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![]() 小野四平 2001年10月 ISBN 492114639X. 定価 (2200円+税) 四六判上製 |
故・林竹二の名著『教育亡国』の衣鉢を継ぐ労作。この国における学校教育の現状と問題点をつぶさに描き、混沌を越え出る方策を模索している。(三) 日本教育新聞 (2002年3月号) 「管理教育」との決別促す 著者は、故林竹二宮城教育大学長とともに、大学改革にまい進された方。書名は、林氏の名著『教育亡国』に、真摯にこたえる、の意味がある。敗戦直後、田中文相は教育を 「私的な性格を有しており、国家の介入を許さない」と言い、続く岡野文相は「国の責任で行う国家的事業である」と言った。以降、後者が圧倒的優位を続けたことを、著者は『亡国』の緒ととらえている。 一章では、七〇年代の『落ちこぼし』は、「教育はかくあるべしという集団主義による管理教育」のつけである、と説く。二章では、八〇年代の『校内暴力』のすさまじさを当事者に語らせ「子供は大人の植民地ではない。独立国として協定を!」と説く。三章では九〇年代の『いじめ・自殺』を、「学校を超え、今や社会全体の問題である」とし、続く四章では、『殺人』事件で当初は学校を批難し、次いで心の教育をうたう行政に「徹頭徹尾、個人の問題」と説く。 酒鬼薔薇事件の『透明なボク』の父親は、沖永良部から来た『金の卵』だが、団魂の世代であり、全共闘の世代であり「世の杯を背負っている」は説得力があった。 第5章、学校恐怖から、登校拒否・不登校と第七章まで続くが『一斉的な管理教育こそ教育の華』というおぞましい考え方を断ち切ることが大切と、終始一環している。 (目賀田 八郎・総合初等教育研究所顧問) 中学教育 (2002年1月号) 林竹二が『教育亡国』(ちくま学芸文庫)において、日本の学校教育の「破局的状況」を告発したのは、1983年のことである。今日、事態はさらに絶望的になってしまった。この現状の中で、「林先生のメッセージを、可能なかぎり全身で受けとめ、そこから半歩か一歩、前に踏み出したい」と願って書かれた、小野四平さんの『教育亡国を越えて』は一縷の光明となる。「この耐え難いほどの現実から、あくまで目をそむけることなく、これを見つめていくこと」と「教育亡国の淵から脱けだしていく道を、一人ひとりの責任で探しもとめていくための努力を続けていくこと」。この二つを実践する歩みが、厳しく険しい道のりではあっても可能性を開く。 小野さんは、「学問を根底においた教育」を切望した林学長のもとで、宮城教育大学の改革に高橋金三郎らとともに努力した。「高級な」学問と「低級な」教育という区別のついた多くの大学人によって試みが潰えた後も、教育大学の教員としての責を果たした。専門の中国文学の研究を深めるとともに、学生教育はもちろん現職教員との授業研究にも力を注いだ。林の求めた「自己をつくり変える学問」の持続に基づくその知見は、マスコミや教育学者にありがちな、観念的で無責任な発言とは対極をなす。林の学問が憶説(ドクサ)の吟味に拠ったように、小野さんの思索も、教育についての既成の「常識」を問い直し、事実を「ありのままに」みつめることから出発する。 すると、教育の場で実際に生きる子どもや教師の立場に近づくことができる。校内暴力に振り回された中学校教師の語った、1年に3人もの同僚が過労から命を落とし、自らも精神の病に陥った苛烈な体験が、本書に記されている。この衝撃的な証言は、教師の「言いようのない辛さ」を受けとめようとする聞き手の存在によって引き出されたものである。小野さん自身も、付属中学校校長として、次々にトラブルを起こす生徒とその親への対応に身を挺した苦渋の経験をしている。社会へと視野を広げ、日本の近代化と関連づけて、教育を「根本から」見直すと、新たな認識にいたる。いじめ、不登校、少年犯罪の増大という状況は、もはや「学校病理」ではなく、もう「学校解体」が始まっている現実の表れであるという。また、教師の多用する「はっきり言え」「嘘をつくな」という言葉によって、子どもの心は「清潔漬け」になって「秘儀的空間」を失ったことが、問題にされている。文学のセンスが光る卓見である。 さらに、小野さんは、林の提唱した「教育における臨床の学」をもとに、絶望から脱出する道をさぐる。高校での精神保健活動に取り組んだ大学相談室、不登校の生徒を迎えるクラスづくりを1年以上も続けた中学校教師、重度の障害児に食事をさせる努力を重ねる盲学校教師。こうした地道な「臨床」の姿に注目して、「自分自身を捨てて子どもの立場に立つこと」に、教育への希望の芽をみいだす。 