本当に「人間にできることは何もない」のか―。哲学と演劇、異なる分野で戦後日本をしぶとく生き抜いてきた両雄が、思想と身体、絶望と希望をめぐって激しく語る。

この書は、ハイデッガー哲学研究の第一人者である超近代主義者の木田元氏と、田中正造を主人公とした劇の演出家でもあり、当然近代主義者である竹内敏晴氏との丁々発止の対論である。まことにおもしろい。哲学の入門書としても有益であろう。

推薦・梅原猛(哲学者)





木田元(きだ・げん)
哲学者。近著に『マッハとニーチェ』『ハイデガー『存在と時間』の構築』など。訳書多数。

竹内敏晴(たけうち・としはる)
演出家。近著に『思想するからだ』『癒える力』など。


 

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木田元
竹内敏晴

2003年2月

ISBN
4921146586

定価
(2200円+税)

四六判
269頁



 いつもはテキトーに流して話す(笑 師匠スイマセン)木田先生だが、竹内さんの鋭い質問に思わず本気になった。
 巨匠二人の激突、編集していて手に汗にぎった! さぁその軍配やいかに!?(内)



週刊読書人

「読解者」から「思想者」へ

(2003.4.25)

 木田には対談の名手という印象があって、今回の竹内敏晴との対談『待つしかない、か。』でも竹内の実践家としての積み重ねから出てきた言葉を木田が引き取りながら対談を展開してゆく、その進め方の妙を味わうことが出来たが、「友情の人(ホモ・アミクス)」(高橋英夫)としての木田の人柄―それはもしかすると教師木田にもつながっているかもしれない―こそが対話の巧さを生んでいるように思う。そしてそれは木田の人間に関わるあらゆる事柄への瑞々しい関心ともつながっている。老いてますます闊達自在になりつつある木田のさらなる活躍を期待したい。(抜粋)

(早稲田大学教授・高橋順一)

 

産経新聞

「身体」と「存在」を哲学する

(2003.3.17)

 一方は、現象学を中心とする西欧哲学を平明な日本語に移植し、哲学を学界の外で生きる思考として存在させるのに大きな役割を果たしてきた木田元氏、もう一方は、新劇から始めて日本の現代演劇のかかえる根本的問題に直面し、具体的な実践によって、演劇を劇場よりもはるかに広い次元で、人間を探究する場そのものとしてとらえてきた竹内敏晴氏。二人の対話である。完成の域にある二人の知者が、そういう域にあるからこそ、たがいにじっくりと耳を傾け、相手の思考と足跡との交点を緻密(ちみつ)にさぐっている。どの話題も、すれ違いに終わることがない。

 サブタイトルが示しているように、対話の中心は「身体」である。現象学は最初の「身体の哲学」であった。哲学は長いこと、精神あるいは理性について考えてきたから、身体と哲学という二つの言葉はほとんどあいいれないようなものだった。現象学から出発して「存在」について考えたハイデガーは、西欧哲学史を読みとき、存在をとらえそこなった歴史として、ときにこれを全否定するかのような姿勢を示している。二十世紀の哲学は、哲学の存在そのものを危うくするようにして、身体と存在について考えてきたといえる。その果てで、しばしば東洋的なものを彷彿(ほうふつ)させる結論にたどり着いた。「待つしかない」という題名は、ハイデガーの「存在」に対する最終的な態度を、木田氏が要約したものだ。存在は、こちらから無理強いするのではなくて、現れるのを待つしかない。もちろん、熾烈(しれつ)な葛藤(かっとう)を経てそのような結論にいたることと、ただすんなりと東洋的な悟りにつくこととの間には大きなちがいがある。二人ともそれを指摘しているが根深い問題である。

 竹内氏は、みずから言語にかんする障害を経験したことから、言語がいかに、見えない身体の見えない配置関係に裏付けられているか、という認識にいたったことを、実験を交えて解説している。この対談そのものが、哲学によって身体が開かれ、身体によって哲学が開かれるという一つの実験の場となった。

(立教大学教授・宇野邦一)

公明新聞

「『対話』の妙を味わう2冊」

(2003.3.24)

 ハイデッガーやメルロ=ポンティ研究の第一人者である木田氏と、「からだとことばのレッスン」に基づく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者養育に取り組んできた竹内氏との「身体と哲学」をテーマにした対話。このテーマに、初対面という、この組み合わせが魅力的だ。まだ立ち上げて比較的新しい出版社の熱い思いが伝わってくる力の入った企画の成果だ。

 タイトルの「待つしかない、か。」とは主体性、近代的自我をめぐって2人が語り合う本書の通低音でもある。そしてこの対論は、木田氏が「からだがある指向性を明確に持つ」という「竹内さんの思考がそうした演劇活動の現場で鍛え上げられたいわば臨床の思考」(「まえがき」から)と言えば、竹内氏は「まことに充実した個人ゼミナール」(「あとがき」から)と言うように、まさに対話というもののスリリングなだいご味を味わうことがきるものになっている。


河北新報その他
(2003.3.2)

 ハイデッガー研究の第一人者である哲学者の木田元。演劇を通した教育を実践してきた演出家の竹内敏晴。ハイデッガー、メルロポンティら二十世紀を代表する哲学者の思想を手掛かりに、二人が言葉と身体をめぐる対論を自在に展開する。
 竹内が聴覚障害を克服した体験から哲学者の言語論、身体論を自ら「検証」してきたとすれば、木田は思索と翻訳を通じて先人の思想を血肉化してきた。敗戦、戦後を生き抜いてきた両雄が、理論と実践の両面から二十世紀西洋思想の可能性に迫る。


図書新聞第2621号
木田元・竹内敏晴『待つしかない、か。』を読む

(2003.3.8)
 ニーチェの『力への意志』は彼の遺稿となりましたが、木田氏はニーチェの思想を再発見しました。このことは現代で哲学をもう一度考えなおすためにきわめて重要な着眼点だと私は思います。プラトン的な存在=被制作性とみなす考え方は、近代科学のもとをなす考え方であり、それはニーチェの考え方とは対立するものです。プラトン的な考え方が近代の科学技術や産業を通じて、現代の文明社会を形成しました。このような文明の方向の過度な延長上に、多くの環境破壊が生み出されて切実な問題となっていることは、周知の事実です。今ここでこの問題について深く考えることはわれわれ哲学者の使命ではないでしょうか。この本を読んで私がわが意を得、とくに嬉しく感じたのは身体性を重視する竹内氏の思考が随所に生かされ、しかも木田氏の発言とうまく噛みあっていることです。これはニーチェのいう〈生きた自然観〉の回復を現実化する上できわめて重要な試みなのであり、これまでにはほとんどなかったことです。
中村雄二郎(哲学者・明治大学名誉教授)

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