『言語教師教育論』『言語景観から考える日本の言語環境』が『凡人社通信』で紹介されました

凡人社発行の新刊案内『凡人社通信』No.352/2022年3月15日号に『言語教師教育論―境界なき時代の「知る・分析する・認識する・為す・見る」教師』(B・クマラヴァディヴェル 著/南浦涼介、瀬尾匡輝、田嶋美砂子 訳)、『言語景観から考える日本の言語環境―方言・多言語・日本語教育』(ダニエル・ロング、斎藤敬太 著)の図書紹介が掲載されました。

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仁平ふくみ『もうひとつの風景 フアン・ルルフォの創作と技法』「はじめに」を公開します

『もうひとつの風景 フアン・ルルフォの創作と技法』(仁平ふくみ 著)の刊行にあわせて、本書の「はじめに」を公開します。

はじめに

 

ある風景 あるいは新しいメキシコの風景を作り上げること
『フアン・ルルフォの創作ノート』

 

 

 

メキシコで生まれ没した作家フアン・ルルフォ(Juan Rulfo, 1917-1986)が創作のためにノートに綴ったメモからは、それまで人々に意識されていなかった風景、あるいは誰も経験したことがない風景描写を、自らのことばによって立ち上がらせようという野心をうかがうことができる。

ルルフォは自身の代表作『ペドロ・パラモ』について「この小説の中心人物は村です。多くの批評家は、それがペドロ・パラモだと思っているようですが、実際のところそれは村です」と述べている[Sommers 1974a: 19]。場所、その時間の経過による変化、そこで営まれる人々の暮らしが、彼の興味の対象であった。ルルフォはこの小説において、実際に存在している土地をモデルにしつつコマラという架空の村を創造した。そして「この村は死んでいて、登場人物でもあります。雰囲気、光、壁、聞こえる声、そのようなものがこの人物を形成しているのです」と語っている [Anónimo 1983: 1]。ルルフォの創作態度の根底には、場所や風景を描くことは、それと呼応した人々の暮らしや思いを提示することとつながっているという考えがありそうだ。

ルルフォは特に短篇集『燃える平原』(El Llano en llamas, 1953)と中篇小説『ペドロ・パラモ』(Pedro Páramo, 1955)によって文学史上に名を残した作家である。ルルフォの作品は、当時は文学的題材として注目されていなかったメキシコのさびれた村を舞台としたこと、登場人物たちの声が聞こえてくるかのような台詞、死者の語り、断片で構成される小説の形式などによって、のちのメキシコやラテンアメリカ文学の趨勢に大きな影響を与えた。

ルルフォが描いた作品の多くは、彼が生まれ、幼少期を過ごしたハリスコ州南部をモデルとしている。彼が作品を発表した一九五〇年代当時、国家の歴史や文化の形成に重要とはみなされていない、ある特定の地域を描くことは珍しく、かなりのインパクトがあった。

日本の五倍以上の面積を持つ広大なメキシコは、アメリカ合衆国との国境付近に広がる砂漠、首都メキシコシティのある中央高原、カリブ海岸や太平洋岸、密林が広がるユカタン半島など、多様な地理的環境を有する。また、スペイン人の到来以前からいくつもの先住民文化が花ひらいた国でもある。アステカの首都でもあったメキシコシティは植民地時代は副王領ヌエバ・エスパーニャの中心であり、人や文化の往来が盛んな場であった。十九世紀以降はヨーロッパ諸国ともさまざまな形で関わりながら、多くの亡命者も受け入れたコスモポリスであった。ハリスコ州はメキシコの中西部に位置し太平洋にも面しており、現在ではメキシコ第二の都市グアダラハラがある。とはいえ、ルルフォが描いたようなハリスコの地方の田舎町が、文学作品のモデルとして大きな注目を集めることは少なかった。ルルフォは、生まれ育った地域をこう説明している。

 

それは荒野です。あそこにはかつて肥沃で生産力があった土地が何ヘクタールにもわたって続いています。いまでは完全に失われてしまいましたが。存在していた村々は、住民たちが暮らしていけないので放棄されてしまいました。[Anónimo 1983: 1

