『記憶のなかの「碧南方言ことば」』付録 親近感診断テスト

※期間限定公開※

『記憶のなかの「碧南方言ことば」』(石川文也 著)刊行を記念し、愛知県三河方言のひとつである「碧南方言」への理解度をはかる「『碧南方言ことば』親近感診断テスト」(碧南言語歴史研究会)を公開中です。

「碧南方言」親近感診断テスト【問題】

「碧南方言」親近感診断テスト【解答用紙】

「碧南方言」親近感診断テスト【正解と解説】

『「私らしさ」の民族誌―現代エジプトの女性、格差、欲望』(鳥山純子 著)「はじめに」を公開します

『「私らしさ」の民族誌―現代エジプトの女性、格差、欲望』(鳥山純子 著)の刊行にあわせて、本書の「はじめに」を公開します。

 

 

 

 

はじめに

 

 

 

 

 

 

 本書は、3人のエジプト人女性と私、という4人の「こじらせ女子」の民族誌である。登場するのは優しい優等生でありながら口うるさいところのある20代未婚学校教員のシャイマ、大して仕事ができないのに美貌と依怙贔屓で生徒の人気者になろうとする、2人の子を持つ学校教員サラ、そして貫禄たっぷりに相手を威圧することに長けた60代のリハーム校長、そして私である。彼女たちは、2000年代初頭のカイロで国家、消費社会、さらには学問的枠組みにまで「私らしさ」を強制され、それぞれに夢見て、その実現に邁進していた。

 2007年9月から2008年3月までの秋学期、私たちはみなエジプトのカイロ郊外にある、自称アメリカンスクールの私立学校(本書では以下A校と記す)で教員として働いていた。本書で扱う出来事のほとんどは、A校における日常生活の一部である。登場する女性たちは三者三様(四者四様?)に「私らしさ」をこじらせていた。私たち4人は他人からみれば、それなりに恵まれ、それなりに充実した日々を過ごしていた。しかしまた自分たちの生活に対してどこか割り切れないものを抱えていた。それは、あえて声高に語る必要のあるような重大な問題ではなかったし、意識的に無視することができないものでもなかった。それでも、一度考え始めると、いつまでも話し続けられるようなものだった。

 本書の特徴は、自分の描く理想と現実とのずれに思い悩む、女性たちの「こじらせ」に着目することにある。彼女たちが自分らしさをこじらせていたのも無理はない。欧米中心主義的植民地構造の中でグローバル化が進行する00年代のカイロでは、格差の拡大、汚職、コネ至上主義がはびこっていた。その一方で、消費環境は豊かになり、誰もが消費主義的豊かさを求め、またそれが努力次第で手に入るような幻想を生きていた。人々は手に入れたいものと、実際に手に入れることができるものとの狭間に自分を見出すことを余儀なくされていた。本書では人々の欲望や希求を起点に、制約や限界と期待や希望の間で、なりたい自分になるべく日々生きる人々の独創性や柔軟性、そしてエネルギーに目を向ける。

 私にとって本書で行うことは大きく二つに分けられる。まず一つ目は、2007年8月から2008年2月にかけて、同じ場と時間を過ごした女性たちについて整理し、彼女たちが提示した「私らしさ」に従って彼女たちについての理解を深めることである。「私らしさ」は「誰でもない唯一無二の私」に関わる表現ではあるが、社会的に作られたものでもある。それは自分を定義し、自己の尊厳を主張する拠り所であると同時に、自己を制約するものでもある。「私らしさ」に則してA校で働く彼女たちを描写し、彼女たちと共に時間を過ごした私の姿を振り返ることで、21世紀になって間もないカイロ近郊に生きた、3人の女性たちについて考えてみたい。

 二つ目に試みたいのは、人々の包括的な生の描き方、すなわち民族誌の「書き方」に関わる取り組みである。実際のところを言えば、調査とはいえ当時は、突然成り行きで教員になることになり、私は日々の業務をこなすだけで精一杯だった。本書で描く3人の女性学校教員は、私にとっては同僚や上司であり、A校で児童・生徒やその保護者たちに対して共に戦う同志だった。彼女たちとは、日々共に働く中で、協力することもあれば、衝突することもあった。彼女たちの言動には、当時の私にとって不可解なものも数知れず、疑問に思ったものもあれば、その時は気にも留めなかったものもある。特に彼女たちの悩みには、私には取るに足らないと思えるものや、誤った認識に基づくように思えたものが多かった。彼女たちが何かを語る時には精一杯聞いているフリをしたが、今振り返ってみれば、自分がそれらにきちんと向き合えていたとは言い難い。日本に戻り、彼女たちの言動について議論を組み立てようとしたものの、驚くほど私には彼女たちのことが理解できていなかった。そうした理解不可能性を含みつつ、私が調査地で出会った人々を包括的に描くには、どのような方法があるのだろうか。

 こうした問いを念頭に、本書では、当時理解できなかった言動を、今更無理に解釈しようとすることは止めることにした。わからなかったことはわからないなりに、自分の思い込みはそのままに、まずは文章として書き記してみることにした。当時彼女たちの話を十分に理解する努力ができなかった自分への反省もこめて、せめて彼女たちの言動を都合の良い枠組みでまとめることは避けたいと思う。

 もしあの瞬間に時間を戻して、彼女たちの話を真摯に聞き、わからないことは粘り強く質問を重ね、一緒に悩むことができるなら、それに越したことはないかもしれない。ただ、それができない代わりに、今持てる私の精一杯の誠意として、彼女たちの多様な側面をできるかぎり描き出すことにする。正直なところ、今に至るまで私にはよくわからないことは多々あるが、それらをそぎ落とさずそのままに記すことで、私の理解の限界を示すと同時に、今後より優れた解釈が出てくることを期待したい。

 

 

 

(ウェブ公開に際して、一部表記を書籍から変更しています)

 

仁平ふくみ『もうひとつの風景 フアン・ルルフォの創作と技法』「はじめに」を公開します

『もうひとつの風景 フアン・ルルフォの創作と技法』(仁平ふくみ 著)の刊行にあわせて、本書の「はじめに」を公開します。

はじめに

 

ある風景 あるいは新しいメキシコの風景を作り上げること
『フアン・ルルフォの創作ノート』

 

 

 

メキシコで生まれ没した作家フアン・ルルフォ(Juan Rulfo, 1917-1986)が創作のためにノートに綴ったメモからは、それまで人々に意識されていなかった風景、あるいは誰も経験したことがない風景描写を、自らのことばによって立ち上がらせようという野心をうかがうことができる。

