
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 田中正造の直訴と新井奥邃 |
| 小松裕 (熊本大学教授) |
二〇〇一年の今年は、田中正造の直訴から一〇〇周年にあたる。昨年は、川俣事件から一〇〇周年というので、二月一三日に「押出し」(大挙誓願上京)を再現するイベントが実施され、大いに盛り上がった。今年も、一一月から一二月にかけて、栃木県立博物館や佐野市郷土博物館を中心に、様々なイベントや展示が企画されている。田中正造を記念し、未来に語り継いでいこうとする企画が相ついで行われることは、とても喜ばしいことであるが、同時に、「直訴一〇〇年」で終わりにならないよう心がけていくべきであろう。 正造の直訴に関していえば、これまでも様々な解釈が提示されてきた。私も、今年の三月に刊行した『田中正造の近代』(現代企画室)の中で、九〇年代の直訴研究も踏まえ改めて論じておいたが、その後、布川了氏が『田中正造と直訴事件』(随想舎)を八月に刊行された。「直訴一〇〇年」を契機に、直訴像の再検証が熱心に行われることを期待したい。 布川氏の著作にも引用されているが、新井奥邃は、直訴後の一二月一五日に、芝口越中屋で謹慎中の正造に宛てて手紙をしたため、「過日のこと万感あり、又此の后ニ可申上こともあれども、当分一切御無沙汰ニいたし候」と書いた。正造が本気で死ぬつもりであったことを悟った奥邃は、言葉に表現できないほどの感銘を受けたのであろう。しかし、正造の複雑な心中を思いやって、当分は面談を求めたりせずに、遠くから見まもっていようと考えた。三宅雪嶺などと同じように、新井奥邃も、田中正造が直訴という手段に訴えざるを得なかった心情を痛切に理解していた。その理解の度合いは、正造に直訴の策を授け、その脚本を書いたと自負する石川半山よりもはるかに深かったのではなかろうか。 奥邃は、翌年の一月、周知のように「過を観て其仁を知る」を雑誌『日本人』に発表し、正造の直訴を擁護する論陣をはった。豊かな儒教的教養に基づいて孔子や孟子を縦横に引用しながら、新井奥邃は田中正造の心事を次のように思いやっている。 「今ま田中氏の心を視るに其中ち一に唯だ 天王陛下の愛民にして急窮に陥いる者の生命を救はんと欲する至誠有るのみ、誠に能く救はざるべからざる者を救ふを得ば己れの身を殺すと雖も顧みず、是れ田中氏の心なり、罪の在る所は正造固より甘んじて其罰を受く、然に余の此人に於る則ち其過を観て愈々其仁を知るものなり。」 そして奥邃は、田中正造の行為が憲政を侮辱するものであってその罪は許し難いとする批判に対して、次のように弁駁する。現在の憲政がよく行われていればそうもいえるだろうが、日本の憲政は名ばかりのもので実がないではないか、その責任はむしろ憲政の府に立ちながら憲法に背く政治を行って恥としない政府当局者にあるというべきである、台湾総督府高等法院院長の高野孟矩が第二次松方内閣の手によって非職免官されたのがその良い例である、「夫れ政は民の為めに設ける者なり、民を殺して(之が非命の死に至るを致して)憂ひず政を欺て耻ぢず而して獨り民に責むるに其憲法法律に循行するを以てする嗚呼難たいかな」、と。 この「過を観て其仁を知る」には、「政は正なり」とする奥邃の政治観が早くも窺えるのであるが、足尾鉱毒による犠牲者を「非命の死者」とする認識を田中正造と共有している点も、非常に興味深い。 『日本人』の同じ号の巻末近くに「風聞録」と題するコラムがある。そこで、新井奥邃が、自分の文章に関して手紙を送ってきたことを紹介している。このことは、案外見落とされているのではなかろうか。 本篇第一條「十三日検事其将来を戒」の語を掲ぐ、昨日余田中正造氏を見て言此に及べり、正造氏云く此れ新聞紙の載する所なり実際此事なし、誰も役人の我に「将来を戒」めし者なし、是れ事實に於て無き所と、今朝「日本」新聞を見るに亦「田中翁断片」と云ふ者あり、十二月二十三日奥邃識一友云く、某新聞に於て(横濱の)英文なる新聞より譯せし者にして余が本篇の説と殆んど同じきものを見しと、果して然らば余は益々吾が述る所の天下の公言なるを信じ且並に其人の言を聞かんと欲す、奥邃又識 この記事によれば、新井奥邃は、一二月二二日に田中正造と会っていることが確認できる。「余田中正造氏を見て」という記述から判断するに、おそらく、偶然に出会ったのではなかろうか。そこで、正造から、新聞で報じられているような検事に将来を戒められて釈放されたという事実はないことを伝えられ、すぐに訂正を申し入れてきたのである。正造は、直訴から釈放されるまでの間の事実関係が様々に歪曲されて伝えられているのにとても困惑しており、機会ある毎に実際のところを説明する労をいとわなかったが、同様のことを奥邃にも言ったようである。 この日、二人が他にどのような会話を交わしたのか、それはわからない。そして、この段階で正造はまだ、奥邃が書いた「過を観て其仁を知る」の文章を見てはいなかったろう。直訴前の初対面のときは、自分を「神経病」であると諭した奥邃にあまりいい印象を持たなかった正造であった。そのことを考えれば、二人が本当の意味で出会ったのは、この一九〇一年一二月二二日であったというべきかもしれない。正造の直訴が、二人の間の心理的距離を一気に縮めたのである。 |