 

荒廃した土地とその地の過去の豊かな緑が重なり合うこのイメージは、『ペドロ・パラモ』の基底音となっている。幼少期を過ごし、しかしそのあと暮らすことのなかった地への意識がルルフォの創作に決定的な影響を与えた。ルルフォは自分の幼少期のすべての時間が『ペドロ・パラモ』と関係していると語る。

 

幼少期は、人間の中に最も残るものだと思います。私には自分がいた村々の思い出がありますが、はっきりしたものではないのです。それらの場所にはほとんど行かなかったし、ただ表面的にしか知らなかったのです。[Anónimo 1983: 2

 

成人したのちルルフォはメキシコ史の資料や年代記を読み、ハリスコの歴史についても知識をたくわえてゆく。子どもとして経験し感じたものの背景を知り、また関わりのある歴史的出来事や騒乱を客観的に位置づけようとしたのだろうか。この経験と記憶、そしてのちに得た知識とに裏打ちされた思考によって生まれたのがルルフォの作品であると言えよう。

実際の場所や出来事をモデルとしていても、作中で語られる土地の情景は、単なる記録にとどまらない相貌を見せる。この矛盾しているようにも思われる創作の方法について、ルルフォ自身は迷いながらもこう説明している。

 

どうするとはっきりするでしょうか……。現実はそこにあって、私はそれを知っている。それについての知識も持っている。でも、現実について書くときには、私はそれを想像してみなくてはならないのです。想像しながら、もういちど練り直すのです。ですから多くの場合、私が書くのは想像したものを通してであって、現実とはまったく似ていないものになるのです。[Anónimo 1983: 1

 

表立って作品にはあらわれていないとしても、土地の歴史への彼の認識は創作に反映されている。ルルフォは作品の中に自身の記憶や想像の中に存在する風景を構築しようとし、さらにその中に、その地に積み重ねられた過去の歴史的文脈も透かしてみせた。彼の作品はどこかに実在する場所の忠実な記録ではなく、多層な声や過去への回想、会話が織りなす独自の創作であり、それでいながらかつてあった実在の場所の雰囲気を伝えるものである。

ここで、ルルフォの幼少期が苛酷なものであったことにも触れておく必要があるだろう。幼少期の記憶の風景の中にある「死」や「暴力」といったものが作品に否応なく入りこんでくるからである。ルルフォは実際に起きた出来事―そこには彼自身の父親の殺害も含まれている―を書きかえる形で、場所が経てきた過去の記録を行っている。インタビューでルルフォはこのように語っている。

 

私はとても苦しい、とても厳しい少年時代を過ごしました。完全に破壊された場所で、あるひとつの家族が、いともたやすく崩壊したのです。私の父、母に始まり、父のすべての兄弟さえも殺されたのです。そのとき私は荒廃した地域に住んでいました。人間的な荒廃というだけではなく、地理的にも荒れていました。こんにちまで、これらすべての理由が何なのか説明できていません。革命のせいにはできません。それよりもっと古からの、運命的な、不合理なものなのです。[Sommers 1974a: 20

 

実はこのルルフォの発言には事実とは異なる点も混じっているのだが、それはここではおいておくとして、注目したいのは、説明の際に、ルルフォが場所と一族の運命を関連させて考えているということである。この逃れられない宿命のような一族の崩壊と荒廃した風景とを交わらせるといった、人間と場所を重ねる感性の表出は、多くのルルフォ作品に見てとることができる。また、のちに論じていくように、ルルフォは作家というものは自分が知る地域を表現していると考えていた。ルルフォが誰も書いたことがない風景を創出しようとしたとき、その風景とはそこに住む人々や彼の記憶を通じてのものである。ルルフォの作品には実在するメキシコの具体的な地名や、モデルが推測できる場所が多く使用されている。

