新井奥邃を語る (月報より)



奥邃の「霊界」観と「霊魂」観
 
――スウェーデンボルグとの関連において

高橋和夫(文化女子大学文学部教授)

 私が奥邃の思想に触れたきっかけは、長年学んできたE・スウェーデンボルグ(一六八八〜一七七二)を奥邃が熟知していた事実を知ったことである。奥邃についてはまだ研究不足であるが、彼の思想の根底にスウェーデンボルグ神学が厳然と存在することは、奥邃の著作を読み進むごとに確信できる。



 むろん奥邃は独自の思想家であるから、スウェーデンボルグの思想の単純な受容はなされていない。両者のめざすものが一致するという点で両者はきわめて密接な関係を保つ、という言い方のほうが適切であろう。両者の関係は、瀬上正仁氏の『明治のスウェーデンボルグ――奥邃、有礼、正造をつなぐもの』(春風社刊)で広く検証されているので、一読をすすめたい。



 さて本稿では、奥邃の思想の中から「霊界」や「霊魂」に関する所説に注目してみたい。周知のようにスウェーデンボルグは、何よりも、史上類を見ない霊界探訪者であり、その世界に関する膨大な著作を残している。一方、奥邃の著作では霊界は主要なテーマではない。しかし注意深く読めば、この主題にもいくつかの個所で出会うことができる。本稿では著作集の第二、三、四巻の範囲内でこれを見てみよう。



 奥邃はいわゆる永遠の生命や霊魂の不滅を確信している。この確信は、例えば「終わりの日の復活」といったキリスト教の伝統的教理に依るものでない。このことはしだいに明らかにしてゆく。



 奥邃にとって肉体の死は人間の意識の絶滅を意味しない。「夫れ神を信ずる者は、肉体或は死すと雖も其霊魂依然として生存し……」「故に逝者の為に哀しむ勿れ。彼只此の地界を転去せるに過ぎざれば也」(『語録』明治四一年九月)と彼は明言する。死後霊魂はどこへ行くかといえば、それは「此世に不見と雖も霊界に存在」する(同)。そして「霊界に属するものは霊眼によるに非れば見るべからず」(『信感第二』明治三七年)。天国と地獄に関しては、善や愛に生き「再生更新」しつつある霊魂は「天」ないし「上界」に行き、一方「私情卑業」に陥った霊魂は「下界の闇黒に降る」という(『語録』明治三九年)。もっとも現世で再生の道を歩んでいるならば、その人の霊魂は現世ですでに天国にいるとされる。すなわち「夫れ人能く再生更新の地に昇れば、現界を出でずして其霊魂常に天或は上界に居る」(同)のである。



 以上に概観しただけでも、肉体の死は自然界から霊界へのたんなる移行にすぎず、生前善に生きた霊魂は天国へ、悪に生きた霊魂は地獄へ行くという、スウェーデンボルグの教説と軌を一にすることが明らかである。



 『信感第二』(明治三七年)の「人体」と題された一節(わずか四―五頁の論述)中に、人間の霊魂に関する注目すべき言明がある。彼の論を追ってみよう。



 奥邃は当時の人体の生理学的研究のレベルでは「人」を理解しえないと述べる。彼は「此の世の人体」には「七層の構造」があるという。整理すると、「人体」の外より内に向かって@皮膚骨肉A生気の体B肉体の我C記憶のすがたD霊魂の我E人格F種性の七層である。



 Aは、鉱・植・動物界の生気を受容する部分とされ、当時一般に言われたアニマル・スピリットのようなものであろう。「我」にはBとDの二種類があり、Bは自然界に属する性質を有し「欲望の体」とも呼ばれるという。いわゆる感覚的な本能であろう。CはBとDの間の媒体とされるが、奥邃の説明はよく分からない。このCまでの層は「比較的単純なる組織」であり、善でも悪でもなく、これらの層に対する個人としての責任も存在しない。これらはどれも「真に人の人たる所以の物ならず」とされる。



 以上の層はスウェーデンボルグが心身の「自然的なもの」と呼ぶ領域であり、その上位ないし内部の「霊的なもの」の基底となるが、それ自体は肉体の死によって消滅するものと見なされる。



 Dの霊魂の我は「霊境の始」であり「平常は肉体我の後に潜匿する」。これは「自意自識自智自力の体」にして「自願自楽自生活の体」である。しかしこれもまた「人」の本質ではない。



 人の本質、すなわち「人の人たる所以の物」は、霊魂の我のさらに奥深いところに存在する「ペルソナリチーの体」である。奥邃はこれを「今試みに人(性)格と訳し置くべし」と述べ、これをいわゆる人格と混同してはならないと注意を喚起する。Eの人格は「人の因りて以て人たる生命の確立する所のもの」と定義され、これはDの霊魂の我と一種の抗争状態におかれるという。さらに人格は「霊体の奥にして、超越感覚を有する本体的霊魂たり」と明言されている。



 奥邃は霊肉の熾烈な抗争を「神戦」ととらえるが、人格と我の抗争は、人格による我の制圧によって人間の精神を成長させるものである。



 以上の第五と第六の層はスウェーデンボルグでは、「自然的な心」(D)と「霊的な心」(E)に相当し、またこれらの心の最内奥に鎮座してこれらを統括する「霊魂」(anima)の働きにも相当する。奥邃が人格を「本体霊魂」とか「霊魂の奥体」としている点は注意を要する。



 それでは最上位ないし最深部の層である第七層とは何であろうか。それを奥邃はF「種性」と呼ぶ。種性は「神より降されたる『種』にして人格及本心の中に」存在する。EとFとの関係は、人格の「本」が「種性始発の生命」とされるから、種性は人格の本質・原理・根源ということになろう。奥邃は種性について「此の種子は如何なる人にも存し、又如何なる場合にも悪に穢されざるのみならず滅ぶることなし。悪人の中にも之を認む。如上の次第にて人格は自我全権になれば心と共に滅ぶることあれども、此の種子は滅ぶること曽てあるなし」と述べている。



 このような「種性」は、スウェーデンボルグの言う、肉体と心との根源たるアニマ霊魂の本来的な働きに全面的に一致する。奥邃もスウェーデンボルグも、人間はこの種性つまりアニマ霊魂の根源において、自らの「父母神」である「愛と知恵の神」の生命の受容体になる、と考えている。こうして奥邃の言う「有神無我」の「神戦」は、たんなる倫理・道徳の次元から宗教的な信仰の次元の問題となるのである。



 「人体」の末尾で、奥邃は今概観した「人」(ここでは「人体」でなく「人」と書かれているが、このほうが適切であろう)の七層構造についての思想を「古書」に依ると述べている。おそらく、スウェーデンボルグも含めて奥邃がさまざまな典拠から学び自らのものとした思想なのであろう。



 以上、小稿では、奥邃の著作に見られる霊界や霊魂についての思索を、スウェーデンボルグの教説と関連づけて考察してみた。