新井奥邃を語る (月報より)



『光瀾之観』のこと(その二)

小野四平(奥羽大学文学部教授)


口語訳『光瀾之観・一九〇三年』

不我之言     奥邃述
光のさざ波――道の運動について――


 道の運動は純粋なものだし、また静寂なものである。よく運動し、運動してもゆがんだりしない。静寂は運動のなかをつらぬいており、運動は静寂のなかにおかれている。道の本体は円満であり、その活用は永遠に続く自己変革である。ただし、道は真人の手によってはじめて完全となるものであって、貴き神のいのち生命なのだ。

 人間は神の全像を見ることができない。けれども、道の活用するところに注意して、その真実を追究していくならば、肉体をもつ私たちでも、神の姿を見ることができるであろう。

 貴き神の息づかいは、うちから外へ広がっていて届かない所はない。その聖なる息吹が適合して、二が一となり、そこから三が生まれる。にもかかわらず、人間が永遠に、しかも絶えることなく自己変革できるのは、なぜなのか。それは、あくまで神秘的な状況のなかで、すばやくころころと転回し、あざやかにくるくると変化しながら、貴き神が楽しんで息づかいしているところに、その人間が存在しているからなのである。

 ところで、もっとも純粋であって、しっかりと運動するものは、真実の道である。純粋な道は、内部にも外部にも一貫してかよっており、しかも真実の間において真人のはたらきをしているのだ。暖かい所で動くと霊火となり、明るい所で動くと光明となる。清潔な所で動くと活水となり、生命のなかで動くと真実の愛となる。こうして、道の実体が完備すると、その活用は、はてしなく広がるのだ。

 明るい所でこそ見えるし、醒めてこそ悟ることができる。天空が明るくなれば、空気は清潔になる。運動と静寂には、それにふさわしい時のはたらきがある。温かい風が吹けば、光のさざ波となる。真人は、その陰で静寂のうちに豊かな福音をたたえている。幼い兄弟たちはたがいに手をとりあい、それぞれの私をすてて、わいわいと騒ぎたてながら楽しみ、たわむれる。あゝ、何という眺めであろうか。光のさざ波の前で、すべての人が心を洗う。


教えることと学ぶこと
   ――光のさざ波による洗滌――

 道を学ぶ者が学習して習熟すれば、たいへん嬉しく、また楽しくなるものだ。必ずそうなるし、またそうならないわけがない。もし、そうならないとすれば、そのような学問は、まったく役に立たないということだ。けれども、現実には、学んで、そのようになることのできる者は少ない。さて、これは、いったいどうしたらよいものであろうか。

 ところで、学んで、のちに嬉しくまた楽しくなるためには、熱心に刻苦勉励し、謙虚に自己抑制するのでなければいけない。長い年月をかけて天から与えられてきた標準に従って、ねばり強く我意を鎮圧することができなければならない。ひたすら、情念や欲望に勝つことができなければならない。「天」にお仕えすることによって、私的な願望を断ちきらなければならない。傲慢な感情に鞭をあて、嫉妬の感情を殺さなければならない。天道にもとづく、終わることのない公益を実現するために、静かに行動することにより、そこで一本の髪の毛ほどの報酬も求めてはならない。
 学ぶことは、人の仕事である。教えることも、人の仕事である。それは、完全に人の仕事に属しているのだ。言語とか、文章によって実現できることではない。だから、学ぼうとする者は、自身の欲望や情念を抑え、私的な願望をとり去らなくてはならない。男女、長幼、貧富、貴賎のような立場とか身分の違いによって、この原則を変更することは許されない。学問とは、生涯を通して学ぶことであって、このことは天子より一般人に至るまで変ることのないものなのである。
 どのようにして天職を尽くすことができるかを学びながら、それを実行し、万物の霊長としての人間の資格を完全なものにすること、これが学問の道なのである。学ぶ者の目的は、これ以外にない。教える者の目的も、これ以外にない。これこそが、天与の標準というものなのだ。だからして、ありとあらゆる分野の知識や分野を身につけたとしても、この標識を除外したのでは、学ぶ者、教える者とは言えないのである。しかも、どんなことにしろ、この標準に到達しようとするためのものでないのは、ないのだ。