また、留意しておきたいのは、ルルフォは物理的にも精神的にも安住の地を持たない人々を描いたことである。作品に登場するのは一つの土地に古くから根づく伝統的な綿々と続く生ではなく、ある地にたどり着き、また去ってゆく、あるいはいつかは去ってゆくであろう人々、移動する人間の姿である。それと同時に、逆説的ではあるが、この人々が置かれた状況は一過性のものではなく、さまざまな歴史の局面で現れてくる人々の祖型のような普遍性をも帯びる。ここにルルフォ作品がそののちの時代にも、また別の場所でもアクチュアルなものとして読まれる理由があるだろう。ルルフォが書いた場所は、人々の移ろいも刻印しておくものであったと言える。彼は、一見するとなにもなく、目印や名称によって喚起されるものが多くはない乾いた自然やさびれた村に、幾層にも積み重なった過去を見、またそれをことばで表現した。

本書の興味の対象は、ルルフォ作品における場所とその場所が経てきた歴史、またその語り方である。それはこの作家の年代記をはじめとした記録というものへの憧れ、作品における話しことばと書きことばのもつれた関係を考えずに論じることは難しい。

ルルフォはそれまでのメキシコ文学において描写されてこなかった農民、革命に参加した一兵士、寒村に暮らす人々の声を拾いあげたとされる。彼の作品の多くでモノローグや一人称の語りが用いられ、さらにそれらの多くは誰のためでもない語り、あるいは表現せずにはいられない自分のための語りなのである。この作家は人々の声に耳を傾け、かつそれを自分で語り直し記述された文字として残すことに、特別な感性を持っていた。それらは田舎の人々の話し方のスタイルをそのまま忠実に書き取っただけのものではなく、文学的な工夫を凝らしたものであった。彼の文学作品は現実から出発し、実在する場所や実際に起きた出来事をふまえながらも独自の世界を創り上げた。本書はわずかにでもこの過程を明らかにしようとする試みである。ルルフォの短篇や小説をはじめとした創作、それ以外のテクストや同時代の文壇の状況や他の作家の作品や歴史記録も参照しながら、ルルフォが時間や登場人物までもを含みこんだ風景を立ち上げようとした手法の特徴を分析してゆきたい。

本書は大きく四部に分かれる。それぞれのキーワードは「権力」、「場所の表象」、「実際に起きた出来事のフィクション化」、「語りの技法」である。それぞれで、彼が風景や場所から立ち上がり層を成す繰り返される出来事や暴力の過去を、一つの物語、一つの描写に凝縮して託そうとした技法とその成熟や工夫を扱う。ルルフォが持っていたのは過去を幻視する能力、場所の過去を想起し文学として再創造する能力であったことをさまざまな側面から検証する。

 

参考文献

ANÓNIMO.“Revela Rulfo el proceso de creación de sus personajes”, Excélsior, 14 de agosto, 1983, 1-2. (初出 El Ornitorrinco, Bs. As.)

SOMMERS, JOSEPH.  “Los muertos no tienen tiempo ni espacio (un diálogo con Juan Rulfo)”, en La narrativa de Juan Rulfo. Interpretaciones críticas. Joseph Sommers (antología, introd. y notas), Secretaría de Educación Pública, 1974a, pp. 17-22. (初出La Cultura en México, suplemento de ¡Siempre!, núm. 1051, 1973.)

 

(ウェブ公開に際して、一部表記を書籍から変更しています)

 

『学問としてのダンスの歴史的変容』の書評が『図書新聞』に掲載されました

『図書新聞』第3534号/2022年3月12日号に、木場裕紀著『学問としてのダンスの歴史的変容―ウィスコンシン大学マディソン校のダンスの一〇〇年』の書評が掲載されました。評者は呉宮百合香氏(ダンス研究、早稲田大学)です。「世界の先駆けとなったダンス専攻の葛藤と戦略 未来を見据えた思考と議論のきっかけをもたらす一冊」

村山恒夫著『新宿書房往来記』への弊社代表三浦の書評が『週刊読書人』に掲載されました

『週刊読書人』第3429号/2022年2月25日号に、村山恒夫著『新宿書房往来記』(港の人、2021年)への弊社代表・三浦衛の書評が掲載されました。「本づくりに明滅する人の群れ 新宿書房五〇年のクロニクルの輝き」

