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この書は、ハイデッガー哲学研究の第一人者である超近代主義者の木田元氏と、田中正造を主人公とした劇の演出家でもあり、当然近代主義者である竹内敏晴氏との丁々発止の対論である。まことにおもしろい。哲学の入門書としても有益であろう。 推薦・梅原猛(哲学者)
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四六判 |
週刊読書人 「読解者」から「思想者」へ (2003.4.25) 木田には対談の名手という印象があって、今回の竹内敏晴との対談『待つしかない、か。』でも竹内の実践家としての積み重ねから出てきた言葉を木田が引き取りながら対談を展開してゆく、その進め方の妙を味わうことが出来たが、「友情の人(ホモ・アミクス)」(高橋英夫)としての木田の人柄―それはもしかすると教師木田にもつながっているかもしれない―こそが対話の巧さを生んでいるように思う。そしてそれは木田の人間に関わるあらゆる事柄への瑞々しい関心ともつながっている。老いてますます闊達自在になりつつある木田のさらなる活躍を期待したい。(抜粋) (早稲田大学教授・高橋順一)
産経新聞 「身体」と「存在」を哲学する (2003.3.17) 一方は、現象学を中心とする西欧哲学を平明な日本語に移植し、哲学を学界の外で生きる思考として存在させるのに大きな役割を果たしてきた木田元氏、もう一方は、新劇から始めて日本の現代演劇のかかえる根本的問題に直面し、具体的な実践によって、演劇を劇場よりもはるかに広い次元で、人間を探究する場そのものとしてとらえてきた竹内敏晴氏。二人の対話である。完成の域にある二人の知者が、そういう域にあるからこそ、たがいにじっくりと耳を傾け、相手の思考と足跡との交点を緻密(ちみつ)にさぐっている。どの話題も、すれ違いに終わることがない。 サブタイトルが示しているように、対話の中心は「身体」である。現象学は最初の「身体の哲学」であった。哲学は長いこと、精神あるいは理性について考えてきたから、身体と哲学という二つの言葉はほとんどあいいれないようなものだった。現象学から出発して「存在」について考えたハイデガーは、西欧哲学史を読みとき、存在をとらえそこなった歴史として、ときにこれを全否定するかのような姿勢を示している。二十世紀の哲学は、哲学の存在そのものを危うくするようにして、身体と存在について考えてきたといえる。その果てで、しばしば東洋的なものを彷彿(ほうふつ)させる結論にたどり着いた。「待つしかない」という題名は、ハイデガーの「存在」に対する最終的な態度を、木田氏が要約したものだ。存在は、こちらから無理強いするのではなくて、現れるのを待つしかない。もちろん、熾烈(しれつ)な葛藤(かっとう)を経てそのような結論にいたることと、ただすんなりと東洋的な悟りにつくこととの間には大きなちがいがある。二人ともそれを指摘しているが根深い問題である。 竹内氏は、みずから言語にかんする障害を経験したことから、言語がいかに、見えない身体の見えない配置関係に裏付けられているか、という認識にいたったことを、実験を交えて解説している。この対談そのものが、哲学によって身体が開かれ、身体によって哲学が開かれるという一つの実験の場となった。 (立教大学教授・宇野邦一) 公明新聞 「『対話』の妙を味わう2冊」 (2003.3.24) ハイデッガーやメルロ=ポンティ研究の第一人者である木田氏と、「からだとことばのレッスン」に基づく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者養育に取り組んできた竹内氏との「身体と哲学」をテーマにした対話。このテーマに、初対面という、この組み合わせが魅力的だ。まだ立ち上げて比較的新しい出版社の熱い思いが伝わってくる力の入った企画の成果だ。 タイトルの「待つしかない、か。」とは主体性、近代的自我をめぐって2人が語り合う本書の通低音でもある。そしてこの対論は、木田氏が「からだがある指向性を明確に持つ」という「竹内さんの思考がそうした演劇活動の現場で鍛え上げられたいわば臨床の思考」(「まえがき」から)と言えば、竹内氏は「まことに充実した個人ゼミナール」(「あとがき」から)と言うように、まさに対話というもののスリリングなだいご味を味わうことがきるものになっている。
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