新井奥邃を語る (月報より)



新井奥邃の"Responsibility of Man"のこと(その二)

小野 四平 (奥羽大学教授)

 人間なら誰でも、自分自身を再創造するものである、しかも絶えることなく何度も。――奥邃の文章は、みられるとおりこのような認識から出発している。そして、その「再創造」を「誠実な努力を通して」実現できるのであって、そこにこそ人間の、「人間としての責任」があるのだと、彼はいう。もちろん、この文章の中でくわしく触れられているように、人間は悪にも善にも変革し得る存在なのである。そして、悪と善の、どちらにでも向うことのできる状態の中で、激烈な、継続的な合戦を通して、はじめて人間は善に向っての変革、すなわち「再創造」が可能となる。ここで言われている責任すなわちresponsibilityとは、悪からの勝利を通して善に向うことを選択する仕事を指しているのである。



人間が、そのような意味での「人間の責任」を果たすために必要なことは何か。それは、「神を信じること」なのである。――これが、奥邃の考えであった。この文章における核心は、文字どおりこの一点にあるといってもよいだろう。そして、神を信じ、神をうけいれるという意味での「人間の責任」は、「自我に関して、自分自身を完全に否認しなければならない」ところから出発するのだという。「自己を否認す
る」ためにこそ、私たちは「私たち自身を知らなければならない」のだ、と。――「私たち自身を知る」ということ、つまり「己を知る」ことは、「私たちの存在を(最も内奥の魂は別として)、全くの悪なのだということを私たちが認容しないかぎり」、不可能なことなのだ、という。



完全な認識
神をうけいれる
自分自身を再造する

私たちの存在が全くの悪であることを認容する

悪からの勝利を通して善に向う

自己を否認する



以上の全体を通してはたらく、人間としての全存在を賭けた決断と実行のすべてを、奥邃は「人間の責任」Responsibility of Manと呼んでいたのだと考えられる。前回翻訳しておいた彼の文章は、こうしたことについての彼の思索を詳しく記しているのである。



 ここで注意しておきたいのは、奥邃は、彼自身の思索について語るのに、「神父」とか「牧師」のようにふるまっていないということがある。すでに、多くの証言によってよく知られているように、この人は、周囲の青年たちに対して、決して「説教」じみたことをしなかったという。彼は、ただ彼の信じる「人間の責任」について、ひたすら書き綴っただけなのだった。私には、そのことがとりわけ重要に思えてならない。
 「説教」というものは、「話者」にとって既知と自覚されてしまったことどもが、聴衆に対して、しばしば押しつけになってしまうことが多い。こうして、「説教」は敬遠され、忌避されてしまう。そのような例は、たぶんいくらでもあげられるだろう。これに対して、奥邃のように、自分の信じることについて、ほとんど自分自身のための心覚えのように書く姿は、私の目には、文字どおりの「求道者」にみえるのである。
 真の求道者にとって、関心は、基本的に「彼自身」だけなのであろう。彼には、たぶん既知のものはない。すべては未知のことなのだろう。だから、追求しなければならない。ひたすら追求しつづけるしかない。そのように、私には思えてしまうのだ。そして、だからこそ、私たちは読者として、あるいは聴衆として、彼の語る(書く)ことばにひきつけられ、離れることができなくなってしまう。そのように思う。



 この文章はまた、幾つかの点で私の注意を引く。そのひとつは、こうである。



 「健康な人は医師を必要としない。しかし、病人は医師を必要とする」―― 奥邃は、このような認識から次のようなところにたどりつく。「この地上には、肉体的な面でさえ真に健全な人は一人も存在しないし、堕罪以来、一人として完全に健康な者もいないのである」。



すべての人間は、存在としてすでに病んでいるのだとする認識はきわめて重大である。それは、今日ではまだ広く承認されたものではないにしても、責任感を有している多くの知性にとっては回避できない事実としてうけとめられているのだといってよいだろう。このような問題が、百年あまり前に、一人の日本人によって明確に断言されていたのである。その先見性に富んだ洞察に、私はおどろかされる。たとえば、いわゆる健常者からなされる障害者に対する、いわれなき優越感のようなものも、このような洞察に立つことなくして克服できるものではないと考えられる。



もうひとつ、あげておく。
この文章の最後のパラグラフに注意したいのである。そこに、次のような文章が認められる。「誠とは、連帯に適用されるときにのみ、実際的な誠であって、そのような連帯が完全な誠をもたらすのである。完全な誠によって、私たち自身を知ろうではないか」。―― ここに認められる「完全な誠」という言葉が、私の注意をひく。



「誠」という、いわば、きわめて主観的、かつ不安定といってよい言葉が、このように重大な意味の中で用いられていることに、ショックをおぼえたのかもしれない。 人間が存在として「悪」なのだという事実を承認するために、その人間の「完全な誠」が必要だと認識されている、もうひとつの深い洞察が認められる。「弱さ」から「悪」への認識を内容とする洞察が、それである。「完全な誠」とは、その意味において、私には「祈り」という言葉と重なっているようにもみえるのである。 奥邃にとっての「人間の責任」には、もしかしたら、そのような「祈り」が含意されていたのだったかもしれない。いま、私は、そのような思いにとらえられている。