ルルフォは自身の代表作『ペドロ・パラモ』について「この小説の中心人物は村です。多くの批評家は、それがペドロ・パラモだと思っているようですが、実際のところそれは村です」と述べている[Sommers 1974a: 19]。場所、その時間の経過による変化、そこで営まれる人々の暮らしが、彼の興味の対象であった。ルルフォはこの小説において、実際に存在している土地をモデルにしつつコマラという架空の村を創造した。そして「この村は死んでいて、登場人物でもあります。雰囲気、光、壁、聞こえる声、そのようなものがこの人物を形成しているのです」と語っている [Anónimo 1983: 1]。ルルフォの創作態度の根底には、場所や風景を描くことは、それと呼応した人々の暮らしや思いを提示することとつながっているという考えがありそうだ。

ルルフォは特に短篇集『燃える平原』(El Llano en llamas, 1953)と中篇小説『ペドロ・パラモ』(Pedro Páramo, 1955)によって文学史上に名を残した作家である。ルルフォの作品は、当時は文学的題材として注目されていなかったメキシコのさびれた村を舞台としたこと、登場人物たちの声が聞こえてくるかのような台詞、死者の語り、断片で構成される小説の形式などによって、のちのメキシコやラテンアメリカ文学の趨勢に大きな影響を与えた。

ルルフォが描いた作品の多くは、彼が生まれ、幼少期を過ごしたハリスコ州南部をモデルとしている。彼が作品を発表した一九五〇年代当時、国家の歴史や文化の形成に重要とはみなされていない、ある特定の地域を描くことは珍しく、かなりのインパクトがあった。

日本の五倍以上の面積を持つ広大なメキシコは、アメリカ合衆国との国境付近に広がる砂漠、首都メキシコシティのある中央高原、カリブ海岸や太平洋岸、密林が広がるユカタン半島など、多様な地理的環境を有する。また、スペイン人の到来以前からいくつもの先住民文化が花ひらいた国でもある。アステカの首都でもあったメキシコシティは植民地時代は副王領ヌエバ・エスパーニャの中心であり、人や文化の往来が盛んな場であった。十九世紀以降はヨーロッパ諸国ともさまざまな形で関わりながら、多くの亡命者も受け入れたコスモポリスであった。ハリスコ州はメキシコの中西部に位置し太平洋にも面しており、現在ではメキシコ第二の都市グアダラハラがある。とはいえ、ルルフォが描いたようなハリスコの地方の田舎町が、文学作品のモデルとして大きな注目を集めることは少なかった。ルルフォは、生まれ育った地域をこう説明している。

 

それは荒野です。あそこにはかつて肥沃で生産力があった土地が何ヘクタールにもわたって続いています。いまでは完全に失われてしまいましたが。存在していた村々は、住民たちが暮らしていけないので放棄されてしまいました。[Anónimo 1983: 1

 

荒廃した土地とその地の過去の豊かな緑が重なり合うこのイメージは、『ペドロ・パラモ』の基底音となっている。幼少期を過ごし、しかしそのあと暮らすことのなかった地への意識がルルフォの創作に決定的な影響を与えた。ルルフォは自分の幼少期のすべての時間が『ペドロ・パラモ』と関係していると語る。

 

幼少期は、人間の中に最も残るものだと思います。私には自分がいた村々の思い出がありますが、はっきりしたものではないのです。それらの場所にはほとんど行かなかったし、ただ表面的にしか知らなかったのです。[Anónimo 1983: 2

 

成人したのちルルフォはメキシコ史の資料や年代記を読み、ハリスコの歴史についても知識をたくわえてゆく。子どもとして経験し感じたものの背景を知り、また関わりのある歴史的出来事や騒乱を客観的に位置づけようとしたのだろうか。この経験と記憶、そしてのちに得た知識とに裏打ちされた思考によって生まれたのがルルフォの作品であると言えよう。

実際の場所や出来事をモデルとしていても、作中で語られる土地の情景は、単なる記録にとどまらない相貌を見せる。この矛盾しているようにも思われる創作の方法について、ルルフォ自身は迷いながらもこう説明している。

 

どうするとはっきりするでしょうか……。現実はそこにあって、私はそれを知っている。それについての知識も持っている。でも、現実について書くときには、私はそれを想像してみなくてはならないのです。想像しながら、もういちど練り直すのです。ですから多くの場合、私が書くのは想像したものを通してであって、現実とはまったく似ていないものになるのです。[Anónimo 1983: 1

 

表立って作品にはあらわれていないとしても、土地の歴史への彼の認識は創作に反映されている。ルルフォは作品の中に自身の記憶や想像の中に存在する風景を構築しようとし、さらにその中に、その地に積み重ねられた過去の歴史的文脈も透かしてみせた。彼の作品はどこかに実在する場所の忠実な記録ではなく、多層な声や過去への回想、会話が織りなす独自の創作であり、それでいながらかつてあった実在の場所の雰囲気を伝えるものである。

ここで、ルルフォの幼少期が苛酷なものであったことにも触れておく必要があるだろう。幼少期の記憶の風景の中にある「死」や「暴力」といったものが作品に否応なく入りこんでくるからである。ルルフォは実際に起きた出来事―そこには彼自身の父親の殺害も含まれている―を書きかえる形で、場所が経てきた過去の記録を行っている。インタビューでルルフォはこのように語っている。

 

私はとても苦しい、とても厳しい少年時代を過ごしました。完全に破壊された場所で、あるひとつの家族が、いともたやすく崩壊したのです。私の父、母に始まり、父のすべての兄弟さえも殺されたのです。そのとき私は荒廃した地域に住んでいました。人間的な荒廃というだけではなく、地理的にも荒れていました。こんにちまで、これらすべての理由が何なのか説明できていません。革命のせいにはできません。それよりもっと古からの、運命的な、不合理なものなのです。[Sommers 1974a: 20

 

実はこのルルフォの発言には事実とは異なる点も混じっているのだが、それはここではおいておくとして、注目したいのは、説明の際に、ルルフォが場所と一族の運命を関連させて考えているということである。この逃れられない宿命のような一族の崩壊と荒廃した風景とを交わらせるといった、人間と場所を重ねる感性の表出は、多くのルルフォ作品に見てとることができる。また、のちに論じていくように、ルルフォは作家というものは自分が知る地域を表現していると考えていた。ルルフォが誰も書いたことがない風景を創出しようとしたとき、その風景とはそこに住む人々や彼の記憶を通じてのものである。ルルフォの作品には実在するメキシコの具体的な地名や、モデルが推測できる場所が多く使用されている。

