
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 奥邃と美術家たち ――『絵画叢誌』をめぐって―― |
| 北川太一(文芸・美術評論家 /高村光太郎記念会事務局長) |
明治三十九年十一月廿七日に印刷された『大和会報』第壱号は、巻頭に隈川・渡辺英一の執筆したという凛然とした「大和会の旨意」を置き、続けてその成立を「新井奥邃先生の友人門弟等同先生指導の下に相互の修養を図らんが為に一の団体を設け之を大和会と名称す其の成立は明治三十九年十月十四日なり」と宣言する。明治八年に阿武隈河畔で生まれた渡辺は、少年時代から絵が巧みで、生涯美に深い関心を持ち、竹下夢二などとも交遊、奥邃没後の大正十五年には『美と信との生活』(内外教育社)の著書があって版を重ねた。 発起人代表は奥邃が事務家と評した木公・中村千代松。新井一郎、永島忠重ら十一人が出席した最初の会合に満場一致で承認された提案には、「新井先生の講話若くは随時筆述せられるものは先生の許諾を得謄写に代ふ可く印刷物として之を会員に配付する事」の項目が含まれていた。以後、末尾に「語録月刊茲に止む」と記す明治四十四年十月まで、奥邃を悩ます様々な問題が付随したとしても、『語録』の欠かさぬ刊行が続けられたことによって、大和会の存在は意味深い。 その編纂の常任委員を勤めたのは山方石之助と佐藤政次郎であった。奥邃から在寛の号を贈られた佐藤は明治九年に徳島県に生れ、大正五年に函館に渡って特異な教育者として生涯を終わった。同門の後輩原田嘉次郎は在寛を評して「先生に最も忠実なる奉仕者の第一人者で常々先生の原稿其他の仕事を受持たれたので常人に出来ない仲々の努力でありました、私は冗談半分に在寛さんに向つて、書記官長殿と云ふ、尊号を奉り在寛さんを苦笑させて居つたのであります。」と言う。 一つだけ挿話を書き足そう。明治四十三年、のち『青鞜』の同人となり、数奇な運命を辿った十五歳の伊藤野枝が、佐藤が教頭だった上野高等女学校の四年に編入学してきた。翌年には英語教師辻潤が赴任する。野枝の五年の担任はこれも奥邃に心酔する国語教師西原和治。野枝が編集した学校新聞の名は『謙愛タイムス』だった。 もう一人の常任委員春峰・山方石之助は、明治三年生れの中村千代松と同じ秋田出身の後輩。明治六年に生まれたジャーナリストで、撫子の俳号を持ち、『世界人豪の片影』(実業之日本社)、『小笠原島誌』(東陽堂)、『新武士道』(新渡戸稲造序、実業之日本社)などの著もある。この年から東陽堂の月刊美術誌『絵画叢誌』の編集に当たり、活発な美術評論を展開していた。奥邃とも関係深い雑誌『日本』の寄稿者でもある。東陽堂はこれも秋田県生れの吾妻健三郎が明治八年に東京日本橋で創業した出版社で、石版印刷の新技法を開発、『東洋絵画叢誌』を引き継いで明治二十年に『絵画叢誌』を発行し、二十二年以来雑誌『風俗画報』の刊行で世に知られた。 奥邃と美術界の関わりに山方の存在は無視し得ない。『語録』発刊の初めから、『絵画叢誌』は折に触れて『語録』を取り上げる。このことは美術関係の論説、消息を主とする雑誌としては異例に属する。明治三十九年十二月三十一日に発行された第二三六号は「新刊紹介」欄の初めにいち早く長文の記事を掲げる。 「△奥邃語録(非売品)」 これ新井奥邃先生の語録なり、門下生等請ふてこれを剞(厥にりっとうの合字)に附し、以て同好に頒てり、菊版四号文字二十四頁の小冊子なれども、裏に多大の意義と訓言とを含む、本文凡て十一条主として謙徳を説く、曰く謙は勇を包ぬ、曰く謙は智を生ず、……凡てこの一篇理を核ぬるに情を以てし、情を約するに理を以てし、所謂温々之言如玉、靄々之気似蘭ものなり、先生の文もと典謨の体を具ふ、博大高雅にして且均整厳粛、和煦平易にして更に深霊幽(空かんむりに目の合字)なり、寔に天下の至文といふべし、篇中の細節に到つて、これ大人の践履にして、又庸人の常経なり、吾人小子唯謹んで依循するを法とすべし、評隲は吾その人にあらざる也(香峰生)」 別に香峰は「記者」の名で「くれの日記」を書く。 