
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 『光瀾之観』のこと(その一) |
| 小野四平(奥羽大学文学部教授) |
一八九九年、(明治32)八月に、およそ三十年のアメリカ滞在を終えて帰国した新井奥邃が、巣鴨の「謙和舎」に移ったのは、一九〇三年(明治36)十二月三十一日のことであった。よく知られているように、晩年のおよそ二十年を、奥邃はここに過ごした。 ところで、帰国してから巣鴨に落ちつくまでの四年有余について、永島忠重は「先生は帰朝以来縁に任せて転々居を移し、処定めぬ放浪者の如く日を過ごして居られた」と、『新井奥邃先生』で述べている。放浪者のような生活の中で、すでに知られているように奥邃は幾つかの文章を書いているのだが、そのような生活の最中に「光瀾之観」と題する文章を書いたのだった。このことに寄せて、やはり永島は次のように書いている。 「光瀾之観」と題する次の漢文は、当時小山鼎浦氏が千古の名文と評したものであるが、其れと他の和文とを合せて印刷に附し、一小冊子と為して知人間に配布されたのも其の頃の事である。(五〇頁) 小山鼎浦氏については後述する。問題は、「一小冊子」である。漢文による光瀾之観と「他の和文とを合せて印刷に附し」たという「一小冊子」について、『奥邃広録』に徴してみたがよく分らなかったのだ。しばらくして、山形の工藤正三氏のご教示によって『光瀾之観』と題する小冊子を披見することができた。これが永島の言う「一小冊子」だと断定することはできないが、その可能性は高いと考えられる。 この小冊子は、漢文の「光瀾観―洋々道動」と、和文による「教学―光瀾の洗滌」からできている。「光瀾観」は後に、若干形が変えられた上で一九〇七年(明治40)五月の『奥邃語録』に再録され、「教学」も、表現が若干変更され、翌年十一月の『奥邃語録』に「教学 光瀾の洗(一九〇一)」の題で再録されることになる。次回、この小冊子の全体を現代語訳によって紹介することにしたいと思うが、その前に、若干のことをお断りしておきたい。 奥邃の文章が初めて『女学雑誌』に載ったのは明治三十三年の夏のことであったが、明治三十六年、すなわち一九〇三年の『女学雑誌』を調べてみると、その第五一六号から第五二三号に、奥邃によって書かれた「光瀾之観」と題するコラムが設けられている。その題目を次に記しておく。 第五一六号(明治三十六年六月十五日) 光瀾之観 光瀾之観(漢文) 大母の女訓 第五一七号(明治三十六年七月十日) 光瀾之観 花観の釋並に遁棲の謬 記録 第五一八号(明治三十六年七月二十五日) 光瀾之観 記録 美は善の文 不我之言(一) 不我之言(二) 第五一九号(明治三十六年八月十日) 光瀾之観 記録 難解言中 第五二〇号(明治三十六年八月二十五日) 光瀾之観 記録 第五二一号(明治三十六年九月十日) 光瀾之観 記録 (フハウンテン、グローブ泉叢団体の側面観・善治) 第五二二号(明治三十六年十月十日) 光瀾之観 記録 第五二三号(明治三十六年十一月十日) 光瀾之観 精神 山形の工藤氏によってご教示をうけた『光瀾之観』と題する小冊子の文章は、漢文の光瀾之観を除いて、ここに記した『女学雑誌』の文章のどれとも一致しない。ただ、『女学雑誌』第五一七号の「光瀾之観」のコラムの末尾に、次のような文章が載せてあって注目される。 ◎新井奥邃氏の妙文 新刊の女学雑誌見るべきもの尠なからず、而して吾人は奥邃新井氏の光瀾之観一篇を読んで、言ひしらぬ微妙の感にうたれぬ。奥邃氏は信仰の深邃、人物の敦厚、現代稀有の隠者として、基督教界の一部に知らる。惜いかな作るところの文章、常識の理解を超え、いまだ世人の知るところならず。氏の小著「読者読」のごときも、たゞ少数の愛読者あるのみ。