また、留意しておきたいのは、ルルフォは物理的にも精神的にも安住の地を持たない人々を描いたことである。作品に登場するのは一つの土地に古くから根づく伝統的な綿々と続く生ではなく、ある地にたどり着き、また去ってゆく、あるいはいつかは去ってゆくであろう人々、移動する人間の姿である。それと同時に、逆説的ではあるが、この人々が置かれた状況は一過性のものではなく、さまざまな歴史の局面で現れてくる人々の祖型のような普遍性をも帯びる。ここにルルフォ作品がそののちの時代にも、また別の場所でもアクチュアルなものとして読まれる理由があるだろう。ルルフォが書いた場所は、人々の移ろいも刻印しておくものであったと言える。彼は、一見するとなにもなく、目印や名称によって喚起されるものが多くはない乾いた自然やさびれた村に、幾層にも積み重なった過去を見、またそれをことばで表現した。

本書の興味の対象は、ルルフォ作品における場所とその場所が経てきた歴史、またその語り方である。それはこの作家の年代記をはじめとした記録というものへの憧れ、作品における話しことばと書きことばのもつれた関係を考えずに論じることは難しい。

ルルフォはそれまでのメキシコ文学において描写されてこなかった農民、革命に参加した一兵士、寒村に暮らす人々の声を拾いあげたとされる。彼の作品の多くでモノローグや一人称の語りが用いられ、さらにそれらの多くは誰のためでもない語り、あるいは表現せずにはいられない自分のための語りなのである。この作家は人々の声に耳を傾け、かつそれを自分で語り直し記述された文字として残すことに、特別な感性を持っていた。それらは田舎の人々の話し方のスタイルをそのまま忠実に書き取っただけのものではなく、文学的な工夫を凝らしたものであった。彼の文学作品は現実から出発し、実在する場所や実際に起きた出来事をふまえながらも独自の世界を創り上げた。本書はわずかにでもこの過程を明らかにしようとする試みである。ルルフォの短篇や小説をはじめとした創作、それ以外のテクストや同時代の文壇の状況や他の作家の作品や歴史記録も参照しながら、ルルフォが時間や登場人物までもを含みこんだ風景を立ち上げようとした手法の特徴を分析してゆきたい。

本書は大きく四部に分かれる。それぞれのキーワードは「権力」、「場所の表象」、「実際に起きた出来事のフィクション化」、「語りの技法」である。それぞれで、彼が風景や場所から立ち上がり層を成す繰り返される出来事や暴力の過去を、一つの物語、一つの描写に凝縮して託そうとした技法とその成熟や工夫を扱う。ルルフォが持っていたのは過去を幻視する能力、場所の過去を想起し文学として再創造する能力であったことをさまざまな側面から検証する。

 

参考文献

ANÓNIMO.“Revela Rulfo el proceso de creación de sus personajes”, Excélsior, 14 de agosto, 1983, 1-2. (初出 El Ornitorrinco, Bs. As.)

SOMMERS, JOSEPH.  “Los muertos no tienen tiempo ni espacio (un diálogo con Juan Rulfo)”, en La narrativa de Juan Rulfo. Interpretaciones críticas. Joseph Sommers (antología, introd. y notas), Secretaría de Educación Pública, 1974a, pp. 17-22. (初出La Cultura en México, suplemento de ¡Siempre!, núm. 1051, 1973.)

 

(ウェブ公開に際して、一部表記を書籍から変更しています)

 

『日系インドネシア人のエスノグラフィ』まえがき

『日系インドネシア人のエスノグラフィ―紡がれる日系人意識』(伊藤雅俊 著)の刊行にあわせて、本書の「まえがき」を公開します。

 

 

 

 

 

 

ヒロコ:ニセイの顔は日本人のよう、サンセイはインドネシア人のようね。でもヨンセイになるとまた日本人の顔に戻るみたい。
ワユニ:不思議よね。
ヒロコ:えー、不思議よね。
ワユニ:遺伝子がそうさせるのかしら。
ヒロコ:きっと、そうね。

(2010年6月16日)

 

 本書で言う日系インドネシア人とは、太平洋戦争時にインドネシア各地に派兵され、終戦後に何らかの理由や自らの意思によって帰国せず、インドネシア独立に関与し、さらに同国独立後に帰国を選択しなかった残留日本兵(日系一世)及びその子孫(日系二世以降)のことである。

 日系インドネシア人は一世の時代から、広大な島嶼国家インドネシアの中でもスマトラ島とジャワ島の二島に集中している。本書の主要な舞台となるのはスマトラ島北スマトラ州の州都メダンであるが、スマトラ島最北端に位置するアチェ州や日本で就労する日系人に関する記述もある。

 日系インドネシア人一世はインドネシア人女性と結婚し、現地文化・社会に生きたため、二世以降の日系インドネシア人は日本文化または日系文化と呼べるような文化・慣習をほとんど維持していない。というよりかはむしろ、日系一世から二世へほとんど継承されてこなかった。加えて、この残留日本兵を先祖とする日系二世から四世までの総数はインドネシアの総人口およそ2億7000万人の0.01%にあたる2万7000人にも達しないだけでなく、日系人は同国において一つの民族集団として扱われていないため、その人数は人口統計にも表れない。同国において文化的・社会的・歴史的にあまり認知されていない人々であると言えよう。

 それでも、日系インドネシア人は現に存在している。ある日系二世は、父親の写真を筆者に見せてくれ「(軍服の首元につけられたバッジを指さして)これがインドネシア国軍のバッジです」と誇らしげな表情をする。ある日系二世は、深夜遅くまでサッカーワールドカップの日本代表チームを応援し、日本が敗戦を喫した際にはテレビの前で悔し涙を流す。また、ある日系二世は東日本大震災の翌朝から、瞼を腫らせたまま仲間の家々を回り募金活動に奔走する。ある日系三世はモーターバイクの車体の右側にインドネシア国旗、左側に日本国旗のステッカーを貼りつけている。日系インドネシア人は皆で集まると必ずと言ってよいほど、日系一世が存命だった頃の思い出話や日本の時事問題等の話をする。

 冒頭の会話はワユニ宅に数組の日系人家族が集まった際の、日系二世女性二人の何気ない談話の一部である。この日はちょうどヒロコが生まれて間もない孫・日系四世を連れてきていた。なぜこのようなことを行ったり話したりするのだろうか。理由は単純である。日系インドネシア人であるからだ。

 それでは、日系インドネシア人は、何をもって「私(私たち)は日系インドネシア人である」と自らを同定しているのだろうか。つまり、彼らの日系人意識(エスニシティあるいはエスニック・アイデンティティと言い表せるもの)の根底にあるものは何なのであろうか。彼らはそれをどのようにして維持したり、強化したりしてきたのだろうか。本書では、北スマトラ州出身の日系インドネシア人を研究対象として上述の問いを複眼的視点から考究する。

 

