
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 奥邃と美術家たち ――橋本平八を中心に |
| 北川太一(文芸・美術評論家 /高村光太郎記念会事務局長) |
奥邃がのちの美術家たちに読み継がれた具体的な記録はほとんど無い。しかし確実に奥邃はある系譜、恐らく荻原守衛に発する美術家達の芸術観を養った。 奥邃が亡くなってはるか時をへだてた昭和十七年六月、橋本平八の遺著『純粋彫刻論』が弟である詩人北園克衛の手で刊行された。平八は嘱望されながら、昭和十年十一月、郷里三重県朝熊山麓で没した日本美術院に属する特異な木彫家である。享年三十九歳にすぎない。北園もこの国のモダニズム、シュールレアリズムの旗手として大きな仕事を果たした詩人であった。 収められた昭和六年十月の日記は記す。 「三十日 快晴。喜多氏より荒(ママ)井奥邃広録一部送るとの葉書に接す。荒井先生を紹介したるは朝山先生にて喜多氏亦奥邃先生に就ては因縁浅からず。研究所時代より共に先生を偲び夏その一部の著書を書写するなど奥邃先生に対する敬意をおしまぬ余である故に喜多氏の好意実に有難き極みである。……芸術的精進は要するに人格徹底に終わる。夫れ芸術家たるものよろしく正観通達して貴賤を脱して自然たるべきである。」 この文章は甚だ興味深い。朝山先生は豪放な彫刻家佐藤朝山。明治二十一年福島県に生れ、初め山崎朝雲に学んだが、岡倉天心没後の大正三年、平櫛田中に誘われて再興日本美術院彫刻部の最も若い同人となった。彫刻部のアトリエの棟つづきに起居していた朝山の部屋には、友人や後輩たちが集まり談論風発。芸術を論じ、自然を語るその話に魅了されたという。大正四年には石井鶴三が、翌年には中原悌二郎と戸張孤雁が彫刻部研究所に加わり、やがて同人となった。戸張はニューヨーク時代から荻原守衛と親しく、没後挿絵画家から彫刻に転じた。守衛の遺著『彫刻真髄』を編み、遺品の整理に当たった中心人物で、守衛を通じて奥邃を知り得る最も近い距離にいる。悌二郎もまた死の前年の守衛を知り、没後彫刻に転じた。しかも同人間の交わりは篤く深い。 どうして朝山が奥邃を知ったかは分からないが、談論の間にその機会が有っただろうことは充分想像できる。平八の書く「朝山先生の紹介」が面晤を意味するものか、或いは文書によるものかは明らかでないが、いずれにしても平八が内弟子として朝山に就いたのは大正九年、研究所に入ったのは大正十一年二十五歳のことだから、奥邃の最晩年に属する。 塑像家喜多武四郎は平八と同じ明治三十年、東京に生れた。大正六年頃から孤雁に師事、病弱な孤雁の日常を助け、平八より早く大正九年に研究所員になった。昭和二年に四十六歳で没した孤雁の遺作、遺品を管理したのも武四郎である。その中には守衛の「戸張孤雁像」の原形や塑造台などもあった。 パリでも奥邃の執筆する『女学雑誌』を購読し、奥邃の著作を求め、「新井先生の事は毎度御うはさもうして居ります。」と書く守衛の遺品には必ず奥邃もあったに違いない。それらが孤雁に伝わり、それが武四郎に伝えられたかもしれないという想像は、「喜多氏亦奥邃先生に就ては因縁浅からず。」の一節によってもかきたてられる。研究所時代とはいくらかずれるけれど、武四郎が孤雁の生前から奥邃の著書を持ち、それが平八につながったことは、平八が世田谷太子堂に住む大正十四、五年頃の記憶として武四郎が記す追憶、 「居室の壁間にはキリストの血塗ま(ママ)れた顔を自ら描れて掲げてあつた。清澤満之の著書は、その頃君から始めて照会(ママ)されて貸(ママ)り受けて讀んだ、自分は持合せの新井奥邃の図書をお貸した。新井氏には私淑共鳴の点が多かったようで手紙の中にもさうした言葉があった。」(昭和一一・一・一五「橋本君を憶ふ」) によっても知られる。 武四郎と平八は日本美術院の彫刻家の中でもことに嘱望された組合わせだった。