『新宿書房往来記』の詳細は、下記ウェブサイトよりご覧になれます。

新宿書房往来記

『外国につながる児童生徒の教育と社会的包摂』の書評が『図書新聞』に掲載されました

『図書新聞』第3532号(2022年2月26日号)に、柿原豪著『外国につながる児童生徒の教育と社会的包摂―日本とニュージーランドの比較にもとづく学校教育の制度イノベーション』の書評が掲載されました。評者は奥田久春先生(三重大学)です。「日本語教育の現状と課題を明らかにしつつ、ニュージーランドでの英語教育と比較することで知見を整理し、学校教育の制度イノベーションに向けて提言を行う」

『スペイン語語源辞典』『英米人名語源小辞典』『エスノメソドロジーの可能性』電子書籍を配信開始しました

『スペイン語語源辞典』(太田強正 著)、『英米人名語源小辞典』(エリック・パートリッジ 著、吉見昭德 編訳)、『エスノメソドロジーの可能性―社会学者の足跡をたどる』(椎野信雄 著)の電子書籍を配信開始しました。Amazon Kindle、楽天Kobo、Google Playブックスなどの各書店でお求めになれます。

『〈障害者〉として社会に参加する』の書評が『コミュニケーション障害学』に掲載されました

『コミュニケーション障害学』Vol.38 No.3(コミュニケーション障害学会編/2021年12月)に、三谷雅純著『〈障害者〉として社会に参加する―生涯学習施設で行うあらゆる人の才能を生かす試み』の書評が掲載されました。評者は津田英二先生(神戸大学)です。「障害者の生涯学習を考える出発点として、たいへん重要な前提が提示されている」

『日系インドネシア人のエスノグラフィ』まえがき

『日系インドネシア人のエスノグラフィ―紡がれる日系人意識』(伊藤雅俊 著)の刊行にあわせて、本書の「まえがき」を公開します。

 

 

 

 

 

 

ヒロコ:ニセイの顔は日本人のよう、サンセイはインドネシア人のようね。でもヨンセイになるとまた日本人の顔に戻るみたい。
ワユニ:不思議よね。
ヒロコ:えー、不思議よね。
ワユニ:遺伝子がそうさせるのかしら。
ヒロコ:きっと、そうね。

(2010年6月16日)

 

 本書で言う日系インドネシア人とは、太平洋戦争時にインドネシア各地に派兵され、終戦後に何らかの理由や自らの意思によって帰国せず、インドネシア独立に関与し、さらに同国独立後に帰国を選択しなかった残留日本兵(日系一世)及びその子孫(日系二世以降)のことである。

 日系インドネシア人は一世の時代から、広大な島嶼国家インドネシアの中でもスマトラ島とジャワ島の二島に集中している。本書の主要な舞台となるのはスマトラ島北スマトラ州の州都メダンであるが、スマトラ島最北端に位置するアチェ州や日本で就労する日系人に関する記述もある。

 日系インドネシア人一世はインドネシア人女性と結婚し、現地文化・社会に生きたため、二世以降の日系インドネシア人は日本文化または日系文化と呼べるような文化・慣習をほとんど維持していない。というよりかはむしろ、日系一世から二世へほとんど継承されてこなかった。加えて、この残留日本兵を先祖とする日系二世から四世までの総数はインドネシアの総人口およそ2億7000万人の0.01%にあたる2万7000人にも達しないだけでなく、日系人は同国において一つの民族集団として扱われていないため、その人数は人口統計にも表れない。同国において文化的・社会的・歴史的にあまり認知されていない人々であると言えよう。