本書の構成

 本書は序章、本論第1章から第11章、終章で構成される。そして本論は三部構成となっている。

 第1部 日系インドネシア人一世とオラン・ジュパンでは、まずスマトラ島における日系一世の概数、結婚、宗教、職業などについて詳述し、日系人の集住地域や多民族性といった諸特徴を把握する(第1章)。次に、日系人の扶助組織である福祉友の会メダン支部が設立される1979年以前に、日系一世がスマトラ島各地で結成した小規模な日本人会や、日系一世個々人間で培ってきた強固なつながりを母体として、その延長線上に日系二世の交友関係が成り立っていたことを明らかにする(第2章)。続いて、北スマトラ州に生きた日系インドネシア人一世がどのようにしてオラン・ジュパン(日系一世らは周りのインドネシア人からインドネシア語で日本人を意味するオラン・ジュパンと呼ばれていた)と見なされるようになったのか、その経緯を他の民族集団からのジュパンという範疇化に焦点をあてて考察する(第3章)。

 第2部より記述の対象が日系インドネシア人二世・三世となる。第2部 日系インドネシア人二・三世の日系人意識は、第4章から第8章までで構成される。第4章では、北スマトラ州で実施したフィールドワークより得られた、日系インドネシア人二・三世計120人の基本情報(職業、出生地、居住地など)に、聞き取り調査や文献資料の情報を加えて、日系人及び日系コミュニティを量的な側面から把握し、諸特色を示す。第5章では、フィールドワークで収集した情報と福祉友の会発行の『月報』及び『会報』を基に、当該地域に居住する日系インドネシア人を統括する福祉友の会メダン支部の役割を探る。

 福祉友の会メダン支部が設立されたのは1979年、日系人の渡日就労が開始されたのは1990年のことであった。第6章では、この二つの出来事がスマトラ北部における日系インドネシア人同士に出会いの場所を提供し、彼らの交友関係を形成・拡大させてきたことを明らかにする。第7章では、日系インドネシア人のインドネシアにおける日本軍政期の歴史的評価と日系二世の日本との交流のあり方を紹介し、日系人意識や日系人らしさを探る。第8章では、オラン・ジュパン、日系インドネシア人一世と生活をしていた日系二・三世は家庭内でどのような日本文化に触れていたのか具述する。また、オラン・ジュパンはどのような日本的影響を日系二・三世に及ぼしたのかを示す。

 第3部よりフィールドがインドネシアから日本へ移る。第3部 日系インドネシア人の渡日就労と日本での生活世界は、第9章から第11章までで構成される。まず、1990年12月に開始されたスマトラ北部出身の日系インドネシア人による渡日現象の全体像を示す(第9章)。次に、1990年代中葉に出現した日系インドネシア人のスマトラ北部と日本の各就労地域とを結ぶ親族や友人を基盤とした人的ネットワークについて論じ、それが彼らの日本への移動や日本での職探しなどをスムーズにさせてきたことを明示する(第10章)。最後に、愛知県小牧市とその周辺で就労している日系インドネシア人の基本情報及び彼らの社会的紐帯のあり方を報告する。また、同地域において2005年9月に日系インドネシア人及びインドネシア人技能実習生によって結成された自助組織の活動や性格を示す(第11章)。

 

(ウェブ公開に際して、一部表記を書籍から変更しています)

【特別寄稿】ルイーズ・グリュックの詩をどう読むか――『アヴェルノ』翻訳を終えて(訳者:江田孝臣)

2020年にノーベル文学賞を受賞したアメリカの女性詩人 ルイーズ・グリュック。このたびその第10詩集『アヴェルノ』(春風社、2022年)が刊行されたことに合わせ、訳者で現代アメリカ詩研究者である江田孝臣氏に解題を寄稿していただきました。以下にその全文を掲載します。

『アヴェルノ』
ルイーズ・グリュック(著)/江田孝臣(訳)

本書はLouise Glück, Averno (New York: Farrar, Straus and Giroux, 2006)の全訳。
底本には2007年出版のペーパーバック版を用いた。

 

 

ノーベル文学賞受賞

 ルイーズ・グリュック(Louise Glück)が2020年のノーベル文学賞を受賞したことは、アメリカでも驚きをもって受けとめられたが、その時点までにピュリッツァー賞、ボーリンゲン賞、全米図書賞など、国内の主要な文学賞を総なめにしていた。1994年から1998年までヴァーモント州のステイト・ポエット(州代表詩人)を、また2003年から2004年まで第十二代合衆国桂冠詩人(名誉職)を務めた。大学は卒業していないが、無名時代から各地の大学で創作を教えている。詩人としては寡作な方であるが、その詩業に対してこれまでにいくつもの大学から名誉博士号が贈られている。1971年から長くヴァーモント州に住んでいたが、現在はマサチューセッツ州ケンブリッジの在住。二回の離婚歴がある白人中産階級の異性愛者。息子が一人いる(ノア)。

 

祖父、両親

 グリュックは、1943年4月22日、ニューヨーク市に生まれ、郊外のロングアイランド(ウッドミア Woodmere)で育った。祖父はハンガリー系ユダヤ人の食料品店経営者だった。この祖父については、店の土地がロックフェラー家の買収対象になったとき、対価をつり上げることなく適正価格で売ったという逸話が家に伝わっている。両親とも文学好きで、父は一時作家を志望したが、結局ビジネスの世界に入った。日本製の医療用メスを改良して、オフィス・家庭用の精密カッター(X-acto knife)を開発し、成功を収めた。両親は一時期、仕事のため日本に滞在したこともある。グリュックには妹(テレーズ Tereze)がいるが、すぐ上には生後九日で死んだ姉がいる。グリュック作品中では、しばしば彼女自身の魂の声と重ねられる重要な存在である。

 グリュックの母は、猛勉強の末に、アメリカ屈指の名門女子大学ウェルズリー・カレッジ(マサチューセッツ州)に入学したが、卒業すると、この時代の中産階級の女性の常として、迷いもなく結婚し家庭に入り、料理が得意な主婦となった。仕事を持つことはまったく考えなかったが、精力あふれる女性だった。当然ながらというべきか、母親としてきわめて教育熱心で、娘に常に高い目標を与えた。学校のテストで98点取っても、「どうして100点取らないの」と言うたぐいの母親だった。おかげでネガティブなものの見方が身についた。たとえば、今でも朗読会の壇上に立つと、埋まっている席より、空席の方に目が行ってしまうという。したがって、謙遜からではなく、ファンが多いとか評価が高いという実感はないらしい。人から、詩人としての「あなたの世評は高い」などと言われると、なんだか自分が「万人に分かるように希釈した詩」を書いているようで、厭になるという。この発言には彼女の反骨精神の一端がのぞいている。

 七歳の時、家族でパリにひと夏滞在した。親愛の姉の自殺が原因で、抑鬱に苦しむ父親の転地療養が目的だった。グリュックと妹は修道院付属の学校に通わされた。担当の修道女は、両親との約束に反して、ユダヤ人姉妹をキリスト教に改宗させようとしたが、四歳の妹はともかく、グリュックはキリスト像の前で首を垂れることを拒んだ。