石井鶴三は二人を評して言う、「橋本君の手が木に触れると木に魂が入る如く、喜多君の手が土に触れると生命無き土に生命が入るから妙だ。」と。武四郎と平八の心の交流は大正十五年十月、平八が郷里朝熊村に移り住んでからも変わらない。その武四郎が『奥邃廣録』を送ったのは、筆写してまで讀んだという若き日の追憶のみではなかったろう。 奥邃のはじめの全集と言っていい『廣録』は、この年昭和六年二月の第一巻刊行で全五巻を完結し、続いて第二巻と同じ内容をもつ『奥邃語録』が四月に世に送られたところだった。昭和六年十一月の時点で贈られた「『奥邃廣録』一部」が全五巻を意味するかどうかは、文面から知ることが出来ない。しかしいずれにしてもまだ入手可能な新刊の部類に属する。東京に住む武四郎が、久しく奥邃に強い関心を寄せる平八にそれを贈ったのは自然な配慮だったのだろう。 翌月二日の日記は「床中にて喜多氏より送られたる奥邃廣録を手にす。……晴天秋情深くして近来になき賑かなる場面を展開せるは愉快言語に絶す。語録を一覧し礼状を認む。」と記す。 巻紙に毛筆でしたためたその礼状を含む、武四郎に宛てた二十九通の平八の書簡が、奥邃を敬愛する画家水波博氏のもとにいまも丁重に保存される。 「拝呈 向寒之候御障も無く被居候哉御伺申上候 陳ハ奥邃先生廣録御恵送賜り実に難有 本日相達し初めて拝見仕候 平素より敬慕候間 殊に嬉敷早速拝読致居候 御芳情厚く拝謝奉候 小生近時閑散に暮申候 この際何よりの警言にて日夕愛読致候 何れ拝眉萬々申述度不取敢以書中御礼迄如斯御座候 匆匆不尽/拾一月二日 橋本平八/喜多賢兄 御下」 闊達な筆の流れにも、平八の心はずみは見て取れる。平八は前年に代表作「花園に遊ぶ天女」を含む一つの頂点を迎え、この年には強い感銘を残した円空仏との出会いがあった。 水波氏所蔵の平八書簡には、切手が脱落していて発信年代不明の、奥邃に触れたもう一通の封書がある。 文面は始めに滞京中の謝意を述べ、帰郷後の心境を綴るが、文末に次の追記がある。 「追白 奥邃先生に関する著書/○奥邃先生の面影と談話及遺訓 ○新井奥邃先生/右二冊何も一円五拾錢 神奈川県三浦郡逗子町久木三五七 永島忠重発行 発行所は東京京橋木挽町四ノ九 警醒社内奥邃廣録刊行会なるも残本は永島氏手許にある模様に候 右御報迄」 奥付によれば『新井奥邃先生』は昭和八年十一月二十五日発行、『奥邃先生の面影と談話及遺訓』は昭和九年九月二十日発行。文面は昭和九年九月からある程度の時間の経過を思わせ、本文に「青葉したゝる朝熊村」の文字があることから、平八の上京は昭和十年夏の頃であっただろう。とすればこの書簡は「昨夏(昭和十年)日本美術院同人集合の折、久方振りで小生の陋宅を訪れられたのが最後の御面語(ママ)で、其の折も勿論芸談が主で、大概の場合さうであつたやうに其の時も自分は聞き役で、君は研究の蘊蓄を傾けてくれた。」 と書く武四郎の追憶と一致する。 日本美術院が帝国美術院の改組により新たに発足する帝展への参加を議するため同人、院友、研究員ら百余名を谷中に集めたのは六月二十日午後のことだったから、七月十一日としておそらく誤らない。平八が脳溢血で急逝する三月あまり以前の書簡である。追白をみても、武四郎との最後の芸術談義のなかで熱く奥邃が語られただろうことは推測される。平八の彫刻家としての全生涯を覆って、奥邃は大きな影響を与えた。 生前刊行のことを約しながら草稿のまま残された『純粋彫刻論』には、奥邃の一行、「清心神を見る如く無慾美と遊ぶべし。」を引いた前後に、こんな言葉が散見する。 「芸術とは人類の持つ純粋精神の表現である。」 「彫刻も要するに立体を通じて此の純粋精神即ち神を表現する方便に外ならない。」 「神とは天然の生命なり。」 「神は人間の姿に或は動物の或は植物の姿に。/そこに芸術的境地がある。」 |