新井奥邃を語る (月報より)



新井奥邃と長沢鼎

門田明(鹿児島県立短期大学名誉教授)


 仙台藩士新井奥邃がニコライを通じて始めてキリスト教を知ったのは、一八六九年二三歳のことであった。それ以来、周囲の人々にキリストについて語りはじめ、これが仙台キリスト教の始まりといわれている。一八七〇年東京に出て、奥羽越列藩同盟の同志金成善左衛門に会い、その時森有礼に紹介された。金成は森邸に書生として寄寓していたようである。アメリカ滞在中キリスト教に入信していた森は、キリスト的風貌の新井との邂逅に、神の摂理を感じたようである。少弁務士として再渡米するに際し新井を伴い、一八七一年三月詩人宗教家ハリスに紹介し、新井はそのままハリスの宗教共同体「新生社」にとどまることになった。その時新生社には薩摩の留学生長沢鼎が暮らしており、以来ここで新井・長沢二人の日本人が、共に労働と求道の生活を続けることになった。


 さて長沢鼎は一八五二年鹿児島城下に生まれた。幼名を磯長彦輔という。一八六五年、薩摩藩がイギリスに送った留学生の一人に選ばれ、それ以後長沢鼎を名乗ることになった。同行の他の者はロンドン大学の聴講生として学んだが、十三歳という年少者であったため、一人スコットランドに送られ、アバディーンの中学校にはいり勉強した。一八六七年、維新の動乱が近づき、藩から学費仕送りが途絶えると、森、長沢など英学生六人が、ハリスの援助申し出を受け入れ渡米した。留学以来終始彼らに好意を示してきた英人ローレンス・オリファントの仲介であったが、オリファント自身またハリス宗の信奉者であった。一八六八年五月頃、新生社にいた日本人のあいだに意見の対立がおこり、森、長沢と鮫島尚信三人を残し、他の者は社を脱退した。六月森、鮫島はハリスの命を受け帰国、結局長沢一人残ることになった。森はその後官界に入り、先にも述べた新井との出会いがあり、新井の新生社入信へと進展した訳である。


 新生社に入った新井は、ハリスの教説を書きとめ、それを出版する仕事に没頭した。一方長沢は、ハリスの起こした事業、特に葡萄栽培と葡萄酒の醸造技術の修得に熱中した。世に言われるとおり、新井がハリスの精神性を受け継ぎ、長沢がその事業手腕を継承することになったのである。


 一八七五年早春、かねて東部から西部に新生社を移転することを考えていたハリスは、新井、長沢、など身近な者五人でカリフォルニアに移り、サンフランシスコに近いサンタローザに土地を求め、その地の湧水にちなんでファウンテングローブと名付けた。十一月には母屋が完成し、新生社の集落は次第に形を整えていった。


 一八七九年葡萄の植え付けが始まり、一八八二年には葡萄酒の醸造所も完成し、長沢はワイン造りに情熱を傾けた。一方新井は常にハリスの傍らにあり、ハリスの著作出版に精出した。また、ハリスが住居から十数マイル離れた、リンリラの山荘に隠るときも同行し、ともに隠遁黙想の生活を送った。一八九二年になると、ハリスは健康上の理由からニューヨーク、そしてフロリダへと居を移したが、その後も新井は山荘にとどまり独居隠遁の生活を続けた。一方長沢は完全にファウンテングローブの管理者となり、ハリスの委託を受けて、事業の一切を取り仕切ることとなった。事業と隠遁と、全く対照的な二人であった。


 一八九九年、新井は飄然と、単身帰国した。渡米後二八年が経過していた。ひとり東京に住み、その教えを慕う人々が次第に周囲に集い、一種自由教会とでも言うべき仲間が形作られていった。そして一九二二年、孤高の聖者として多くの信奉者を残し、新井はみまかった。長沢の死去は一九三四年、八二歳であった。


 新井と長沢が共に暮らしたのは、新生社滞在の約三〇年であった。共に極めて個性的な人格であり、打ち解けることは全くなかったように見える。三宅雪嶺が、かつて長沢に出会った時新井のことを尋ねると、「そういう人がいましたっけ」と答え、変に笑って語るのを避けたというのは、よく知られた話である。近くに暮らしながら、長い歳月、ほとんど没交渉に終わったと想像する。


 新生社が変貌し始めたのは、ハリスがここを去った頃からである。この頃から長沢は、生活の中で故国日本を意識し始めている。日本領事珍田捨巳がサンフランシスコに着任すると、長沢は彼との親交を深め、珍田を通じて、鹿児島出身の正金銀行サンフランシスコ支店長鍋島直を紹介され、他の日本人との交友関係も広がっていった。九二年には農園に日本人農夫を雇い、九五年になると甥の本田幸助と協力して、牛馬の育種実験を始める。九六年甥の伊地知共喜を呼び寄せ、後継者として農園を手伝わせる。そして、九七年三二年ぶりで帰国する。ファウンテングローブはもはや昔の求道の場ではなくなってしまった。世俗が入り込み質的に変わっていった。長沢も修道者ではなく、普通の事業家に変わったのである。


 新井が長沢と袂をわかち、アメリカに決別することになった最大の理由は、このファウンテングローブ修道院の崩壊を目の当たりにしたことにあったのだと思う。