吾人は氏が漢文に精達するを聞いて、その文に接せざるを憾みとせしが今光瀾之観一篇を読む、情趣渾然として、温玉の潤へうる如し。温風起而光明為瀾、眞人在陰、静焉而餘音多福、小童弟児於異乎舍厥我而相携、膠々然快楽遊動、嗚呼是何観也、光明有瀾、同人以洗心。舒べ得て何等の美観ぞ、吾人を以て見れば、思ふに此文は基督教文学近来の名文ならむ、いな日本に於ける基督教文学唯一の名文ならむ、いな是れおそらくは漢語の生みたる千古の名文ならむ。かくの如き文は決して尋常一様の作す所にあらず。(鼎浦生)(「新人」所載) これが、永島のいう「小山鼎浦氏が千古の名文と評した」文章であることはいうまでもない。小山鼎浦氏は宮城県気仙沼の人。明治十二年に生まれ、大正八年に没している。この文章は、もと雑誌『新人』四巻七号(明治三十六年七月一日)に載せたものである。 (注)小山鼎浦氏については、鼎浦小山東助顕彰会による『鼎浦小山東助の人と思想を語る』及び 『トーク・鼎浦小山東助を語る』が近年刊行された。いずれも西田耕三氏の編になるもの。 帰朝後の奥邃が巖本善治と知り合うようになったいきさつの詳しいことはわからない。 しかし、永島忠重が次のように述べているのは注目される。 先生は角筈を去つてから暫くの間四ッ谷辺の或る知人の家に寄食して居られ、それから某氏の紹介により、当時基督教徒として又女子教育家として有名な者であつた明治女学校長巖本善治氏を知り、瀧野川村の俗に楓寺と云つた寺の離れ座敷を借りて移られ、一人の青年と共に起臥して居られた。(『新井奥邃先生』四六頁) 奥邃が「光瀾之観」という文章を書いたのは、この楓寺においてだったと考えられる。というのは、この明治女学校に学んだ野上弥生の小説『森』の中に、そうと考えられる描写があるからである。 小説『森』の中の「第九章・或る土曜日の午後」に、それが認められる。まだ女子学生だった弥生子の目に映った奥邃のすがたが、「村井幽寂先生」として描かれているばかりでない。「光瀾之観」についての彼女の受けとめ方についても記されているのだ。たとえば、こんな具合である。 (村井幽寂先生は)幕末、徳川方の骨っぽい武士に殊に多かったアメリカへの脱走組の一人で、また彼らを一般的に捉えたキリスト教への帰依も、この人を入信に導いた或る宗教団体の、信仰と労働の合一、祈りつつ、働きつつを第一義とする主張が、その信仰をも一般のキリスト者とは別なものにした。そればかりではない。村井老人は教養ある幕臣として漢学も、とりわけ老荘の書に精通しており、それが彼においてはキリスト的なものと背反する代わりに、かえって渾然と融合された独自の思想の持主にまでした。 このごろの「新女性」に掲げられる「光瀾の記」が、識者のあいだで評判になっているのはそのためだ。 村井幽寂が、当時の野上弥生子に映った奥邃その人のすがたであり、「新女性」が「女学雑誌」、「光瀾の記」が「光瀾之観」を指していることは確かなことである。 そして、この「或る土曜日の午後」には、作者の分身と考えられる「菊地加根」が、明治女学校を指すとみられる「日本女学院」で見聞したことを主として加根の目を通して描かれているのである。作者の筆は、更に続けられていく。 とにかく、「光瀾の記」が念入りに読めば読むほど、わからない神秘的な、謎めいた記録になるのみではない。活字を通さずじかに聞くと、ますますそんなおもいに誘いこまれた。はなはだ訥弁である。声も老人らしくしゃがれ気味で低いうえ、一語、一語自ら話すより、なにか深山幽谷の鳥の啼く音、あるかなきかの風のそよぎ、あるいは叢林の底の隠れ水のせせらぎにも似て、天地万有に秘められた、とりも直さず彼にはそれこそ神からはるかに遠く伝わるものを、なんとかして周りの人間に取り次ごうとしているかのごとくであった。やや薄くなった白髪の大きな頭。