新井奥邃を語る (月報より)



山川丙三郎訳ダンテ『神曲』と新井奥邃の言葉(一)

石川重俊 (元福岡大学教授)

 新井奥邃先生の謙和舎に於て、その門下にあって先生に親炙していた山川丙三郎は、ダンテ『神曲』訳校成るに当って、奥邃先生に、各巻への序文を懇請した。伝えられるところによると、奥邃先生は、滅多に人の揮毫依頼に応じられるようなことはしなかったようである。山川も一度は揮毫をお願いして断わられている。しかし『神曲』各巻頭への文を、という山川の懇請に対しては、奥邃先生自ら文を撰して山川に与えた。このあたりの消息について、永島忠重は、その著『奥邃先生の面影と談話及遺訓』の中で次のように伝えている。



 「私が友人山川氏と同道して行つた時に、山川氏が遠慮しながら画仙紙を出して先生に揮毫を御願ひすると、先生は『朝と昼と晩とで何時も気分が違ふやうな者に書いて貰つたからとて其れが何の役に立ちますか。』と、自分を罵るやうな事を言つて、終に応じられなかつた。無遠慮に厚ケ間しくも大きな紙を持つて行つて沢山書いて貰つた者もあるのに。」(八五頁)



 また奥邃先生が山川へ文章を与えるに至った次第のあたりについては、「山川氏がダンテの神曲を翻訳して、先生に其の序文を御願ひすると、先生は序文として別に書かれなかつたが、丁度其の時に書いて置かれた文書の中から抜粋、序文の代りに渡された。
 先生は大抵の著名なる書物は亜米利加在留中に一と通り目を通されたやうであるが、神曲に就ても、『ダンテは初めの地獄に一番力を入れたのでせう。其の他はあれ程に面白くないやうです。』と、話して居られた。」(九五頁)



「『地獄』の前に」として与えられた十一の文節の内、十番目までは『不求是求』から抜粋されたものであるが、この『不求是求』は、山川のダンテ『神曲』地獄篇出版(大正三年、一九一四年十一月)の約半年前に単行本になっていたものである。山川に与えられた抜粋文では、表現の仕方を多少変えられているところもある。但し、十一番目の文章は「晩年餘息」中の一節と山川は記しているが、「晩年餘息」と題する書き物は、私の微力であって、未だに出所が明らかではない。所在が明らかでないものは、この他、「浄火」篇に二ケ所ある。これらの書き物の出所不明がもし決定的のことであれば、これらの文章は、山川に与えられた奥邃先生オリジナルの文章ということになり、その実証となるものであり、貴重な書き物となる。 左に、「地獄」篇に与えられた奥邃先生の文節を、その初頭、書き出しの文と、中的な言及を示しながら挙げてみる。(数字は便宜上、石川が付したもの)先ず冒頭に山川は次のように記す。



 訳者稿成りて後新井奥邃先生に一言を乞へるに嘗て録せられたる文中よりママ右の数節を抜粋して贈りたまへり。(右、と記したのは末尾に置くつもりであったものであろう。)



1. あヽ、我等奴隷亦何を恐れんや。…仮令ひ非ひと人或は我を殺すも、…我則ち彼に入りて其霊を縛せん。我が奪取する所尤大ならむとす。是れ奴隷の自由権なり。我何ぞ彼を恐れんや。
2. 非人を縛するは、彼を悪むに非ざるなり。彼を愛するなり。…。
3. 愛すべし。皆相共に愛すべし。…温容は一徳にして、心の愛はほんこん本根なり。…之を生活に日常に実にせざれば足らず。…正解の実修なきは、猶風前に於ける一葉の如し。…。
4. 基督の心意は嬰児の如し。美なり。幼なり。根なり。種なり。…死者をして甦らしめ、死をして死せしむ。
5. 天国は衷に在るが如し。…人能く暗黒を脱せば、此の世も亦皆貫いて光る。嗚呼基督士基督阿 耶蘇士耶蘇阿。大本大源生命之神。彼は神にして人の中外に貫在す。〔Christus, Christa, Jesus(イエズスというラテン語読みを利用), Yesa, 奥邃先生の造語〕
6. 毀誉得失の念を避けよ。…吾人…世の池中の一魚なり。自ら独り清とする勿れ。自ら清とするは、毀誉得失に執着するの尤なる者なり。大人の子ならず。
7. クライストの下には圧制なし。協議ありて私議なし。…。
8. 之を探れば猶悲し。悲をして悲ましめよ。悲は夢生の間のみ。其夢を覚むるを待て。
9. 夢生は私なり。私我なり。詐偽なり。此の世に執着する者皆是れなり。



10.(隠路あり、と書き出してある文章。これは、賢哲森信三をして奥邃先生に至る路を示すものとなったと述懐せしめたものである。全文を挙げる。)

   隠路あり。照々の天に宏遠の道よりして開く。………クライストの微妙の戸なり。一息開けて億兆相抱くべし。一息閉ぢて衆星隕越を致さん。生命の機は一息に在るなり。意なり。



11.(これが、前述のように出所を明らかにし得ないでいる文章である。左に全文を掲げる。)
 自然は学ぶべからず。従ふべし。学ぶべからざるに非ず、唯学は、自然に現界に従ふに在り。然り而して自然の性は、昼夜舎まずして超自然に向って昇る。超自然は永遠の先より実在す。超自然は自然の目標なり。自然にして若し超自然を見て進まずんば、自然は是れ蒙目と謂ふべし。何ぞ其自然に有らんや。超自然の上より来りて自然の最下に至り、万有を己に帰せしめ、以て無辺の宇宙を統一するは、基督士基督阿真人也。統一者の統一者。誠に真の人也。若し是の人微りせば、万事なし。万有滅絶す。故に一人を興すは必ず是の人に由る。国家を興すは必ず是の人に由る。天下を興して天地を新にするの道是の真人に由らずして成るべきこと永遠を極めて必ず有らざる也。基督教を知らんと欲する者夫れ之を知れ。若し好まざる者は好まざれ。(「晩年餘息」中一節)



