
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 緊張感に満ちた信仰 ――ブレイクとの親近性 |
| 中条省平(学習院大学教授) |
新井奥邃は『聖書』のなかでも好んで「ヨハネ黙示録」を引用している。コール ダニエル氏によれば、月刊『奥邃語録』に巻頭言として置かれた黙示録の言葉のうち 、引用は第二十一章「新天新地」に集中しており、これは「特筆に値する」ことであるという(『新井奥邃著作集』第四巻・解題)。 しかし、奥邃が「怒を殺すこと」を自己の信仰の第一ケ条に挙げていることを考えれば、最後の審判にむけて神の怒りが文字どおり爆発する「ヨハネ黙示録」の記述は、どうも奥邃という人物のひとがらには相応しくないような気もする。 ちなみに『著作集』第四巻を例にとれば、黙示録第二十一章から、こんな言葉が引用されている。 「凡そ不潔なる者、憎むべき者、偽をなす者、皆此に入るを得ず」 「此」とは最後の審判を経たのちに顕現する新しいエルサレムのことであり、一見、汚れや憎しみや偽りを戒める、ごく真当な信仰の言葉に見える。だが、この言葉は、黙示録の同じ章でつぎのようなかたちに変奏されている。 「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である」(新共同訳) この「火と硫黄の燃える池」を抜きにしては、おそらくキリスト教の歴史的な理解は成立しないであろう。D・H・ロレンスは生涯の最後の著作のなかで『聖書』の最後の書を論じているが、そこで『チャタレー夫人の恋人』の小説家は、「アポカリプス」のなかに、ついに現世で権力を取得することのできなかった下層民衆の劣等意識と、権力者や上層階級への報復の感情のもっとも尖鋭な発露を見ている。これはニーチェのルサンチマン(怨恨)説とも本質的に重なりあうキリスト教理解である。 新井奥邃は、ヨハネ黙示録に親しむことで、キリスト教の信仰をつらぬくことが、醜悪な現世にたいする巨大な怒りに必然的に通じることを知りぬいていたであろう。だが、怒りは最後の審判を司るアルファにしてオメガたる神のみの権能である。だからこそ奥邃は、正義の名のもとに怒りをほしいままにする宗教者の心中の理を察すると同時に、その安易な怒りをまずもってみずからに禁じたのではあるまいか。「ドコか病院か御役所の小使でもあるらしき」と評される「至極謙虚な平和な」ひとがらの良さだけで、緊張感にみちた信仰を長年にわたって維持できたはずもないからである。 怒りの審判者たる神と、愛の人キリストとの矛盾は、D・H・ロレンスの示唆するところでもあり、ロレンスは当然のことながら後者によって前者を排することを『アポカリプス論』の眼目の一つとしているように思われるが、私はロレンスの説得力あふれる真摯な論述に魅せられつつも、怒りを欠く愛は世界の実相をあまりに狭小に単純化し、信仰のリアリティを損なうことになると思う。 むしろ私は、世界に無心(イノセンス)と有心(エクスペリエンス)の二面性を積極的に見て、そこにいたずらな宥和や調停をもちこむことを退けたウィリアム・ブレイクの思想に、新井奥邃の信仰との本質的な親近性を感じる。そして、ブレイクもまた奥邃とおなじく、最後の審判に深い関心を寄せ、また、スウェーデンボルグの神学から大きな影響を受けた人物であった(ブレイクの『天国と地獄の結婚』はタイトルからしてスウェーデンボルグの影響のもとにあるが、中身ではスウェーデンボルグを徹底的に批判している)。 奥邃は、先の「凡そ不潔なる者、憎むべき者、偽をなす者、皆此に入るを得ず」という引用文のあとに、「一点の生命我に開息すれば、春風温にして内天明なり」という、およそ黙示録的な厳しさとは対照的な一節を記している。神の息吹きのもとに、世界と自分とをへだてる壁が一瞬にして融け、内と外が自在に通じあうような、信仰の恍惚境の記述である。パトモスのヨハネの見た幻が奥邃的「有心」の極限に屹立するヴィジョンであるとするならば、春風こそは奥邃的「無心」のもっとも美しいイメージだといえるだろう。 「春風早既に温にして清し、是に於て戸外又野艸を思ふ、我れ野艸を思ふ、野艸も亦思ふありや、天之に衣するに清衣を以てす、天夫れ艸を思ふ、艸豈天を戴かざらんや、識らず思はず天の則に従ふは艸なり、無感に感じて天愛に応ず、微妙の霊亦其中に在り、艸に非ず、其中に住む、我が小弟妹なり」(『著作集』第六巻) ここにおいて新井奥邃は、「一粒の砂に世界を、一輪の野の花に天国を見て、掌に無限を、ひと時に永遠をとらえる」ブレイクと通じあう融通無礙の境地に達しているのではないだろうか。 |