 或る人が言う。あゝ、なんと困難なことであろう。これは、とても今日の学生にのぞむことのできるものではない、と。

 そこで、私が言う。これは、たいへん無慈悲な心であり、間違った言葉である。今日の学生は、昔の学生と同じである。もちろん、かれらの中には、本当に学ぶことのできない者がいるだろう。きっと、たくさんいるだろう。けれども、その数がどんなに多くとも、かれらは「学生」と呼ばれている者たちであって、私の言う「学生」ではないのだ。かれらは病気なのであり、もともと学ぼうとする人たちではないのだ。かれらが、私的な欲望によって自分をそこ傷なったとしても、私の大切にしている学生たちが、自分たちの努力によって健全な再生への道を獲得できなくなってしまうなどということはあり得ない。
 人間の生命は、必らずしも多くの物質だけによって維持されるのではない。実は、精神の、はたらきに多くを負っているのだ。精神を集中して学びつづけられる者は、学問の世界における柱石なのだ。だから、世の中を安泰にし、人びとを救おうとする者は、まず学ぼうとする者たちを教え導くのである。そして、学ぼうとする者たちを求めるにあたっては、必らずしも、学者たちの外見にこだわっている必要はない。
 苦しんで学ぶ者がいる。嬉しそうに進歩していく者がいる。疑いを抱いて質問する者がいる。心に深く信じて努力する者がいる。みな、運命にもとづき、本性にもとづいているのだ。そして、本性には特別な性があるし、運命にも特殊なものがある。だから、学ぶ者たちを教え導くには、おだやかさにさそい、それぞれの本性に応じて修学させていかなければならない。

 であるからして、世の人びとに対して曇りのない徳性を発揮するようにと期待しない者は、その人が天命に違反しているのである。そして、学生たちに対して真実の理想に生きることを希望しない者は、その人が学生たちの天性を傷っているのである。
 たとい多くの人びとが本当に学ぶ者の道に従っていないのだとしても、そのほかの人びとの中に本当にすぐれた精神が存在していないのだということが、どうしてあるであろうか。私は信じている。天が、必ずそのような精神を国の中にやしなっていることを。そして、神が、必ず同胞の中に育てていることを。もしも、そのような精神をもった人が目ざめて、あるとき光かがやく、快適なさざ波によって心を洗うという幸福を得ることができるならば、道のために堂々と立ちあがることであろう。いまの学生たちの中にも、そうしたチャンスに出あうことのできる者が、きっといるにちがいない。

   また

 学ぶということは、道を学ぶということである。道を学ぼうとする者は、まず自分自身と戦って勝利をおさめ、そして「誠」に到達しなければならない。

 「誠」とは何か。それは、貴神の性質そのものである。貴神の性質こそ、「誠」というのである。

 人間の性は、天然とか本然というようなタネを別とすれば、まだ真の「誠」ではない。だからして、その誠でないものに勝つことによって、誠に到達しなければならないのだ。世の中には、まだ「誠」の人間はいない。

 世の中は広いのだから、比較的に誠だという者もいないというわけではあるまい。だが、「比較的に」ということで、実は、その人が誠でないということを証明しているのだ。誠とは絶対的なものだから、比較できないのである。

 誠とは、真実の、そして不撓の動静であって、貴神の性質なのである。

 人間が生まれるとき、だれでもが真人にもとづいている。もともと、誠を受けている。これが、本性となるのだ。だから、真父に似ることになるのであり、誠にならなければいけないのである。しかしながら、地球上に生きる人間たちは神のおきてに逆らい、罪悪の渕に身をおとしてしまった。それからというもの、完全な人間はいなくなり、今日のようなひどい状態になってしまったのである。人びとの私的な欲望は、外部に表出することなくして内面にかくされていたとしても、ひそかに燃えさかるほのおとなって、いつも無慈悲で、かつ非道なる行ないを、社会の中に作りだしているのである。そして、その私的な知恵というものは、たとえ自覚されていないとしても、みだりに天に逆らい、神にそむく行ないを人びとにすすめるのである。あゝ、あの頑固者や死者たちでさえ、いまとなっては、かなわないことであろう。けれども、救世主は深い愛の心によって感じとることができるのである。元気いっぱいの青少年たちを、放っておけるであろうか。

 青少年たちの意欲、期待、執念、自我などが、すべて善いことだとはいえない。けれども、それが頑迷・固陋になってしまうというのでもない。十五・六・七・八歳ごろの青少年にあっては、たとえ愚鈍だとしても、なお理想の夢をすっかりなくしてしまうということはないものだ。その頃ならば、もし真実の教え、実学があるならば、これによって、かれらを進歩させることはできるのだ。だがしかし、この時期を過ぎてしまえば、父兄、親族、長上たちの愚かな見識に盲従して、祖先から伝来してきた通俗的な感情にしばりつけられてしまうであろう。そして、その心も、天におられる神さまの活きた流れに乗って、光のさざ波によって心を洗うという幸福さを得ることができなくなるであろう。かくして、地獄と異なる天国が存在することを悟り、人間の霊魂が禽獣と異なることを知ることができなくなるであろう。冷落の運命が、彼を襲うことになるのに。

