新井奥邃 ゆかりの人々



田中
正造
明治四十五年二月の日記より


 三十四、五年の頃、新井奥邃氏、予を見て神経病なりとして之をさとせり。よりて精神落ち着きたり。然れども当時何んのために落ち着きたるやをバ知らざりしなり。はじめ新井先生が、病院に行け、診察料も薬価も無財にてもよろし、気随に参るべしと云はれしも、当時此のありがたき言葉をありがたしとハはせず、却って新井先生の不明を心よからずとハせり。



 然るに精神の寧静ニ帰したるハ、即ち新井先生の御蔭たるハ、他年ニ到りて漸くさとりしなり。此くの如く高尚の救ひハさとりがたく、他日他年に渉りて漸々しれべきものありとするも、当時ニハ意得し能はざる事多し。神の恩ニ到りてハ終生恩をうけて終生分からず。大なるかな神徳……




野上
弥生子
『森』 第九章 「或る土曜日の午後」より


 はなはだ訥弁である。声も老人らしくしゃがれ気味で低いうえ、一語、一語自ら話すより、なにか深山幽谷の鳥の啼く音、あるかなきかの風のそよぎ、あるいは叢林の底の隠れ水のせせらぎにも似て、天地万有に秘められた、とりも直さず彼にはそれこそ神からはるかに遠く伝わるものを、なんとかして周りの人間へ取り次ごうとしているかのごとくであった。やや薄くなった白髪の大きな頭。額の皺はふかいが、頬はたるんでいない中高な顔、眼は見ひらくと厳つく大きいのに、話のあいだはいっそ眠っているかのように半眼に閉じているところ、キリスト者よりどこか禅僧の面影があった。




高村
光太郎
手紙 (洋画家柳敬助宛/大正五年十二月二十日付)


 余程以前に君から新井奥邃翁の『読者読』の一篇を恵まれた事がありました。それから後僕は此の黒い小さな書を常に身辺に置いて殆と何百回か読み返しました。そして此頃になつてだんだん本当に翁の言が少しづつ解つて来た様に思はれます。其は意味が解つたというので無しに僕の内の望む処と翁の言とがますます鏡に合せる程一致して来たのを感ずる様になつたのです。それで尚更愛読して自分の勇気をやしなはれてゐます。此事を君に感謝します。





竹二
『田中正造−その生と戦いの根本義』
「奥邃の人と信仰」より


 新井奥邃という人は、あまり一般には名が知られておりませんけれども、幕末期における仙台藩の生んだ最大の人間と言ってよろしいように思います。特にキリスト教の信仰、その思想的な把握の深さにおいては、日本ではもちろん、世界でも比肩するものは稀であろうと思います。