 

愛読した詩人たち

 きわめて早熟で、父親の影響下に幼い頃からシェイクスピア、イギリス・ロマン派、ギリシア神話に親しんだ。二十世紀の詩人ではT・S・エリオット、W・B・イェイツ、エズラ・パウンド、そしてリルケを愛読した。イギリス・ロマン派ではとりわけウィリアム・ブレイク(William Blake)を好んだらしく、いま生きているどんな人に褒められるよりも、ブレイクが天国から降りて来て、「ルイーズ、よくやったね」(“Louise, you did a very good job.”)と言われたい、と語っている。この発言は、ブレイクの難解きわまる幻想叙事詩『ミルトン』(Milton, 1810)のなかで、天国から地上に戻って来たジョン・ミルトン(叙事詩『失楽園』[The Paradise Lost, 1667]の作者)とブレイクが交わす対話を踏まえていると思われるが、ブレイクを愛読しているというのは、グリュックという詩人を理解する上で、重要なヒントになり得るように思われる。どちらも独自の神話を創造する詩人である。

ウィリアム・ブレイクによる『失楽園』の挿絵
(Illustration to Milton’s Paradise Lost, William Blake, 1807)

 

詩人としての姿勢

 アメリカでは「ポエット poet」を自称する人が少なくないが、あるインタビューによればグリュックは「ライター writer」(もの書き)という呼称を好むという。「ポエット」は到達すべき目標であって職業名ではないという。また別のところでは、詩を書いているときはポエットだが、出来上がってしまえばもうポエットではない、とも言っている。

 グリュックは詩を音読することも、人から読み聴かされるのも好まない。従って自作の朗読会にも積極的ではない。当然、自作の解説も好まない。朗読もけっして上手くない。公開の朗読会で聴いてもらうのではなく、一人静かに読んでほしいという。読者が、いかに繊細に、いかに深く自分の詩に反応してくれるかが重要であって、朗読会の聴衆を増やそうなどという考えは馬鹿げている、とも言っている。古風で詩人らしい詩人であるが、一方で、時代の風潮に敢えて背を向ける反骨が、ここにも感じられる。

 また、過去の自作を読み返すこともしない(これは、ひとつには過去に書いた詩を一言一句記憶しているためでもある)。詩風は一作ごとに大きく異なる。同じことを繰り返すくらいなら、沈黙し続ける方がましだ、と公言している。つねに新しい詩を求めて試行錯誤を繰り返している。出版社の要望に応えて、毎年詩集を出すような詩人ではない。

 あるインタビューで、詩作の過程について具体的に語っている。短い場合には、一冊の詩集をひと夏で書き上げたこともある。創作意欲が亢進し集中力が高まると、詩句が頭に浮かぶたびに時間と場所を選ばず書き留める。そのために睡眠や生活のリズムが狂い、書き上げた後に、ひどい疲労感を伴う心身症に苦しめられることもあるという。一作完成させてしまうと、しばらくは何も書かない時期もある。グリュック自身、これを「自発的沈黙」と呼び肯定的に捉えている。しかし、書きたくてもまったく書けずに苦しむこともめずらしくないらしい。

女は文化なのか? 自然なのか?――語りからさぐる人類社会の多様性と普遍性(後半)

前半に引き続き、ボニー・ヒューレット著『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』(原題Listen, Here Is a Story)の訳書刊行を記念して訳者3人にお話をうかがいました。

 

本書の特色について教えて下さい。

 最大の特色は、「森」の女性たちによる語りです。女性たちは、子ども期から老齢期まで、さまざまなプライベートな話をじつに詳細に語っています。たとえば性生活についてもこんなふうに。

 

とくに最初,赤ちゃんに成長をもたらすのは男なんだ.だから赤ちゃんがかなり大きくなる6か月くらいまでは毎晩2回セックスを続ける必要がある.それから後は,一晩に1回にペースダウンしないといけない.(本書、p.202)

 

 このような率直で赤裸々な語りは、著者自身がまず女性たちのほうから投げかけられるプライベートな質問に臆することなく答え、信頼関係を築いてきたからこそ可能になったものでしょう。また、著者は人類学の研究を始める前に看護師として出産と育児のサポートをしていたので、プライベートな質問をすることに対する躊躇や照れなどが少なかったのかもしれません。いずれにせよ、著者の経歴や人柄のたまものです。聞き取りの手法や研究対象との関わり方について、訳しながら学ぶことがたくさんありました。

 私たちもカメルーン東南部で現地調査をしてきましたが、性に関する質問を詳細に聞き込むことは難しいです。調査者が男性の場合には女性に性に関わる話を聞くことは気が引けますし、同性でもプライベートな話題は勇気がいります。著者のように自分のこともさらけ出さないといけないからです。

 

戸田  私は、「生理のときどうしているの?」と聞かれてはぐらかしてしまったことがあります。手持ちの生理ナプキンが残りわずかだったので、ナプキンを使っていることを話したらちょうだいと言われるかなと思って。

 

各章の「フィールドノートから」などには、調査をする人類学者の率直な感想がつづられています。共感するところはありましたか?

 「はじめに」の、「カブトムシの幼虫のような大きなイモムシ」(本書、p.26)を著者が 無理やり飲み込むところは、訳者一同非常に共感しながら読みました。著者も述べているように、人類学者は研究対象と信頼関係を築き、これを土台として調査を進めていきます。相手の文化を尊重し受け入れるのは、人類学者として非常に重要な倫理ですし、友人として受け入れられ一緒に生活していくために必要なことでもあります。

 ただ、人類学者自身もこれまで自文化のなかで学習してきているために、どうしても食べられないものもあります。ストレスをため込んで心身に不調が出ると困るので、学生には、どうしても無理な場合は断っていいと言っています。

 

ケムシはしっかりと毛を焼いてから調理する。

ケムシはしっかりと毛を焼いてから調理する。(撮影:戸田美佳子)

 

訳者の皆さんは、調査中どうしても食べられなかったものはありますか?

