いま明かされる天才宗教家・勝又正三の驚異の前半生。師が亡くなって21年。敬愛する人が後を絶たない。『ユング自伝』にも匹敵する興味尽きない稀有の記録は、真実のみが持つ迫力に満ちている。
著者の愛弟子・瀬上正仁氏の、詳細にして愛情あふれる解題付。

視ようとすれば、
確かに現前する。
「両親に手を引かれて山道を歩いて行くと、前方15間(約27メートル)ほど先に、きらきら輝く玉のような光を見つけた。私は、何だろうと思い、それを拾おうとして駆け出した。道のない大豆畑の上や坂道を一目散に走ったことを、今でもはっきり覚えている。」(本文より)





瀬上正仁(せのうえ・まさひと)
昭和29年宮城県塩釜市生まれ。仙台市で育つ。山形大学医学部卒業後、仙台市内の病院に勤務。脊椎外科が専門。現在、上杉にある宮城中央病院の副院長。高校時代から神道家の勝又正三師に師事し、師亡き後は「魚と水の会」を「愛光会」と改称して継承。医業のかたわら神道を主体とした東洋思想とスウェーデンボルグ神学との関連を調べている。JSA(日本スウェーデンボルグ協会)運営委員。仙台市太白区在住。


 


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勝又正三著
瀬上正仁編

2001年12月

ISBN
492114642X

定価
(2500円+税)

四六判上製



『明治のスウェーデンボルグ』の著者、瀬上正仁氏が師、天才宗教家勝又正三の前半生をまとめた。火の玉のエピソードからして凄い!(三)





いきいきライフみやぎ
日本人の心を求め続けた宗教家 勝又正三
(2003.07.15)

仙台市内の二日町交差点の近くに、かつて「勝又産業株式会社」の看板を掲げた小さな事務所があった。当時としては珍しい乳酸菌の健康食品を商っていたその会社の主は、実はたぐいまれな霊的能力を持ち、日本人の霊性の復活を唱えた、稀代の宗教家であった。
 その人物の名は勝又正三(大正三年〜昭和五十五年)。若いころにキリスト教の牧師を志して上京するが挫折して、筑波山での山岳修行に身を投じた後、中部千島に従軍して不思議な出来事を体験する。帰郷してからは借家住まいの質素な生活の中で、宗教のあるべき姿と日本人の宗教意識について思索を深めた。
 今の私たちが忘れかけている「日本人の心の故郷(ふるさと)」につてい語り続けた、この一宗教家の実像に迫ってみたい。

瀬上正仁(思想研究家・医師)


りらく
仙台出身の思想家新井奥邃と
スウェーデンボルグをつなぐ

(2002年3月号)
幕末の仙台に生まれ、明治初期にアメリカに渡り28年間を異国の地に過ごした人物がいる。帰国後、清貧の生活を守り通した新井奥邃。非戦や男女平等を唱えた儒教的キリスト者としていま、その存在が見直されつつある。瀬上正仁さんはスウェーデンボルグ神学との関連を指摘し、『明治のスウェーデンボルグ』(春風社)と題した本を上梓した。


――本業は医師ということですが、そのかたわら在野の思想研究家として、昨年は2冊の本を出版なさいましたね。

医師としては西多賀病院や仙台整形外科病院に勤務したあと、3年前から宮城中央病院で整形外科を担当しています。でも医者となる以前、宗教上の師・勝又正三先生との出会いがあり、18歳のときから『魚と水の会』に参加していました。僕は研究家というほどではないのですが、これまでいろんなめぐりあわせがあり、出版社や先輩の方々の助言もあって昨年『明治のスウェーデンボルグ』と勝又先生の遺稿をまとめた『魚と水』の2冊の本を世に出すことができました。


――青年期に出会い影響を受けた宗教家の勝又正三氏とはどんな方だったのですか?