 これら一連の文節は、一見、片々の断想録の感を与えるかも分らないが、これは、そのような感想文や随想録のようなものではない。正宗白鳥がかつて「単なる感想文」と評したものが、定評のように受けとられ、盲黙的に持ち歩かれるようになってしまったが、精読するならば、そのような愚言は全く当を得ていないばかりか、新井奥邃をも、山川丙三郎をも、ダンテをも知らぬ者の弄言というより外はない。奥邃先生が与えたこれらの文章は、奥邃先生がすでにそれまでに書いてあったものの中からの抜粋ではあっても、先生の定められた視点によって、一貫した文脈に整えられて配されている。即ち、地獄とは何か、浄火とは、天国とは何かのことに集中されている奥邃先生の省察、認識との結びつきを見せているものである。このように、奥邃先生は撰んだ文節に脈絡を与え、所論を統合しておられるのである。



 そこで、次に「地獄」篇へ与えられた文節が指し示していることの謂の大要を示しておく。
 1から3の文節では、先ず奥邃先生は自らをキリストに捕えられたものであると表明する。(これは『静間読』に於けると同じ表明)その上で、キリストに捕えられて奴隷となり、解放された自由の人は、己に悪をなす者の悪を憎まず、己を殺す者があっても、その者の魂をキリストのものとして捉え、愛し、全ての人を愛して、互に相愛すべし、と言う。これはことばではなく実行すべきことであると言う。(ここでいう自由はヨハネの認識であり〔ヨハネ八章三一節以下〕、愛、悪はパウロの確信である。〔第一コリント八章一節、第一ペテロ四章八節〕)



4と5の文節 幼子の心はキリストの心である、生命の源なる神、天国は人の内に貫いて在る、と言い、次の文節につなぐ。(この幼子はマタイやマルコ、ルカにある認識であり、イエスの誕生・死・復活・死に勝ち給うた復活のキリストを外延として挿入している。〔ルカ十章二一節、マタイ十一章二五節、マルコ十章十三〜十六節等〕)



 また、暗黒は、ヨハネの「やみ」〔ヨハネ一章一節〕であり、私我なるやみである。十字架の聖ヨハネの「暗夜」でもあり、十四世紀のノリヂのジュリアン独住修女の「執着」である。この私我の闇をひかりの世とならしめるために来たのがキリストである。このような考えを、奥邃は『投火草』、『不求是求』でも述べている。また、死については預言者イザヤ〔イザヤ二五章八節〕、ホセヤ〔ホセヤ十三章十四節〕、使徒パウロのヴィジョン〔第一コリント十五章五五節、第二テモテ一章十節〕、マタイ〔マタイ八章二二節〕等の認識をうらずけとしている。この文節の中ではキリスト・イエスを基督士基督阿耶蘇士耶蘇阿と表現し、奥邃先生の信仰、神学の最奥にある「ちちははかみ父母神」の認識を示す。(別の書き物の中では、父・母・神という三字を一つに組み合わせて一字とする書きあらわし方をする場合もある。)これは独住修女ジュリアンの啓示体験として知られたことである。そして、この「二−而−一」なる認識構造は、キリスト教神秘思想が共有するものではあるが、奥邃先生のこの認識構造はニコラス・クザーヌスのコインシデンチア・オポジトルム(対立の一致)に限りなく近い。二十世紀の英詩人T・S・エリオットも、その作品『四つの四重奏曲』の終行を「火とバラは一つ」と結び、その哲学的神学をふまえた省察の詩、詩人エリオットのプルガトリオを全うした。



 6から10の文節ではキリストの支配の下にない人生、政治は、神なき者の生であり、真の生の道ではない、私我、執着の夢生である、目覚めて真の生に至る道を探れ、超自然の神は人の外に在って同時に人の内に貫いて在る、と前項の思弁を再説する。



 そして、10の隠路は、(前記のように森信三の心を動かして奥邃先生への路を示された文節であるが、)神の真の道に至る路のことであり、そこに至る路に入る門は「微妙の戸」であると言う。奥邃先生がここで言う微妙とは聖書に言う「奥義」(ミステリヤ)である。〔マタイ十三章十一節、ロマ書十六章二五〜二六節〕特にここではマタイの七章十三節以下に見る「狭き門より入れ、滅びにいたる門は大く、その路は広く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出すもの少なし」とのイエスの言葉を強く反映させている。見出すものが少ないが故に「隠されている」(パウロ)、「微妙、ミステリヤ」の路、隠路である。11番目の文節 「晩年餘息」からのこの一文は、自然についてである。何故ここで自然論かと言うと、「自然」は永遠の実在なる超自然を目標として上昇しつづける。超「自然」は誠の真人(これも奥邃先生の特別な用語の一つである)を自然の内に降下し来たらせることによって一切を支配せしめた。この真人こそがイエス・キリストである。このことを知れと言う。そして、罪の責苦の中にいる者たちの世界を凝視するにはなくてはならないこの様な認識に達する必要があることを示す。「地獄」篇の序文としては至当の文節である。(つづく