服部 私の場合、食べなかったものはありません。イモムシもヘビもカメも出されるものはすべて食べました。ただ、イモムシを初めて食べるときはやっぱり苦労しました。

 著者が無理やり飲み込んだものと同じだと思われる、油ヤシにつくゾウムシの幼虫を茹でたものを食べたときのことは忘れられません。平静を装い口の中に入れ、勇気を出して噛んだときに、幼虫の頭部が歯に挟まりました。なんとか手で歯から取り出したものの、今度はそれが飲み込めなくて……。今から思うと、著者のように一気に飲み込んだらよかったのかもしれません。味はかなり美味しかったです。ただ文化の壁というのはなかなか越えがたいもので、フィールドで出されたら食べますが、自分から積極的に食べようという気持ちにはまだなれません。

 

大石 私が咀嚼しにくかったのは、ゴリラの肉でした。狩猟ではありません。ゴリラは絶滅危惧種で狩猟は禁じられており、タブーのために食べない人も多い動物です。しかしあるとき、森でキャンプに滞在していたら、ひょんなこと(川から溺れて死んだ新鮮なゴリラが流れてきた)でゴリラの肉が手に入ったので解体から見ていました。

 まず体毛を焚火で焦がして除いていましたが、その焦げる匂いが自分自身の髪の毛が燃えるのと同じように感じられました。鍋で肉を煮ている間も、他の動物の肉はだいたい「いい匂いだな」って思うのですが、そのとき鍋の中で脂肪が溶ける匂いはそう思えませんでした。さあ食べるぞと言われて、無理やり口に入れようとしましたけど、ほとんど喉を通らなかったことを記憶しています。

 

戸田 私は、毛をしっかり炒めて調理するケムシも味があって美味しかったです。しかし、どうしても食べなかったものがあります。

 農耕民の家に一緒に暮らしていたころ、ネコが一匹いました。毎日残りのおかずを与えて、子どもたちも私もすごく可愛がっていました(多分)。ネコは私たちの役にも立ちます。家の中に食事があるとネズミがやって来て、そのネズミを餌に次にヘビがやって来てしまいとても危険ですが、そのネズミをやっつけてくれるのです。私は寝ている間にネズミに足の指を噛まれたこともあり、ネズミが怖かったので、ネコはヒーローでした。でもあるとき、ストックの獣肉をそのネコが食べてしまうことが続きました。そしたらネコがいなくなって……シチューの具になっていたときは言葉を失いました。

 

アフリカの森のネコ。

アフリカの森のネコ。イヌに比べて数は少なく、名前も付けられていないことが多い。(撮影:大石高典)

 

 この本には、たくさんの森の食物が出てきます。編集担当の櫛谷さんはアフリカ未経験だったと思いますが、編集されるなかで本書に出てくる動植物で食べてみたくなったものはありますか?

 

印象的だったのは、アカの女性が語るゾウ狩りです。ハンター総出で行う危険な狩りの前夜には祭りのような盛大な儀礼があり、捕まえたゾウはごちそうとして、みんなで2週間かけて食べていく。日本で行われていたクジラ漁にも似ています。ゾウの皮は固そうですが、肉は美味しいんでしょうか。

服部 美味しいですよ。私は生肉は食べたことがありませんが、燻製されたものを何度も食べたことがあります。これをキャッサバの葉やヤシ油といっしょに煮込んだものを食べました。自分でも、玉ねぎといっしょに煮てスープを作ったことがあります。

 

大石 私もおすそ分けでいただいたことがありますが、とにかく量が多い。おしりの肉の燻製だったと思いますが、とても良いだしがとれてうどんにしたことがあります。鼻はチューインガムのようで噛んでも噛んでもかみ切れない感じでした。

 

各章末には「考察のための問い」のコーナーがあります。このコーナーはどう使ったらいいのでしょうか?

 一般的な学術書では章の終わりに著者によってまとめと考察が述べられますが、解説者の竹ノ下博士が指摘されているように、「著者は,読者にアカやンガンドゥのことを『教えない』」(本書、p.403)という実験的なスタイルをとっています。本書で著者は、さまざまな理論を用いて考察を行っていますが、アカやンガンドゥの女性たちの語りをまとめることも、これをもとに彼女たちの社会の特性や人類社会の普遍性を総括して論じることもしていません。本書で行われていないまとめや考察は読者に委ねられており、「考察のための問い」はそのための導入となっています。

 読者のなかには、一般的ではない本書のスタイルに戸惑われる方や、手抜きだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、訳者は著者の勇気のある試みをポジティブに評価しています。「アフリカの森の女たち」のステレオタイプ化を危惧する著者があえてまとめを避け、自由に考え感じる窓口を読者に開くやり方は、異文化理解に関して有効な一つの方法に思えるからです。

 著者は、とくにアカ社会で重視されている自律性の尊重や「シェアリング」の信念を、読者にまで広げているのかもしれません。「考察のための問い」を皮切りにして、読者の皆さんは日本社会に暮らす自身の経験や価値観と比較し、人類社会の特殊性や普遍性について探求していただければと思います。

 

翻訳の際の工夫や苦労を教えて下さい。

 訳者三人は全員、中央アフリカ共和国での調査経験はありませんが、近隣のカメルーンやコンゴ共和国において長期間にわたる調査経験があります。これらを存分に生かす形で日本語版を手がけました。

 まず克服しないといけないと思ったのが、本書の特徴のひとつでもある理論の難しさです。文化人類学に加えて発達心理学や進化生物学、進化心理学から理論が紹介され、訳書のサブタイトルにもあるように「文化・進化・発達」の面から女性たちの語りを補足しています。これらの理論については文献を調べながら用語解説を付け、読みやすくなるように工夫をしました。

 たとえば第6章には「祖母仮説」という進化生物学の仮説が登場します。ヒトの女性には閉経があり、直接は生殖活動を行わない閉経後の人生が数十年に及びます。これはチンパンジーなどの類人猿をはじめ、ほかの動物には見られない特性です。この仮説は、なぜ人類が進化の過程で閉経後の長い人生を獲得してきたのかを、祖母の役割から考えようとするものです。

 理論の記述は女性たちの語りに比べて難しいかもしれませんが、私たち人間のあり方について新しい視点をもたらしてくれるはずです。ぜひ、用語解説を読んでいただき、本書の理解を進めていってもらえたらと思います。

 

解説やコラムなど、原著にない要素もいろいろと付いていますね。

 中部アフリカや南部アフリカでフィールドワークを行っている研究仲間に、各章末のコラムと全体の解説をお願いしました。コラムは、アフリカ農村での健康調査の実際や、洋服が「森」の世界に入ってきたときの人々の反応など、執筆者がそれぞれの研究テーマや経験から魅力的な文章を寄せてくださり、本書全体に広がりと深みが出たと思います。

 南部アフリカで狩猟採集民サンの研究をされている高田明博士と中部アフリカでゴリラとチンパンジーの研究をされている霊長類学者の竹ノ下祐二博士にお願いした解説(巻末に収載)は、最初に読んでいただければと思います。学問的刺激に満ちた羅針盤によって本書が読みやすくなり、理解がさらに増すはずです。

 さらに、大学の授業での教科書として使用することや、人類学や中部アフリカについてあまり知らない読者が読むことを念頭に置き、訳注を充実させました。訳注では日本の読者にとって耳慣れない言葉や熱帯雨林の動植物について説明しているほか、文献も紹介しているので、詳細について知りたい方はぜひ紐といてください。章ごとに日本語のおすすめ本も載せてありますので、そちらも参考にしていただけたらと思います。