額の皺はふかいが、頬はたるんでいない中高な顔、眼は見ひらくと巌つく大きいのに、話のあいだはいっそ眠っているかのように半眼に閉じているところ、キリスト者よりどこか禅僧の面影があった。校外からの講演者のいろいろさまざまな話は、予告とともに愉しんで待つ学生たちとはいえ、一時間あまり、場外ではそれ以上に及んで、いっそ木像めいたお爺さんのとんとわからないお経のような話を聴くのは辛いのである。 しばらくして、菊池加根は同窓の赤沢まつ、島津よしえにさそわれて村井先生をたずねることにした。「村井先生のとぎれとぎれの発音が入り混じる沈黙より長くとだえ、女学生たちも暇乞いする時になった」とき、村井先生の言葉に、「魂がって」しまった。そのときのことを、作者は次のように記している。 では、なにが語られたのか。 まず、学ぶことの尊さがいわれた。同時にどこで、どんなかたちで、誰について学ぶかが重大な問題だ。その意味から、あなた方は仕合せだ。この言葉に続いたのは、なんと日本女学院に対する批判であった。 「あすこに集っている方々は、皆さんがただ人でない。申さば、一人一人が龍であり、麒麟であり、鳳凰であります」 それを師として学ぶ彼女らは幸福だ。しかし村井先生の言葉は、それにはとどまらなかった。 「ただ遺憾ながら、龍や、麒麟や、鳳凰には、馬車は曳けない」 さて、「光瀾之観」の「光瀾」という言葉は、『孟子』尽心篇にみえる次のような文章によっていると考えられる。その部分を、岩波文庫(金谷治博士)の『孟子』から引いておく。 孟子曰、孔子登東山而小魯。登太山而小天下。故観於海者、難為水、遊於聖人之門者、難為言。 観水有術、必観其瀾。日月有明、容光必照焉。 流水之為物也、不盈科不行。君子之志於道也、不成章不達。 この文章は、連続した意味をとりにくいものとされてきた。いま、金谷博士によって提出された読みを次に引いておくことにしたい。 孟子曰く「孔子はとうざん東山に登りてろ魯を小なりとし、たいざん太山に登りて天下を小なりとしたま えり。故に海をみ観し者は〔天下の水を〕水となし難く、聖人の門に遊びし者は〔天下の言を〕言となし難し。 水〔の大小〕を観るにてだて術あり、必ずそのなみ瀾を観よ。日月に明あることも、すきま容光をも必ず照らす〔ことにて知る〕。 流水の物たるや、くぼ科みをみ盈たさざればすす行まず。君子の、道に志すや、くぎりめ章(程)を成さざればいた達らず。 そして、金谷博士は孟子のこの文章について、次のように要約しておられる。 恐らく、はじめに聖人の道の優越性を強調し、次でその道の表われが、微小な末端まで及んでいることを述べ、従って君子の道への歩みが、そうした細事についても立派に完成しつつ、一歩一歩進むものであることを、いったものであろう。 孟子の「道」は、もちろん奥邃の言う「道」と同じではない。孟子にとってのそれは、人間生活のあらゆるところに、普遍的にはたらいている本質的な道理を意味していたのだと考えてよいだろう。彼にとって重要なことは、そのような「道」を手に入れるのに必要なてだてを重視することであったと考えられる。水や日月についての例は、その意味で大切である。孟子によれば、こうである。水や日月の本質を、人は直接に見ることはできない。けれども、その本質的なものの現象としての「なみ瀾」や「ひかり光」を見ることはできる。だから、人は、その瀾や光を通して、はじめて水や日月の本質にせまっていくことができる。孟子の言葉を、もしこのように考えてよいとしたら、それは、そのまま奥邃の「光瀾」への理解につながっていけるであろう。 奥邃の「道」は、もちろんキリスト教そのものである。キリスト教における、最も本質的なものを、彼は道と呼んでいた。そして、その道に近づくために必要なてだてこそ、その道の現象としての「光瀾」―「光のさざなみ」に対する開眼であった。奥邃の「光瀾之観」を読むときに、これは重要な一つの視点なのだと考えられる。 |