
■新井奥邃を語る (月報より)■
| 「意」(偉)なるかな、呼吸 ――新井奥邃の語 「生命の機は一息に在り。意なり」 を指標として―― |
| 松山康國(関西学院大学名誉教授) |
「人生は、吸う息に始まり、は呼く息に終わる」*1、と言われる。また、つちくれ土塊に、生命の息の吹き入れられることが、生命の始めであり、その息の取り去られること*2、ないし、その息の引き取られること*3が、生命の終わりである、とも述べられる。要するに、土塊なるみどりごに吹き入れられる、与えられた生命の息吹を、無心に吸い始めることが、人生の始めであり、また、他方、なきがらなる土塊の中になお残る末期(まつご)の息吹が、断末魔の吐息として取り去られ、ないし、引き取られることが、人生の終わりである、とも言いうるであろう。 ともあれ、人生とは、さしあたり、その始めなる吸う息と、その終わりなる呼く息との間の、「息の内(いきのうち)」なる生命(息の内(いのち)*4)のことなのであり、ないしは、「息の内(いのち)」の始めに吹き入れられる息吹を、「息の内(いのち)」の終わりなる、その息吹の取り去られ、引き取られるまでの間、息し続け、呼吸し続けるかぎりの「息の内(いのち)」のことであるであろう。すなわち、自らに賦与され、ついには取り去られる「息の内(いのち)」の息吹の、その「息の内(いきのうち)」側にのみ限られた呼吸の継続こそが、人生なのである。あるいは、「息の内(いのち)」の始終を画する両端の息によって前後を限られた、その内側なる、中間に配される、吸息と呼息のたえざる交替、ないし、この両息間に交わされる相互転換の継起こそが、人生なのである、とも言うことができよう。 この吸息と呼息は、「息の内(いのち)」あるかぎり、互いに、その働きをたえず交換しあい、それによって互いが互いの働きを支え、期せずして、ないし、知らずして、「互いが、互いの根となりあう」*5、というごとき相関の関係においてあるのである。すなわち、この吸息と呼息は、互いに相反しつつも、互いが、互いの働きを俟(ま)ち、互いが互いによって支えられて成り立っているのである。この場合、この両息の相関は、それぞれの息吹が、あくまで、それ自身の働きに徹することによってこそ、成り立つ相関である。すなわち、吸息は、吸息としてのありようを貫き、また呼息は、呼息としてのありように徹する。両息は、それぞれに、互いを相い知らざる程にも、各々、それ自身の働きを、それ自身の中において貫徹する。しかもいま、この両息は、互いの他を知らざるのみにあらず、また、両息それぞれが、それ自身の働きの中に、完全にそれ自身を、亡失し没却してあるのである。 そこにいま、期せずして、ないし、知らずして、かつ、ひそかにも、両息は、それぞれに、各自、己れ自身とは全く相い反し相い異なる他者の働きを、おのづからにして生み出さざるを得ず、また、さらには、この他者の働きが、自らの働きの根元として、ないし、自らの基底として現前するという事態に、はからずも直面することとなるのである。しかも、いま、両息の間に存する、交(かた)みにかわすかかる相関の関係を通して、両息のそれぞれが、それ自身の働きの根基、ないし、そのもといを、各自、それ自身の中に有してはいない、ということが示されるのである。すなわち、吸息は、自らの根基を、己れ自身の中にではなく、相い反する他者なる呼息の中に有し、また、呼息も、自らの根基を、相い反する他者なる吸息の中に有する。両息は、互いに、それ自らのもといを、相対する他者に委ね任せるのであり、その他者にもとづいて、夫々は各自それ自身として、それ自身の働きを遂行するのである。 ところで、このような相関の関係にある両息は、つねに、「息の内(いのち)」の息の内側にあって、その交みにかわす相互転換の、いわゆる回互(えご)的働きをたえず反復するのであったが、そのくり返される息吹の交参は、すべて、「息の内(いのち)」の始終をなす、かの両端の息の間にはさまれてあったのである。したがって、「息の内(いのち)」の息の内(いきのうち)なる一切の息吹は、総じて、「息の内(いのち)」の両端をなす、この一対の「吸息と呼息」へと集約されることとなるであろう。この「息の内(いのち)」そのものを「人生」と称ぶならば、人生は、まさしく、この一対の「吸息と呼息」の相関の中に包摂されてある、と言うことが出来る。「人生は、吸う息に始まり、呼く息に終わる」、と述べられた所以である。 さて、この一対をなす両息は、相反しつつも、互いに相い依る相関の関係にあるが故に、したがってこの両息は、「二にして一、一にして二」*6なるものとして、併せて「一息」なのであり、しかも、「息の内(いのち)」の始終を集約する「一息」なるが故に、いま、「人生は、ただ一息のみ」と語ることも、おそらくは可能であるであろう。この「ただ一息のみ」の間、ないし、「息の一筋通ふ程」*7の間が、人生なのである。この「ただ一息」、ないし、この「息の一筋」の中には、「唯一生息をもって永遠に環旋(かんせん)する、真実生命の動静」*8、とも言われるべきものが、集約されてあるのである。いま、この「真実生命」なる語を、「真事(まこと)なる息の内(いのち)」として解するならば、そこには、まさしく、真に根元的なる事態としての「息の内(いのち)」の中にくり拡げられる、「唯一生息」(ただ一息)の織りなす働きの態、すなわち、吸息と呼息の、交(かた)みに文(あや)なす、相い旋転し「環旋」する、回互(えご)的交参の「動静」が見られるのである。この「動静」は、「真実生命」(真事(まこと)なる息の内(いのち))の働きとして、また、「生命の機」とも称ばれうるが故に、したがっていま、「息の内(いのち)」の両極として動静し、吐含(呼吸)する「生命の機は」、まさしく、ただ「一息に在り」*9、とも表現されうるのである。「意」(偉)なるかな*10、呼吸。 *1 アリストテレス『呼吸論』 |