もともと仙台の人で、神道的キリスト教の小集会を開いていました。学生時代にはキリスト教の路傍伝道をして歩いた方ですが、牧師になろうと上京しながら体を悪くして断念。筑波山にこもって修行するうちいろんな体験をするわけです。神道や空海の密教の影響も受けながら独自の境地を開き、召集されたあと、戦後は北四番丁平屋の家で『魚と水の会』を主宰。市内の商人や農家の人、福島の人もいたり、東京から物理学や哲学の先生が来ることもありましたね。

僕の父は塩釜で医者をしていましたが中1のとき亡くなって、盲学校に通う2歳下の弟の体調が悪くなったとき、心配した母に付いていったのが先生と出会ったきっかけでした。何回か通ううち、組織に頼らずご利益(りやく)を求めない姿勢に他の宗教とは違うものを感じた。ひとりひとりが神とつながり、日常の生活そのものが宗教と一体となっているという教え。昔の日本人が超自然的なものに神を感じながら生活していたように、原点に戻れということだと思い、霊的な能力もあったけれどその教えに惹かれていったんです。


――師亡き後は会を継承しているそうですが。


昭和55年に勝又先生は亡くなられました。僕はまだ学生だったのですが、あとから聞くと先生は周囲の人たちに、この人が会を引き継ぐと言っていたらしい。医者になるときは平凡な普通の医者になれ、と言われた。名声を追うのではなく、患者さんに奉仕する心を持ちつづけるようにということだったと思う。医者として歩みはじめたばかりの26歳のときに会を引き継ぎ、愛光会と名を改めました。


――スウェーデンボルグ神学との出会いもその頃からですか?

18世紀の神学者スウェーデンボルグは大変誤解されることの多い人です。霊界の見聞を書いたことからオカルト趣味的にみる向きもあるが、本来は神秘主義的キリスト教神学者。ゲーテやユング、ヘレン・ケラーなどさまざまな文化人に影響を与えていますし、その教説を基にした新教会も設立されています。

ヒントは勝又先生から与えられましたが、その後半分以上は独学でスウェーデンボルグを調べてきました。彼は非常にすばらしい思想家であり、科学性を持った人だと僕自身思っています。USE(用)という思想を提唱していますが、人間は人のため、役に立つために存在しているということなんですね。人間、自然、宇宙も神のなかに含まれるという見方は東洋的な考え方に通じますし、勝又先生の教えとも重なる。どの宗教にいても神を信じなさいという心の広い宗教なんです。おそらく宗教というのは根っこの部分でつながっているのではないかと思いますね。

日本では明治43年に禅仏教の鈴木大拙が紹介して以来、注目する人も多く、現在スウェーデンボルグ研究の第一人者である高橋和夫氏(文化女子大学教授)はわたしの兄弟子にあたる哲学者です。


――『明治のスウェーデンボルグ』のなかでは新井奥邃についてふれていますが、仙台出身者に、これほどの知られざる偉人がいたということは驚きでした。

数年前に市内のキリスト教系書店で手にした本で、奥邃を初めて知り興味を持ちました。養賢堂で7歳から学んだ秀才ですが、明治3年、24歳のときアメリカに渡り、28年間滞在。帰国したあとは東京の巣鴨で小集会を開き、独特の神秘主義的・儒教的キリスト教を唱えた人です。林子平とならぶほどの郷土の偉人だと思っていますが、いままではほとんど知られることがなかった。というのも自分の肖像や写真を残さなかったし、書いたものも亡くなる前に焼き捨ててしまっているんですね。でも教えを受けた弟子たちが資料を大切に保存していて、毎年一回墓参をかねた記念会を開き、没後80年を経たいまも行なわれているという事実をみてもすごい人です。


――仙台藩の秀才でありながら脱藩し、ハリストス正教会のニコライや後の文部大臣森有礼と出会ったのが渡米の糸口でしょうか。

養賢堂から江戸に遊学するほど期待されていた人物で、当時のすばらしい詩や書、文が残っています。ところが戊辰戦争がはじまり、奥羽列藩同盟の結成に尽力。仙台藩が降伏すると脱藩し、約250人の兵士たちとともに函館に向かった。そこで出会ったのがロシア正教会のニコライで、キリスト教の教えに接することとなるわけです。幕末から明治にかけての日本が大きく変化するときであり、上京を促されて新都に向かったところで薩摩藩の逸材、のちに日本の初代文部大臣になる森有礼に会い、人物を見込まれて一緒に海を越え、アメリカに渡ることとなった。


――28年もの長い間、アメリカで奥邃はどんな生活を送っていたのでしょうか?