 人間が禽獣や野獣と異なるというわけは、人間の私的な智恵や貪欲な腕力が、天上世界の機密の一端を盗み出して、これをゆがめ、事物をつくりだし、それが神の力によるものだといって見せびらかすことのできる力によるのではない。これと、正反対のことによるのである。たゞひたすらに誠実であることをめざし、我をすて去り、光明の中で神の霊に開かれていく。そして、それを永遠にやめない。この点によるのである。青少年たちの意欲、期待、執念、自我は、まだ頑迷、固陋におちいっていない。けれども、教える者が正しい方法で教えなければ、学ぶ者がどうして学べるであろうか。もしも、青少年たちに、いわゆる文明(偽文明・真野蛮)というものに従わせ、その内面を反省させるということがなかったならば、似ているけれども違ったものだということになるであろう。今日の青少年たちは、世の中に出かけていくだけで、正しい道に帰ってくることがなくなるであろう。こうして、理想としていた夢も消えはて、私的な欲望のとりこになってしまうのだ。きょうの若々しい青少年が、あすは変わりはてて父母や親族の肉隗となり、こうして、生まれながらのまごころを傷ない、ついには、天の譴責、神の憤怒を家の中に招き入れ、ベッドの上に呼びよせて、それでも悟ることができなくなるのだ。そこまで、落ちぶれてしまう。このようになってしまったら、世の中も、誠の道に進んでいくことができなくなる。そしてまた、私たちも、人間の子どもとしての資格を入手できなくなってしまう。あゝ、私は死者のために悲しむのではない。生者のために悲しむのである。

 宇宙の標準は、ひとつである。天子から一般の庶民にいたるまで、天下の人びとは、みんなが、当然にこれを認めるべきなのだ。

 人間の性というものは、前述したように、もともと「誠」ではない。だから、誠でない自分自身にうち勝って、そして誠にならなければいけない。よく、見てみたまえ。世界中には「誠」に到達した人間はいない。誠とは、人間と物質とを根本から新しくつくりかえるものなのだ。単に、自分だけを完成させてくれるというものではない。であるからして、本当に自分自身を誠にしようと思う者は、世界中の通貨を世界中から集めて、天下の人びとの生活を天道にそって均等にすることだ。それを自分自身の任務とするのだ。だからして、自分自身を誠にしようと思う者は、誰もが、それにふさわしい場所を得られるようになる。こうして、世界というものを、よき出合いと喜びを尽す天上の国のようにすることを目的とするようになる。

 神のご意志が、この地中に成就する。必ず天上におけると同じように成就することを信じ、ひたすらそれを心に期することが大切なのだ。偉大なる人物の目的は、それより下には存在しない。人が道を学んで、誠になることができるならば、これこそ本当に偉大なことなのである。

 学問は、このことを理解することなのだ。そして教育というのは、このことを理解させることなのだ。これを実践することこそが、道に至る方法である。そして、それを知ることこそが、道を理解することなのだ。簡単に理解できることもあるし、困難を通して理解できることもある。また楽しくできるときもあるし、苦しんでできるときもある。日常生活の、いろんな場面で、難・易、苦・楽というふうに違うことがあるけれども、天与の標準に従事しようとする精神は、ひとつである。そして、神のご意志として、嬉しく楽しいことを求めるわけというものは、同じことなのである。

 さて、ここで一言しておく。あの唯一の標準とは、神と人とのあいだにおける生命と、無限にかかわるものであり、また計ることのできない光明なのである。これこそ、真の太陽である。つまり、「誠」なのだ。あゝ、こちらに一万の方法があり、あちらに一億の通路がある。そして、終点がない。さらにまた、唯一の光明が貫きとおっていて照らしており、唯一の善愛が働らいていて、暖かくしている。誠というものは、争いを求めるべきものでない。これは、無限の差異のもとにある人間や物質、あるいは時間や場所の中に生きて働いていて、まことに折れ曲ってしまうことのない働きをもっているところの、貴神の性質なのである。だから、学んで自分自身にうち勝ち、自分自身を誠にしようと思う者は、ぜひとも広びろとした心をもち、栄光に満ちた流れにのって、あの快適なさざ波によって心を洗うべきなのである。これは、洗礼のひとつなのだ。求めるなら、得られる。けれども、肉親や親戚、長上や凡人などの旧い見識をきっぱりとすて去り、祖先伝来の俗情や欲念を殺しつくしてしまうことのできる人間でなければ、真実、かつ不撓の道を学ぶことによって自分自身を「誠」にすることは、到底できないのである。