いま「素直でまじめな子」といわれる少年による犯罪が目立っている。彼らはどのような家庭・学校生活を送ってきたのだろうか。どんな人間として育ってきたのだろうか。

本書は、このような「いい子」の非行事例をもとにして、現代の文化的・教育的課題をさぐる。親や教師たちへおくる問題提起の書。
著者は家庭裁判所の調査官で、文部省第16期中央教育審議会専門委員の経験を持つ。非行問題の所在と核心に迫り、その解決法を臨床的に提示する。




佐々木光郎(ささき・みつろう)
 1946年秋田県生まれ。1973年東北大学大学院教育学研究科修士過程修了。1991年最高裁家庭裁判所調査官研修所教官、1997年文部省第16期中教審専門委員。現在、日本生活指導学会理事、秋田大学教育文化学部非常勤講師(生徒指導)を兼ねる。著書に『いい子の非行』(春風社刊)、『戦前、感化・教護実践史』(共著、春風社刊)等がある。


 

 




佐々木光郎

2000年 8月

ISBN
4921146160

定価
(1500円+税)

四六判上製




創業間もない頃手がけ、次々マスコミに取り上げられ、著者の佐々木先生、時の人に。好評につき、めでたく絶版になりました。(三)



朝日新聞 
(2000/12/14)
少年による凄惨な事件の続発を受け、少年法が厳罰化された。少年たちは変わったのか。変わったとすれば、その背景は何なのか。家庭裁判所調査官として三十年近く非行少年とかかわっている佐々木光郎さんは、「いい子」による非行が増加していると指摘。精神医学が専門の東京国際大学教授、小此木啓吾さんは、ナルシシズム(自己愛)の問題に注目する。
非行少年の大多数は、いまも昔も家庭環境に恵まれなかったり、学校で落ちこぼれて排除されてしまったりした少年達だ。しかし五、六前から、異質の事例も目立ってきた。仕事上の経験では、「いい子」の非行と言えるパターンが、首都圏では三割、地方でも一割以上は占めるようになったと感じる。
 私が「いい子」と言うのは、単に問題行動歴がないだけでなく、勉強やスポーツにそれなりに熱心に取り組み、親や教師からも期待されてきた少年たちだ。
少年時代からスポーツに打ち込み、実際に有能な選手だった少年が、突然カツアゲ(恐喝)をした。本人は「本当のぼくはまじめな生徒なんです」と言うばかりで、心から反省していなかった。やはりスポーツに打ち込んでいた別の少年は、初めて暴走行為に参加して「生きている実感がした」と言っていた。
 こうした少年に共通しているのは「子ども期」を奪われているということだ。友だちと交わり、ときにはけんかもして社会性を身につけるということをしていない。「オヤジ狩り」を繰り返す高校生の中には、いわゆる「ギャングエイジ」を体験しなおしていると思える場合もある。
 少年が問題を起こしたとき、私たちは良い方向への芽生えもあると考える。これからはそれに加えて、立派に生活している子にも否定的な面が少しずつ蓄積しているかもしれないと配慮することが必要だ。
 教育熱心なのは悪いことではないが、親が子どもを背負うのではなく、子が親の期待を背負っているだけのようなケースも見受けられる。その結果、知らず知らずのうちに子どもを追い込んでいくのは、「ゆるやかな虐待」とさえ言える。安心できる親子関係が築けていないという点では、少年非行の大多数を占めてきた恵まれない家庭環境の子どもたちと一緒だ。
 「できる」「はやい」」「勝つ」が絶対だという価値観に、多くの親が縛られている。だめな部分も含めて、わが子の存在を無条件に受け入れてほしい。


都私幼連だより (2002/2/1 第114号)

佐々木光郎インタヴュー


提言:「いい子」が非行に走る背景とは…


「反省した」その一言で許されると思う子どもたち

――過日、日経新聞で「増える『いい子』の非行」という先生の記事を拝見しましたが、その内容に共感したところです。ちょうど同じようなタイトルの本が出版されていることを知り、さっそく読ませてもらいましたが、なるほどと思うところが多々ありました。今日は、その辺のところを更にお聞きしたいと思います。まず、本を書かれた動機から伺います。