 

訳者、編集者で合宿会議もおこなった。

難航する翻訳作業を打開するため、訳者、編集者で合宿会議もおこなった。(撮影:大石高典)

 

最後に、日本の読者に向けてのメッセージをお願いします。

服部 本書に登場する「アフリカの森の女たち」は、それぞれの人生における悲哀や怒り、そして喜びを堂々と素直に語っています。この迷いのなさが、彼女たちの語りと生き方に見られるまぎれもない魅力です。語り手と著者、そして語り手と読者の間には、1ミリの隔たりもありません。女性たちの生々しい語りに、驚き、笑い、戸惑い、反発し、共感し、読者の感情は揺さぶられるでしょう。その揺さぶりから、現代日本の社会に暮らす自分自身の生き方や価値観を相対化し、自分たちの生きている世界や人類について見つめなおしていただけたらこんなうれしいことはありません。

 また、理論の説明は翻訳のなかで最も難しい作業でしたが、炎のように燃える女性たちの肉声に対して、理論にはそれをしずめる水のような働きがあるように思います。理論は研究を方向づけ、問いと理解を深めるとともに、人類の普遍性という豊かな学問的テーマへ私たちをいざなってくれます。本書をきっかけに理論についても関心を持つ人が増えるとうれしいです。

 

朝の調査風景。

朝の調査風景。大学院時代、服部は調査村で毎朝、草ぶきの住居をすべてまわり挨拶と食事調査を行っていた。(撮影:木村大治)

 

大石 この本は、ジェンダーやセクシュアリティについて、肩ひじを張って論じられている本ではありません。ブロンディーヌ、テレーズ、ナリ、コンガという4人の女性のごく個人的な経験のほかに、日本に暮らしていては想像すらもできないようなたくさんの「お話」が彼女たちの語り口のままに入っています。

 翻訳する前に、勤務先の大学の授業で原著を学部生たちと読みましたが、毎回そんなお話の部分で盛り上がりました。「そんなことがあるの?」「これ、私は絶対無理!」といった違和感もあれば、「あー、これよくわかる」とか「よく言ってくれた」といった反応もありました。日本の日常生活では、たとえば生理やセックスのこと、妊娠と出産のことは大事なことだけれど、なかなか話しにくいものだと思います。男女間であればなおさら、特に男からはなかなか怖くて話題にしにくいかもしれません。しかし、テレーズやナリたちのお話を媒介にすると、あら不思議。思いがけないディスカッションや対話に発展することがたびたびでした。

 私たちもまた、ジェンダーや性に悩み喜ぶヒトであること。この本を読みながら、そのことについて考え、身近な仲間と語り合ってほしいと思います。そうすることで、アフリカのどこか遠くの国の森の奥に住んでいる4人の女性の生きる世界が、ぐっと身近に感じられることでしょう。

 

3人のオオイシ。

大石の調査地域には、3人のオオイシがいる。友人であり調査助手でもあるバカ・ピグミーの父親によって、同じ名前が付けられた子どもとの自撮りの1枚。

 

戸田 アフリカの密林に暮らす女性たちのエキゾチックな世界を知りたいと、本書を手に取ってくれる人が多いのかもしれません。イモムシを食べたり、邪術を信じたりする登場人物たちは、一見すると日本に暮らす私たちとは全く異なります。

 人類学者である著者は好奇心に素直な一方で、こうした物語がステレオタイプや偏見を生み出してしまうことに注意深くもあります。冒頭で著者は、ナイジェリア人小説家のチママンダ・アディーチェの言葉である「シングルストーリーの危険性」を用いて、一つ(一人)の物語が強調されることでステレオタイプが生み出されると言っています。そこで本書では複数の女性による誕生から死を迎えるまでの人生の断片が語りとして描き出されています。

 私自身、子ども期に登場するバナナの赤ちゃんのお話しは自分の小さかった頃の記憶が蘇り、思春期の戸惑いや死別の痛みに共感する一方で、夫への献身や辛い性生活の中で母として生きること、年老いるのは悪くないと語れる気持ちはまだわかりません。だからこそ本書を読んで、年を重ねることが楽しみになりました。本書で描かれるのは彼女/彼たちの日常ですが、そこには生とは? 死とは? 愛とは? そして人間性とは何かを考えるきっかけがあります。

 

出産直後の新生児を抱く戸田。

出産直後の新生児を抱く戸田。ベッドに横になっていた母親は翌日になると家事をしていた。(撮影:新生児の父親)

 

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『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』

ボニー・ヒューレット(著)/服部志帆、大石高典、戸田美佳子(訳)
好評発売中

本の紹介ページはこちら

女は文化なのか? 自然なのか?――語りからさぐる人類社会の多様性と普遍性(前半)

ボニー・ヒューレット著『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』(原題Listen, Here Is a Story)の訳書刊行を記念して、中部アフリカの「森」の社会とその生活、小規模社会の研究から見えてくるもの、本書の特徴や翻訳にあたっての苦労など、著者と同じく中部アフリカでフィールドワークをしている訳者3人にお話をうかがいました。

話し手: 服部志帆、大石高典、戸田美佳子(訳者・執筆者)
聞き手・構成: 櫛谷夏帆(編集担当)

バナー写真:ドローンで見たアフリカの森。(撮影:大石高典)

 

本書の日本語版タイトルは『アフリカの森の女たち』です。舞台となる「アフリカの森」はどのようなところでしょうか?

 アフリカ大陸の中央に広がるコンゴ盆地の北部に位置する、中央アフリカ共和国の熱帯雨林が舞台です。この森には、ゴリラやチンパンジー、ゾウなどの絶滅危惧種を含む多くの動物や8000種をこえるといわれる植物が生息しています。豊かな森の恵みに依存しながら、本書の主人公である狩猟採集民アカと農耕民ンガンドゥは暮らしています。

 

「狩猟採集民」と「農耕民」とはどのような人たちですか?

 「狩猟採集民」は、野生の動植物を直接採捕してそれを食料にしている人々のことです。約1万年前に農耕と牧畜が発明されるまでは、全人類(ホモ・サピエンス)が狩猟採集をして暮らしていました。一方、「農耕民」は定義的には農耕をなりわいとする人々を指しますが、本書のンガンドゥは焼畑農耕を基盤としながら狩猟採集、漁労、家畜飼養などを組み合わせた複合的ななりわいを営んでいます。

 中部アフリカの熱帯雨林というと、豊かな自然環境のもと変化の少ない社会で人々が暮らしているというイメージを持つ人もいるかもしれませんが、過去1世紀の間にアカやンガンドゥは次から次へと押し寄せる劇的な変化を経験しています。

 

過去1世紀というと、日本社会も戦争を経験して大きな変化がありましたね。「森」では何があったのでしょうか?

