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祖父が絵をのこし、
孫が文をかいた。
爽やかな共作に立ち会った。
ドイツ文学者 池内 紀
二重性の魔力に満ちた近代洋画界の鬼才、小出楢重。画家の人生と創作の秘儀を孫が解き明かす。
第一章 絵描きいうもんは、自分の描きたい思て描いた絵を買うてもろてんねんから、まあ、言うたら自分のウンコを買うてもろてんのと同じや
第二章 然し乍らパリーの美術は実にだめだよ。巴里で絵を習ってゐる奴の気が知れないよ
第三章 顔というやつはねえ、妙に性格的な連想を呼び起こして僕の制作を乱して困る
第四章 お金の無いこと恐れることあれへん。お金無いから いうて騒いだり喧嘩したりすんのは俗人のすることや
第五章 芸術というもんは、あんまり「げんかい」なもんはあかんのよ…、楢重はんも、そないよう言うてはった(妻・重子)
日本図書館協会選定図書


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小出先生2冊目の本ということもあって、編集作業はスムーズに。和田誠さんの装丁も3冊目。和田さんとも少しずつ打ち解けてきたような…。(山)
●小出龍太郎『文学にひそむ十字架』
●好評連載『小出龍太郎の胸キュン ダイアリー』
●Googleで検索「小出
楢重」


JAPAN JUNG CLUB NEWSLETTER No.72
たとえば高校の時に美術の教科書の中で楢重の「Nの家族」が岸田劉生画「麗子像」の隣にあり、残念ながら「暗い」としか思えず、しかし年を経てよくよく鑑賞してみると、光がないと影もないからと愛想のない事を考えつつも「光と闇の両面の本質をその感性で察知していた人」の作品らしく光の方にも注意がいく。あたかも鑑賞者の像を追うかのように異なる記憶像が作られる。これも名作のうまみである。ただし筆者の場合、それは本書を開いた由縁がある。
小出楢重(明治20年〜昭和6年)は、大阪島之内に生まれ、二科会受賞や渡仏を経て、多彩で独自の画風をもった近代洋画の代表格となる。そしてモーパッサン研究家龍太郎氏の祖父にあたる。
ちなみにモーパッサンと楢重といえば、前者は進行麻痺と「作家の二重性」に苦しむ。一方楢重はもともと「虚弱」な体質をもち、彼の光と闇の「二重性」からバランスと奥行きを得る。彼はパリ遊学中「あまりの距離感から生まれる焦燥」ゆえパリ画壇を批判的に捉え、あえていえば「パリの憂鬱」ではなく深い「光の憂鬱」に自己を見出す、かつ両者とも写実と神秘の作品を残し、同年齢で早くに他界してしまう。奇しくも近くて遠い二人である。
ともあれ本書において楢重とその諸作品の魅力が著者の主張する二項対立を介し却って十全に迫ってくる。5章「空想に遊ぶ」の静物画におけるシンボル解釈の箇所にて論が絵と人物から遠くなってしまい、静物画のアイテムを単なる「無意識の投影」と捉えると楢重の卓越した感性が日常的な錯誤と同次元に置かれてしまうと失礼ながら思ったが、全般的には生き生きとした進み方である。今回知った「ユーモラス」にして「シリアス」で、「死と生を見つめ」た楢重像、そして彼の、「写実と幻想のカクテル」「曼陀羅的表現」となった芸術世界の姿から、まさに祖父と孫の美しいハーモニーもイメージできた。
孫であることが裏目に出ない。こいう調和は珍しいと思う。おそらくはご自身も文化芸術に通暁しユング心理学を学ばれたこの著書ならでのものであり、本書は双方の専心と個性がしっかり刻印されて貴重である。
また、そこかしこに引用された楢重の「げんかい」でない言葉もそれぞれ興味深く、ひとつの事に沈潜することと狭いことは別だとか思い、おおいに考えさせられ楽しめた。
ところで江ノ島神社奥津宮の神門には「八方睨みの亀」という、どこからみてもこちらが観られている感じがする不思議な墨絵が残っている。芸術の作用は、やはりこうした体験に準じることがあるかもしれない。
(山田いづみ)
●産経新聞「著者に聞く」(2002年3月18日)
●赤旗(2002年2月25日)
●BK1・近藤富枝氏[作家](2002年2月4日)
●奈良新聞(2002年2月3日号)
●神奈川新報(2002年1月28日号)
●和歌山新報(2002年1月27日号)
●ニュース和歌山(2002年1月17日号)
●週間読書人(2002年2月8日号)
早世した祖父を描き出す
現実にイマジネーションを注入した画家
瀬木慎一
この大阪を代表する近代画家が亡くなってから七〇年が過ぎた。この機会に、祖父のことを、この著者は再度書いて出版することになったのだろう。前著は、一九八一年刊行の「聞書き小出楢重」(中央公論美術出版)である。
この人は、一九五一年の生まれなので、当然、画家その人を知るはずはない。その知識の源は、八八年まで長命だった祖母にあった。今回も、それに多くの面で依りながら、自身の知識を披露している。私的なことだが、この夫人には、私も何度かお会いして、お話を伺った。一つ付け加えると、著者の父も、その父のことを書こうとして果たせずに、二年前に亡くなったという。
私が興味を引かれた点を幾つか挙げると、主に、作品とそのモデルまたは素材が関連付けられた記述である。「周秋蘭立像」の実物は大変な美人だったが、その顔を描くのに作者は非常に苦労して、一点の美人画にすることにもためらいを感じて、その箇所だけは、妻重子のものにしてしまったという経緯。
滞仏中の風景画「パリ・ソムラールの宿にて」そして、「カーニュ風景」の窓外の景観に関する、現場と思える視点から捉えた写真も重要である。
晩年の「卓上静物」にも、一般の画家にしては口外が禁物であるその元になった写真が存在していることが明らかにされている。親しかった谷崎潤一郎の「蓼食ふ蟲」の挿絵のあるものには、隣家の情景が取り入れられているという証明もおもしろい。
楢重は実景に即するが、そこにイマジネーションを注入して作品を仕上げる画家だったことが、各所で強調されていて、その極限が、いまだに解釈上論議が残る絶筆の「枯木のある風景」である。さらにその先で、実景を超える地点にも踏み込み、自分とは全く異質な、イタリアの後期未来派的なダイナミズムにも共感を示したこの画家の最終段階が気になるところである。
同時代人との関わりでは、大阪で個展を開いていた岸田劉生を訪ねた折に、彼の日記に「下人」と書かれた理由がこの著者の立場で推測されているが、極めて控えめであるのは、意外で、それもまた、大阪人風なのか。
フランスでは、その生活にも絵画にも馴染めず、早々と引き揚げたこの画家だったが、大阪に帰着すると、自国についての失望が深まるという逆転現象のなかで、それまで全面的な日本趣味者だったにもかかわらず、生活を極力欧風に改めて、「洋画」の基盤を求めようとするその懸命な努力と空転に疲労しての、四三歳での早世だった。(せぎ・しんいち氏=美術評論家)
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