佐々木 最近、中・高校生のなかには、それまで非行歴がなく、家庭や学校でも素直な「いい子」が正念非行を起こすケースがみられるようになったことからです。彼らは、親の言うことをよく聞いて、勉強やスポーツもできる子どもたちです。そのような子どもが、なぜ悪いことをするのか、いったいどのような育ち方をしたのだろうかと考えました。その結果、その子どもの幼児期までさかのぼって成育史を見ていけば、問題行動を起こした背景が見えるかも知れないと思ったのです。

 私は、三十年近くも非行少年たちと向き合ってきました。調査では、本人や保護者のほか、ときには学校の先生とも面接をします。その中で、なぜ非行を犯したのか、どうしたら立ち直れるのかを見つけるのを仕事としてきました。こうした面接を非行臨床とも言いますが、かつては出会う子どもたちのほとんどは、家庭環境に困難を抱えていたり、本人も小学生のときから勉強につまづいていたり、例えば万引きをするなどの問題を抱えていました。

 ところが、十年くらい前頃からか、そうではなく両親が高学歴で社会的な地位もあって経済的にも安定しているような恵まれた家庭で育っている子どもたちが現れるようになりました。
例えば、面接をしていますと、本人は「反省したから事件の責任はもう消えた」とか、「『頑張ります』と言ったんだから僕は許されると思う」などと言うものですから、あまりの幼さを見て、当たり前の社会常識やもものの考え方を身につけないでしまったと思うようになりました。

 そこで、特に幼稚園や小学校低学年の頃の生活について、両親や本人に直接聞いたり、当時の通信表などの記録をもとに調べてみました。その結果、ほとんどの事例に共通していることを見出したのです。そこで得た知見を、現在、子育て中の親たちに知ってもらい、わが子と付き合うときの参考にしてほしいと思ったのです。ですから、本ではできる限り事実をありのままに紹介することにし、更に読みやすくするために物語風のスタイルにしました。

――このような事例を示されると、少年たちの戸惑いや必死の思いが胸に迫ってきます。幼児教育に関わる人たちだけでなく、世の親たちにもぜひ一読してほしいと思いました。

佐々木 そのようにおっしゃっていただければ書いた甲斐があります。実は、思春期になってから幼児期を振り返るものですから、むずかしいところもありましたが、ここ五、六年間で五十ほどのケースが集まり、本ではその中から十例ほどを紹介したところです。

わが国の非行児の教育は自然に向き合わせることから始まった

――ところで、先生の著書の事例では、ほとんどの子どもが、@幼児期から小学生にかけて「ごっこ遊び」や、A自然との直接的な触れ合いの体験が乏しかったことが指摘されていますね。このことは私たち幼稚園では、もっとも重要視しているところなのですが…。

佐々木 とてもよいところに着目いただき嬉しく思います。勿論、非行にいたるのは世の中の「いい子」のほんの一握りなんですが。

 本に登場する子どもたちは、言ってみれば、「子ども時代」を失ったまま思春期になってしまったと言えます。彼らは、幼児のときから習い事や習い事やスポーツ教室などへ通っているのがほとんどでした。小学生になると放課後には学習塾とかへ通い、親や周りから「一生懸命に頑張ること」と「早く正しく行うように」を言われ続けていました。それに反抗するのは「悪い子」であり、「困った子」となります。だから、彼らは学校を終えても必死で「いい子」を続け、遊ぶひまなどなかったのです。中には、親から「遊びは無駄な時間だ」と言われて育った子どももいます。

 私は、子どもが幼いときから習い事をすること自体には異存はありません。ただ、幼児期から学童期にかけてこそ、いろいろな「遊び」を大事にしてほしいと思うのです。「遊び」にはその後の社会性の発達を促すなど成長のための糧が含まれているように思うのです。

