない。それだから、私たちの再創造は絶対に必要な事なのである。この再創造は、特異でもあり、また救済でもあるところの、地上において効力を有する「神法」を通して進行するのである。ここで私は、これまで幾度となくくり返されてきた主張、しばしば語られてきた主題へと立ちかえらなければならない。



 主の救済の法則に身を置くためには、私たちは自我に関して、自分自身を完全に否認しなければならない。真に自己を否認するためには、私たちが何者であり、どんな状況に置かれているのかに関して、私たち自身を知らなければならない。けれども、このような自己認識は、私たちの存在を(最も内奥の魂は別として)、全くの悪なのだということを私たちが認容しないかぎり、また、神による再生を通してのみ、私たちは善にも純粋にもなり得ることを純粋論理上自覚しないかぎり、そしてまた、着実だがゆるやかなプロセスによってのみ、徐々に本当に救済されるのだということを私たちが身心の機能を通して感得し自覚しないかぎり、――この点を、私は強調したいのだが――決して真の認識にはなり得ず、許しがたいほど不完全なものでしかないのである。そして、このような自覚もまた、精神と肉体の双方において、キリストに結ばれた信仰と、精魂をこめた奉仕をもって、私たちが勇敢に神の忍耐を受け入れないかぎり、真の自覚ではないのだ。



 私たちが自分自身をいかに知っても、知りすぎるということはない。一般的に、かつ偽りなく言うならば、私たちは、最もすぐれた探査をもってしても、私たちの内面を十分に知ってはいない。兄弟たちよ、本質的には天父の一人の息子である私たちは、誠の連帯によって自分自身の内部を探求しようではないか。誠とは、連帯に適用される場合にのみ、実際的な誠であって、そのような連帯が完全な誠をもたらすのである。完全な誠によって、私たち自身を知ろうではないか。あるがままの私たち自身を知ることによって、その状態がいかに暗いのだとしても、私たちは悪に堕することはない。否、その逆である。真に私たち自身を知ることによって、私たちは、主の軍勢が私たちの内部、すなわち戦場に入ってきて、活動する道を開くのだ。私たち自身を知るということは、したがって、私たちの仕事を正しく行うことである。光なる神の剣をとって人間世界の荒野を切り拓くことであり、歓びの王なるキリストの降臨を宣言することである。私たちは知ることを通して、神に仕えようではないか。