 中央アフリカ共和国はアフリカ大陸の多くの国や地域と同様に、ヨーロッパによる植民地支配を19世紀後半から受けました。1960年に独立した後もクーデターやクーデター未遂が続き、さらには隣国のチャド、スーダン、南スーダン、コンゴ民主共和国での内戦の影響を受けて政情不安が続いています。

 さらに近年では、伐採事業や環境保全により生態環境が変化したり、宣教師や人権団体などの外部社会が関与したりしています。「森」はこのような激動の歴史と現在を内包しているところでもあるのです。

 

 なお、本書の舞台であるナンベレ村の様子をビジュアルに体験してみたい方は、BBCのドキュメンタリー作品『A Caterpillar Moon』をウェブ上で見ることができます。この動画を監修したワシントン州立大学のバリー・ヒューレット博士は本書の著者ボニー・ヒューレットのパートナーでもあります。

熱帯雨林から切り出した原木を満載した伐採トラック。

熱帯雨林から切り出した原木を満載した伐採トラック。街道を行くと、日中だけで20~30台はこのようなトラックとすれ違う。(撮影:服部志帆)

 

アカとンガンドゥの社会はどのようなものですか? 日本社会との共通点はありますか?

 アカとンガンドゥは同じ地域・同じ生態系に暮らしていますが、社会のあり方や対人関係の築き方、育児、価値観など両者の文化は大きく異なっています。どちらかといえば、日本の社会には農耕民であるンガンドゥの社会と似ている点が多く見られます。

 たとえば、アカの社会は平等主義的で、リーダーはおらず、収穫物や道具類を分け合う「シェアリング」という価値観を大切にしています。それに対して、ンガンドゥの社会ではクランと呼ばれる出自集団どうしの政治的な連帯に価値が置かれており、アカのように物のシェアリングを行わず、代わりに返礼を伴う贈与関係が中心になります。また、父や夫を尊重すべきという、親族関係に基づく秩序を重視します。

 本書の第1章ではアカとンガンドゥの女性たちが子どものころに教わったことを語っています。アカの少女たちは森でのヤマノイモ採集や動物の狩りの仕方と同時に、シェアリングの大切さを学びます。食べ物を独り占めしたら「あの子はほんとにケチ!(本書、p.130)」と言われるそうです。一方、ンガンドゥの少女たちは周りの人を尊敬することの大切さを教わります。ある女性は幼いころに母親から、いつか結婚したら「夫によく尽くさないといけない(本書、p.118)」と言われたと語っています。

 ンガンドゥでは男性が女性に手を出すことが多く、しつけのために子どもを叩くこともあります。もしアカで子どもを不用意に叩いたら離婚沙汰になってしまいます。日本の社会は家父長制を基盤としてきた歴史があり、ジェンダー間の不平等や家庭内暴力についてもンガンドゥ社会のあり方に近いといえるでしょう。

 

バカ・ピグミーの分配の場面。

バカ・ピグミーの分配の場面。バカはアカと同じく狩猟採集民。(撮影:服部志帆)

 

アカやンガンドゥのような小規模社会について研究することで、どんなことが分かるのでしょうか?

 本書は、狩猟採集や農耕を基盤とする小規模社会に目を向けることによって、人間の普遍的な特性を描き出そうとしたものです。このような社会は、技術や資本(富)を集中化しない生産様式をもち、人口密度が低いまま現代に至り、政治や経済が先進国の社会のように複雑に階層化することもありませんでした。一見、日本などの先進国の社会とは非常に異なっているようですが、人類としての共通性も多く見られます。

 本書で挙げられている人間の普遍的な特性の一つに、生物学的な母親以外からなされる子どもへのケア、すなわち「アロマターナル・ケア」や「共同育児」があります。

 アカやンガンドゥの赤ちゃんは母親以外に祖母や兄弟姉妹たちからも手厚く世話をされて育ちます。また、特にアカの社会では、男性が育児を積極的に行い、子どもたちを狩りにも連れて行って、長い時間を一緒に過ごします。

 このような育児はそもそも人類に普遍的な形態でしたが、現代の日本では母親に過度の役割と責任が押し付けられるようになってしまっています。近年では男性の育休など、男性の育児への関わりにも光が当たってきていますが、他の社会の例を見ながら、日本の人々ももっと自分たちを相対化する必要がありそうです。

 

子守をするバカ・ピグミーの男性。

子守をするバカ・ピグミーの男性。(撮影:服部志帆)

 

「ワンオペ育児」は当たり前ではないんですね。
ほかにも子どもの成長については、「社会的学習」が人間の普遍的特性だとされています。

 社会的学習とは、学校教育のような制度化された教示のほかに、遊びのなかで他人を観察してまねをしたり、競争し合ったり、といったさまざまなインフォーマルな学びを含んだ他者からの学習のことです。

 アカやンガンドゥの子どもたちは、火の起こし方や森の歩き方などの実践から、アカであれば平等主義、ンガンドゥであれば親族関係の秩序といった自分たちの文化に特有の価値や信念まで、生き抜くために必要な知識を年上や同年代の子どもたち、大人たちと遊ぶなかで試行錯誤しながら学んでいきます。

 たとえばお母さんの真似をする「ままごと」は日本でよく知られた遊びですが、ンガンドゥやアカの社会にもあります。ンガンドゥ女性のブロンディーヌは次のように「バナナの赤ちゃん」を一番の思い出として語っています。

 

バナナの葉や他の葉を切って束にして背中に結びつけて,私たちの赤ちゃん,バナナの赤ちゃんにしたんだ! 最高の思い出は,母が私の背中にバナナの赤ちゃんを付けてくれたこと.それから,棒とバナナの葉をとって,傘のようにしてくれたから,私は赤ちゃんをもつ大人の女のようだった.(本書、p.117)

 

 このように子どもたちは身近なものを遊びの道具にして、「ごっこ遊び」の中で家事や育児にふれていきます。このような社会的学習は人類に固有のものだと言われています。もちろん、学ぶ内容は文化によって異なりますが、アカもンガンドゥも日本の子どもたちも、社会的学習によって集団の中で生きていくための基盤を身に着けていくことは同じなのです。

 日本では、教育といえば学校教育ばかりが想像されがちですが、小規模社会における学びのあり方を丁寧に見ていくことで、人間の学びのユニークさや可能性について考えることができます。

 

バナナの偽茎をおんぶする少女。(撮影:四方篝)

 

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『アフリカの森の女たち―文化・進化・発達の人類学』

ボニー・ヒューレット(著)/服部志帆、大石高典、戸田美佳子(訳)
好評発売中

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