 私は幼児心理については専門家ではありませんが、ある子どもが「親が喜ぶ子にならなければ」という意識が芽生え、そのためには「親に叱られないような行動をしなければ…」と考え始めるのは三歳前後からだと聞いています。そうだとすれば、幼いときから親の顔色を見ながら行動しているんですね。痛々しいほどでした。

 ところで、自然体験の方に話を戻します。わが国に百年も前、明治後期に非行児を教育する施設が作られましたが、その職員たちは不良児と共に園芸や野菜作りなどに従事したのです。その指導者に留岡幸助という人がおり、子どもたちの「心の荒れ」を回復させるのには、まず自然や土に触れされることであると考え実践したのです。この実践は、長く非行児教育の中心になってきました。ところで、現代のわれわれにとって、この考え方や実践から何か学ぶものがあるような気がします。勿論、いまの子どもに合った工夫が必要ですが、幼児期からの「心の教育」に取り組むときのヒントがあるように思うのです。

 実は、私の臨床で出会う「いい子」の少年たちのほとんどが、幼児期に、素足で泥んこ遊びをしたり、小動物や虫、草花と直接触れ合う体験がなかったのです、そこで、幼稚園の先生に申上げたいのです。

 園児たちに土や水や樹木、そして風などに直接触れる機会をどんどん与えてほしいということです。五感をみずみずしく研ぐ体験は、なぜかその後の情緒的な発達を約束するように思うのです。

 たとえば、いまの少年たちが、いきなり「キレる」と言われますが、どうもここら辺の体験不足から由来するように思われてなりません。親たちが「ケガでもしたら」と危ぶむようであれば、「小さなケガをとおして大きなケガが防がれます。そのための学びの機会ですよ」と説明し、親たちこそを指導してほしいと思います。
――まったく同感です。遊びは子どもにとって、先生のご本にもありましたように、まさに成長のための「滋養源」だと思います。事例にあった援助交際のある少女の場合も「いい子」であったとか…。

佐々木 そうなんです。女の子どもの中にも「いい子」見られるようになりました。非行臨床のケースでは、だいたい「教育熱心」な親たちのもとで育っています。しかし、よく見ると、幼いときから子どもを突き放すといいますか、家庭の外に教育やしつけを委ねてしまっている例が多いのです。そのうえ、親はわが子の「いいところ」しか見ないで、悪いところは「自分の子どもではない」と言います。これでは、子どもたちは気持ちが落ち着きません。そうではなく、親子が無条件に触れ合うことが大切なように思います。彼女らには、幼いときから家庭は「煽りの場」ではあるが、「癒しの場」ではなかったということが言えます。幼児期から心淋しい思いのまま思春期になり、逸脱の中にふと擬似的な安らぎを求めたとも言えます。

 それに、先ほど申し上げたように、遊び体験の乏しさが、どこかで五感の感覚を麻痺させてしまい、自分の身体なのに自分のものになっていないというか、自分を安易に扱っているように思います。自分を大切にしないことにはどうにもなりませんね。まして、自分を粗末にしては他者をいたわる心も芽生えてこないと思います。

 親が「教育熱心」であることは大切なことです。けれども、わが子を追い込んでいるとなると考えものですね。

――よく分かります。先生の調査官というお仕事と、私たち幼児教育者の仕事の行き着く先は、同じところではないかと思いました。

佐々木 そうですね。子どもたちの心身が健やかに成長するのを願うのは、同じだと思います。

 今、肩ひじ張って懸命になっている親たちに言ってあげたいのです。「もう少し力を抜いて親の苦手なところも弱さもさらけ出し、裸で子どもと向き合って本気で泣いて怒ったりしてください」と。

 ところで、幼いときから群れて遊んだり自然と触れ合うのが大切だと言ってきましたが、それぞれの家庭ではなかなか難しいのが今の状況です。そこで、幼稚園という空間と時間にはそれができる条件が揃っています。先生方のいろいろな工夫した取り組みにこそ、大いに期待するところです。

――ありがとうございました。

★インタビュー=広報副委員長・町山芳夫(まどか幼・葛飾区)

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