「▲十二月二日、日曜なり、午前新井先生の許に候す、……▲三日、某雑誌に送るべき原稿を認む、……この夜又新井先生の許に候す、帰れば尚九時前なり、又原稿を認む、▲ 四日、朝木公の宅に立寄る、……夜再び木公の宅に赴く ▲六日、……此日絵画叢誌の編輯に着手し、巻頭の題詞と雑報とをかき終る」 美術界に広い目配りを持つこの大判の雑誌に、「新刊紹介」の名で特筆される『奥邃語録』刊行の記事は、時に長く、時に要旨を掲載して、奥邃の名は徐々に美術家たちに親しい。『語録』にもまた響きあうように奥邃の美についての思索は表白される。先に 「美は須臾も離るべからず、故に哲人言ふ有り、云く、美を去らんとするは猶ほ生命を除くが如し、美若し去らば太陽ほろぶ、残る所は黒死のみ、」(明治36・7『女学雑誌』) の語のあった奥邃に 「抑美学美術の美なるは何ぞや、其自体に於て無慾なるが故也、夫唯無慾也、是を以て其学其術生命を有す、乃ち美たる所以也、今之を図画に取るも、若し慾相あらば、色麗と雖安んぞ美を得ん、吾人若し図画を吾が内部に於て学ばんと欲せば、此理尤深く心得ざるべからず、一毛功名に触るれば光彩に闇黒生ず、……夫れ清心の者神を見るべく、如是く、無慾なる者は美と遊ぶべし。」(『語録』明治40・10「天法」) の言葉があった。『絵画叢誌』巻頭に山方の論説「日本画とは何ぞや」が載った翌月である。 奥邃への傾倒久しい荻原守衛がパリから帰国したのは明治四十一年二月のことである。断続する『語録』の紹介と平行して、『絵画叢誌』は時に守衛の談話を掲載し、他誌への目配りも怠らない。 守衛の三十二歳の死は明治四十三年四月二十二日におとずれる。高村光太郎は明治四十二年六月、柳敬助は続く九月に同じパリから帰国していた。 守衛帰国後、奥邃の美に関する言説は再び多く、ことに明治四十一年十月の「少年は生命に富む。夫れ生命は美なり。美は生命なり。」に始まる『語録』は特筆に値する。奥邃の言葉は全文を引用する誘惑にほとんど打ち勝ちがたいほど靭く、丈高く、最も卓抜した詩句のように心を打つ。先の文に続けて言う。 「美なる生命、人誰か之を愛せざらんや。之を愛して之を養ふは、乃ち道に循ふ也。之を学ぶを道を学ぶと謂ふ。之を守るを道を守ると謂ふ。……然れども若し敵人ありて乱入し、その美なる生命を(片へんに戈の合字)賊する時は則ち如何。美生徒当に大挙奮闘して必ず之に勝たざるべからざる也。」 また言う。 「△生命は美也。美は広大。処を以て限られず。入りて自得せざるはなし。図書に居て図書に拘らず。此を離れて亦此に在り。或は墟墓を下りて原沢に出で、或は踰越して遠く異郷に開く。生命の美なるや、人の謙る処に栄え、良心の起る処に飛躍す。」 「△鳴呼天上天下勢の盛なる者美に如くはなし。善と雖も若し美と離るれば力なし。美は火の如し。然り。火也。毒悪を消散する者は美の力也。其形状を鎔化するは美の功也。既に之を消滅し、而して更に之を新建する者は、美の美能也。美は真人なり。人の人也。即ち生命自体。」 「△永遠の生命は永遠に不老也。是を以て美也。美ならざるなし。」 「△生命なきは人に非ず。美なき者は生命なし。」 「△美は其人を得て云ふ。即ち顕はる。温良和煦は美の一性。之を以て是の人に見はる。至て親近也。而して狎るべからず。狎るる如きは醜也。美の正反也。美は永遠に狎るべからず。狎るる能はず。親しむべき也。近づくべき也。皆公也。義也。」 写しはじめたらきりもない。その思いは「彫刻の真の美は内的な刀若しくは生命に存する」と断ずる守衛を鼓舞し、守衛が伝えるロダンの「ライフ・イズ・ビュウテー、即ち生命夫れ自身が美なり」の理想に届く。ニューヨーク以来の守衛の友、洋画家柳敬助は守衛の手引きによって奥邃の膝下に参じ、光太郎に奥邃を伝え、その生命観は「作の力といふのは生の力の事だ」とする光太郎ら、いわゆる生命派と目される人々の主張を通して、更に新しい世代の奥邃への道を整える。 |