鎌倉仏教の出現に先立ち、山を下り諸国を放浪しながら、里の人々の間に教えを説いてまわる“ひじり”という一群が出現したときがある。“ひじり”らは、人心を離れ堕落した既成仏教の僧侶とは異なり、清貧な生活態度を持した。わたしは、この“ひじり”を、イエス・キリスト出現の先導者バプテスマのヨハネや、宗教改革前の修道会改革者アッシジのフランシス、あるいはイスラムのスーフィ派とあわせ、宗教改革前夜の世界的風景とみた(『日本宗教史物語』)。
近代日本においても、自由教育、自由芸術とともに、自由宗教家といえる人々を輩出した時期がある。名前をあげると、吉田清太郎、西田天香、伊藤証信、高田集蔵、江渡狄嶺、宮崎安右衛門、中里介山、吉川一水などという人々である。
これらの人々に共通する特徴は、いずれも既成の宗教には否定的で、放浪あるいは心の旅を送った点である。特定の宗教に立脚するばあいでも偏狭な排他性をもってはいない。社会主義の影響も強く、共同体への志向もみられる。それでいて、たがいの交流は浅くない。いわば近代日本の“ひじり”群である。その、もっとも活動した時期を明治末年から大正期とするならば、実は、その一群の先駆けの位置にいる人物として新井奥邃が挙げられよう。
奥邃は、アメリカからの帰国後、積極的な世との交わりを避けていた。したがって、これらの人々と奥邃との直接の交渉は、今のわたしにはよくわからない。しかし、これらの人々と親しい人が、同時に奥邃とも親しかった痕跡はある。たとえば、奥邃の『読者読』を発行した小関太平治は、のちに自宅を吉川一水の聖書講義に提供していた。一八四六年生まれの奥邃と一八八一年生まれの一水とは、年齢のうえでは三五年の開きがある。奥邃が世を去ったのが一九二二年、一水は一九四六年であるから、帰国後、少なくとも二三年間は、日本で地上の生活を共に過ごしている。奥邃の出身地仙台で、一水は一九一八年から二四年まで教師をしていた時期もある。精神的にはきわめて近い同質性が認められる。
奥邃の著作と一水の書き残したものを読みくらべていると、その感はいっそう深まる。前者も生前の刊行書はすくなかったが、後者となると皆無といってよく、わずかに、没後、宮崎安右衛門によりまとめられた『日々の糧』があるのみである。ここでは奥邃と一水の精神的同質性を瞥見しよう。
両者ともにキリスト教信仰を中心にすえながら、特定の教派、教会から距離を置いていた。とくに奥邃が、およそ世にある教派や教会に対して、手きびしい批判を下していたことは、その著述の随所に記されている。そうかといって、いわゆる無教会派ではない。奥邃は、帰国後まもなく、内村鑑三の『聖書之研究』に寄稿したことがある。しかし、永島忠重によると「教会にも、或は無教会と云ふ者にも一切関係せず、又共鳴もしなかった」(『新井奥邃先生』)。一水も、内村が開催した夏期講談会(一九〇一、二年)に出席したことがある。ところが、のちには「日本に於ける無教会主義のU教は最も高尚なる意義に於ける現世利益宗である」(『日々の糧』)との言葉を残し、その「幸福宗」的性格を批判した。両者とも、教派や教会のおちいりがちな「私欲」や「私党性」に背を向けた。
教派や教会が、その存在を存在たらしめるものである儀式や制度を、二人が厭ったことはいうまでもない。奥邃は、とりわけ人前での声高な聖書の朗読をきらった。一水の聖書講義は、終わったあとで酒盛りもあったといわれる。むろん、かまびすしい酒盛りではない。もともと二人は静かにして自由な境涯を望んだ。奥邃は「静間読」とか「静里」という言葉を好んで用いているし、一水も「神の国は凡てのことに於て静かなるもののごとくである」といい、「静化」を「浄化」とみた。
「戦争廃止は吾人宿論の一」とした奥邃の非戦論は、奥邃の思想を知るものにはすでに名高い。一水につき宮崎安右衛門はいう。「戦時中宗教家といふ連中は殆ど例外なしに時局便乗したが独り翁は非戦論者平和愛好家として一生を全うされし事は偉大だった」。一九四〇(昭和一五)年、一水は「先づ、神の国を求むべく、それがためには一切を捨つべきである。この皇国も捨つべきである」とまで言っている。
わたしは、自由宗教家の先駆けとして奥邃をみなしたが、もし自由宗教家たちが近代の“ひじり”ならば、その出現のあとに続いて近代日本の宗教改革の訪れがあってよかった。しかし、その後の日本は、「非常時」から戦争へと遷り歴史の流れを曲げてしまった。その流れのなかで、実は多くの自由宗教家たちも節を変じたのだった。ただの自由宗教家はいくら出現しても空しいのである。奥邃や一水の思想に接してわかることは、奥邃には儒教、一水には禅への親近性がありながら、いずれも、その思想の中核には厳として独自のキリスト信仰が坐っていたことである。
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