森有礼はすでに渡米の経験があり、トーマス・ハリスという人物に奥邃を会わせたいという目的があった。というのもハリスは将来の世界のなかで日本人が果たすべき役割を予見、スウェーデンボルグ主義に基づく教団のなかに日本人のコロニーをつくっていた。奥邃が教団でどんな仕事に携わっていたかは不明ですが、最後の7年間はハリスとも離れ山荘に独居し、祈りと思索に耽り、文章を書いたりしていたらしい。この間帰ろうとして手段がなかったとも考えられるし、親族との連絡もとれないような状況にあったのでは。


――帰国後はどのような形で自分の考えを広めていったのですか?

奥邃が日本にもどったのは明治32年のこと。当時洋行帰りといえばかなりの地位が与えられていたのに、清貧を守り通しました。巌本善治に拾われて明治女学校に寄寓していたこともあり、野上弥生子の晩年の小説『森』の中にも村井幽寂の名で登場しています。数年後には書生たちとの共同生活の場『謙和舎』ができ、以後20年を過ごすこととなる。組織宗教に反対する立場から礼拝や儀式を一切行なわず、自室で一人静かに祈る儒教的キリスト者でしたが、社会人を対象とした定期的な集会も開かれるようになり、『大和会』と称し毎月小冊子も発行するようになるのです。多くの人に影響を与えていますが、ダンテの『神曲』を翻訳した山川丙三郎、足尾銅山鉱毒事件で有名な田中正造もそうですね。


――非戦論を唱えたということで21世紀のいま、その思想の見直しが大切では?

まさにそのとおりです。宗教がらみで戦争が起こるのは、私欲や国益が動いているからだとして、戦争を引き起こす人間の愚かさを嘆き、日清日露の勝利にわく当時の日本で、真っ正面から言っていますから。男女平等もいちはやく唱えていた。人々が混乱と不安にあるいま、もっと見直されていい人物です。林竹二先生(元宮城教育大学学長)も奥邃に注目していますが、最近になって山形在住の研究者工藤正三氏がNHKの宗教番組で紹介してからようやく知られるようになってきたし、春風社から『新井奥邃著作集』(全10巻)の刊行が始まりました。


――奥邃、森有礼、田中正造がスウェーデンボルグ神学と関わりがあるということは、最近わかったことなのでしょうか。

スウェーデンボルグ神学は、最近になって研究が進み、いろんな人への影響もわかってきたんですね。新井奥邃に関しては、28年の渡米中信仰の生活をしていたらしいとはわかっていても、普通のキリスト教徒と考えると理解できないところがあった。直感で僕はスウェーデンボルグ思想との結びつきを思いました。そうするとすべて納得いくし、調べていくうちにいろんな情報が集まってきました。3年前に仙台で日本スウェーデンボルグ協会の全国大会が開かれましたが、同じ年に東京で奥邃帰国百周年記念公開シンポジウムが開かれていたというのも偶然ながら面白い。

ここ数年ふしぎなめぐりあわせで人と出会い、関連資料が集まってくる。スウェーデンボルグ思想の反映は、イサム・ノグチや高村光太郎にもみられるし、『銀河鉄道の夜』を書いた宮沢賢治もつながるものをもっている。小さな枠にとらわれずにいると大きなものが見えてくるんですよ。


――医師として現代の世に考えることは?

僕にとって医師であることと宗教を考えることは、分離していることではないし、最初から一体となっていました。僕が専門としている脊椎外科にはさまざまな人がきます。痛みの治療が心の癒しと密接に関係することを実感しているんです。

いまの人たちはパソコンやケータイで簡単に用をすませてしまい、深く思索するトレーニングができていない。世界的な過渡期であるいま、古いからといって捨て去るのではなく、昔の人たちのいい部分を取り入れ、もう一度見直すことも大切ではないか。

医療界も大変な混乱のなかにいます。アメリカナイズされた医療システムでいいのだろうか、もっと日本人にあったシステムを考えていかなければと思いますね。医療費の抑制ということを考えた場合も、高齢者に対する高額治療や移植治療など問題は山積みです。死とは何か、死生観を持つのが宗教家であるし、医師としても人間としてのあるべき姿を考えていきたい。真の日本的医療とはと問うたとき、勝又先生、新井奥邃、そしてスウェーデンボルグから教えられることがとても多いのです。

取材・文:渡辺 仁子
(C)春風社 / Shumpusha Publishing