『日系インドネシア人のエスノグラフィ』まえがき
『日系インドネシア人のエスノグラフィ―紡がれる日系人意識』(伊藤雅俊 著)の刊行にあわせて、本書の「まえがき」を公開します。
ヒロコ:ニセイの顔は日本人のよう、サンセイはインドネシア人のようね。でもヨンセイになるとまた日本人の顔に戻るみたい。
ワユニ:不思議よね。
ヒロコ:えー、不思議よね。
ワユニ:遺伝子がそうさせるのかしら。
ヒロコ:きっと、そうね。
(2010年6月16日)
本書で言う日系インドネシア人とは、太平洋戦争時にインドネシア各地に派兵され、終戦後に何らかの理由や自らの意思によって帰国せず、インドネシア独立に関与し、さらに同国独立後に帰国を選択しなかった残留日本兵(日系一世)及びその子孫(日系二世以降)のことである。
日系インドネシア人は一世の時代から、広大な島嶼国家インドネシアの中でもスマトラ島とジャワ島の二島に集中している。本書の主要な舞台となるのはスマトラ島北スマトラ州の州都メダンであるが、スマトラ島最北端に位置するアチェ州や日本で就労する日系人に関する記述もある。
日系インドネシア人一世はインドネシア人女性と結婚し、現地文化・社会に生きたため、二世以降の日系インドネシア人は日本文化または日系文化と呼べるような文化・慣習をほとんど維持していない。というよりかはむしろ、日系一世から二世へほとんど継承されてこなかった。加えて、この残留日本兵を先祖とする日系二世から四世までの総数はインドネシアの総人口およそ2億7000万人の0.01%にあたる2万7000人にも達しないだけでなく、日系人は同国において一つの民族集団として扱われていないため、その人数は人口統計にも表れない。同国において文化的・社会的・歴史的にあまり認知されていない人々であると言えよう。
それでも、日系インドネシア人は現に存在している。ある日系二世は、父親の写真を筆者に見せてくれ「(軍服の首元につけられたバッジを指さして)これがインドネシア国軍のバッジです」と誇らしげな表情をする。ある日系二世は、深夜遅くまでサッカーワールドカップの日本代表チームを応援し、日本が敗戦を喫した際にはテレビの前で悔し涙を流す。また、ある日系二世は東日本大震災の翌朝から、瞼を腫らせたまま仲間の家々を回り募金活動に奔走する。ある日系三世はモーターバイクの車体の右側にインドネシア国旗、左側に日本国旗のステッカーを貼りつけている。日系インドネシア人は皆で集まると必ずと言ってよいほど、日系一世が存命だった頃の思い出話や日本の時事問題等の話をする。
冒頭の会話はワユニ宅に数組の日系人家族が集まった際の、日系二世女性二人の何気ない談話の一部である。この日はちょうどヒロコが生まれて間もない孫・日系四世を連れてきていた。なぜこのようなことを行ったり話したりするのだろうか。理由は単純である。日系インドネシア人であるからだ。
それでは、日系インドネシア人は、何をもって「私(私たち)は日系インドネシア人である」と自らを同定しているのだろうか。つまり、彼らの日系人意識(エスニシティあるいはエスニック・アイデンティティと言い表せるもの)の根底にあるものは何なのであろうか。彼らはそれをどのようにして維持したり、強化したりしてきたのだろうか。本書では、北スマトラ州出身の日系インドネシア人を研究対象として上述の問いを複眼的視点から考究する。
本書の構成
本書は序章、本論第1章から第11章、終章で構成される。そして本論は三部構成となっている。
第1部 日系インドネシア人一世とオラン・ジュパンでは、まずスマトラ島における日系一世の概数、結婚、宗教、職業などについて詳述し、日系人の集住地域や多民族性といった諸特徴を把握する(第1章)。次に、日系人の扶助組織である福祉友の会メダン支部が設立される1979年以前に、日系一世がスマトラ島各地で結成した小規模な日本人会や、日系一世個々人間で培ってきた強固なつながりを母体として、その延長線上に日系二世の交友関係が成り立っていたことを明らかにする(第2章)。続いて、北スマトラ州に生きた日系インドネシア人一世がどのようにしてオラン・ジュパン(日系一世らは周りのインドネシア人からインドネシア語で日本人を意味するオラン・ジュパンと呼ばれていた)と見なされるようになったのか、その経緯を他の民族集団からのジュパンという範疇化に焦点をあてて考察する(第3章)。
第2部より記述の対象が日系インドネシア人二世・三世となる。第2部 日系インドネシア人二・三世の日系人意識は、第4章から第8章までで構成される。第4章では、北スマトラ州で実施したフィールドワークより得られた、日系インドネシア人二・三世計120人の基本情報(職業、出生地、居住地など)に、聞き取り調査や文献資料の情報を加えて、日系人及び日系コミュニティを量的な側面から把握し、諸特色を示す。第5章では、フィールドワークで収集した情報と福祉友の会発行の『月報』及び『会報』を基に、当該地域に居住する日系インドネシア人を統括する福祉友の会メダン支部の役割を探る。
福祉友の会メダン支部が設立されたのは1979年、日系人の渡日就労が開始されたのは1990年のことであった。第6章では、この二つの出来事がスマトラ北部における日系インドネシア人同士に出会いの場所を提供し、彼らの交友関係を形成・拡大させてきたことを明らかにする。第7章では、日系インドネシア人のインドネシアにおける日本軍政期の歴史的評価と日系二世の日本との交流のあり方を紹介し、日系人意識や日系人らしさを探る。第8章では、オラン・ジュパン、日系インドネシア人一世と生活をしていた日系二・三世は家庭内でどのような日本文化に触れていたのか具述する。また、オラン・ジュパンはどのような日本的影響を日系二・三世に及ぼしたのかを示す。
第3部よりフィールドがインドネシアから日本へ移る。第3部 日系インドネシア人の渡日就労と日本での生活世界は、第9章から第11章までで構成される。まず、1990年12月に開始されたスマトラ北部出身の日系インドネシア人による渡日現象の全体像を示す(第9章)。次に、1990年代中葉に出現した日系インドネシア人のスマトラ北部と日本の各就労地域とを結ぶ親族や友人を基盤とした人的ネットワークについて論じ、それが彼らの日本への移動や日本での職探しなどをスムーズにさせてきたことを明示する(第10章)。最後に、愛知県小牧市とその周辺で就労している日系インドネシア人の基本情報及び彼らの社会的紐帯のあり方を報告する。また、同地域において2005年9月に日系インドネシア人及びインドネシア人技能実習生によって結成された自助組織の活動や性格を示す(第11章)。
(ウェブ公開に際して、一部表記を書籍から変更しています)