林は、教育の再生に向けて、教育権を文部省から人民の手にもどし、人民自身が教育に責任を負うべきであると主張した。教育への責任を負う生き方を、その困難も含めて、私たちは本書から学ぶことができる。 (宮城教育大学助教授 吉村敏之) 東京新聞・中日新聞 (2001年11月29日夕刊) 学問は終わりなき自己変革(自著を語る) 「しっかりした学問を根底としてもたない教育は、ダメです」。宮城教育大学の学長をしておられた頃の林竹二先生の言葉です。然し、この言葉の意味を全く分っていませんでした。「そんな当たり前のことを、どうして・・・?」。密かに、いつもこう思っていたのです。 改めて考えてみますと、この大学の教師として過ごした三十五年は、林先生のこの言葉の前に立つための、私の学習の時だったように思われます。拙著「教育亡国を越えて」は、その学習記録に他なりません。先生のご著書「教育亡国」を少しでもきちんと理解したい。これが願いでしたが、願いの成就したと言う実感はありません。その意味で、拙著は文字通りの拙い記録です。 ある時のことです。職場の大先輩で理科教育学担当教授・高橋金三郎先生の文章を読んでいました。そこには、近代日本が不可避のものとして抱えることととなった「学問と教育」の辿った運命についての独自の見解が記されていました。 明治の頃に確立された、「学問は帝国大学で」、「教育は師範学校で」と言う姿が、第二次大戦の後も生き続けてきて、「学問と教育は別物なのだ」と言う認識は社会の隅々まで浸透していて、動かし難い常識になっているというのです。先生の文章は、つぎの言葉で結ばれていました。「学問と教育を別物とする思想が、大学だけでなく全学校教育の死活の問題である」。 最近になって、連日のように「構造改革」という言葉がマスコミを賑わしています。それはそれで大切なのでしょう。然し、三十年あまり前に、教育大学の中で林先生と高橋先生のお二人が、それぞれの形で「学問と教育は,本来が不可分で一体のものなのだ」と語っておられたのです。 それは、この国における「学問と教育」の分野の「構造改革」への最初の提言だったのですが、この事についての人々の注意はほとんど認められません。 福島民友 (2001年12月9日夕刊) 著者は奥羽大学文学部教授。30年間勤めた宮城教育大学をさるにあたって書きつづったものをまとめた。 「困難極まる、もしくは絶望的な閉塞(へいそく)の状況がそこに横たわっている。このような状況を直ちに改善することのできる妙案はない」のが今の教育だという。 自分自身に厳しい目を向け、自分を吟味することによって子どもという「他者」が見えてくる、と著者は確信する。このように「とらわれない目で、あるがままに見なければならない」のに「できあいの知識でレッテルを張ってしまうから子どもたちが何を考えているのか見えなくなってしまった」と指摘する。 なぜこうなってしまったのか。「日本の大学は、発生のそもそもから学問と教育がまるっきり別物になっていた」からだ。小学校から大学まで統一的に貫いているこの考え方が、全学校教育の死活の問題であることに気づかなければならないと訴える。少年問題や教育現場で起きた出来事を通じて、現在の教育にひそむ問題点を浮き彫りにする。 世間の常識に対する正面からの戦いは、当然のことですが多くの人々の理解を得られません。お二人の戦いは、その意味で全くの孤独の中での仕事でした。いまもなお、状況は基本的にかわっていないのです。教育をめぐる現状を林先生が「教育亡国」であると指摘してから二十年近い時間が流れました。心ある人々の努力にもかかわらず、好転への気配は、まだみられません。 ところで、学生たちのために書かれた文章の中で、林先生はこう書いておられます。「学んだことの証しは ただ一つで、何かがかわることである」。先生にとっての学問が、終わることのない自己変革の営為であったことを、私たちはこの言葉から窺がい見る事が出来ると思います。 先生はまた、機会あるごとに語っておられました。教育とは子どもに対して何か一定の事を教えることではないのです。高みによじ登る子どもと一緒になって、その高みに向かって出発することなのです……と。 終わりに、1つのことを記しておきたいと思います。学校教育の中で、小学校教員になるための極めてハードな資格要件を全て廃止するべきであるということ、これであります。大学卒業者であれば、どんな専門であっても差し支えありません。誰でも、教員採用試験を受けることができるというようにしなければなりません。残念ですが、現在の教育大学に希望はないのであります。 |
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