 それでも、日系インドネシア人は現に存在している。ある日系二世は、父親の写真を筆者に見せてくれ「(軍服の首元につけられたバッジを指さして)これがインドネシア国軍のバッジです」と誇らしげな表情をする。ある日系二世は、深夜遅くまでサッカーワールドカップの日本代表チームを応援し、日本が敗戦を喫した際にはテレビの前で悔し涙を流す。また、ある日系二世は東日本大震災の翌朝から、瞼を腫らせたまま仲間の家々を回り募金活動に奔走する。ある日系三世はモーターバイクの車体の右側にインドネシア国旗、左側に日本国旗のステッカーを貼りつけている。日系インドネシア人は皆で集まると必ずと言ってよいほど、日系一世が存命だった頃の思い出話や日本の時事問題等の話をする。

 冒頭の会話はワユニ宅に数組の日系人家族が集まった際の、日系二世女性二人の何気ない談話の一部である。この日はちょうどヒロコが生まれて間もない孫・日系四世を連れてきていた。なぜこのようなことを行ったり話したりするのだろうか。理由は単純である。日系インドネシア人であるからだ。

 それでは、日系インドネシア人は、何をもって「私(私たち)は日系インドネシア人である」と自らを同定しているのだろうか。つまり、彼らの日系人意識(エスニシティあるいはエスニック・アイデンティティと言い表せるもの)の根底にあるものは何なのであろうか。彼らはそれをどのようにして維持したり、強化したりしてきたのだろうか。本書では、北スマトラ州出身の日系インドネシア人を研究対象として上述の問いを複眼的視点から考究する。

 

本書の構成

 本書は序章、本論第1章から第11章、終章で構成される。そして本論は三部構成となっている。

 第1部 日系インドネシア人一世とオラン・ジュパンでは、まずスマトラ島における日系一世の概数、結婚、宗教、職業などについて詳述し、日系人の集住地域や多民族性といった諸特徴を把握する(第1章)。次に、日系人の扶助組織である福祉友の会メダン支部が設立される1979年以前に、日系一世がスマトラ島各地で結成した小規模な日本人会や、日系一世個々人間で培ってきた強固なつながりを母体として、その延長線上に日系二世の交友関係が成り立っていたことを明らかにする(第2章)。続いて、北スマトラ州に生きた日系インドネシア人一世がどのようにしてオラン・ジュパン(日系一世らは周りのインドネシア人からインドネシア語で日本人を意味するオラン・ジュパンと呼ばれていた)と見なされるようになったのか、その経緯を他の民族集団からのジュパンという範疇化に焦点をあてて考察する(第3章)。

 第2部より記述の対象が日系インドネシア人二世・三世となる。第2部 日系インドネシア人二・三世の日系人意識は、第4章から第8章までで構成される。第4章では、北スマトラ州で実施したフィールドワークより得られた、日系インドネシア人二・三世計120人の基本情報(職業、出生地、居住地など)に、聞き取り調査や文献資料の情報を加えて、日系人及び日系コミュニティを量的な側面から把握し、諸特色を示す。第5章では、フィールドワークで収集した情報と福祉友の会発行の『月報』及び『会報』を基に、当該地域に居住する日系インドネシア人を統括する福祉友の会メダン支部の役割を探る。

 福祉友の会メダン支部が設立されたのは1979年、日系人の渡日就労が開始されたのは1990年のことであった。第6章では、この二つの出来事がスマトラ北部における日系インドネシア人同士に出会いの場所を提供し、彼らの交友関係を形成・拡大させてきたことを明らかにする。第7章では、日系インドネシア人のインドネシアにおける日本軍政期の歴史的評価と日系二世の日本との交流のあり方を紹介し、日系人意識や日系人らしさを探る。第8章では、オラン・ジュパン、日系インドネシア人一世と生活をしていた日系二・三世は家庭内でどのような日本文化に触れていたのか具述する。また、オラン・ジュパンはどのような日本的影響を日系二・三世に及ぼしたのかを示す。

 第3部よりフィールドがインドネシアから日本へ移る。第3部 日系インドネシア人の渡日就労と日本での生活世界は、第9章から第11章までで構成される。まず、1990年12月に開始されたスマトラ北部出身の日系インドネシア人による渡日現象の全体像を示す(第9章)。次に、1990年代中葉に出現した日系インドネシア人のスマトラ北部と日本の各就労地域とを結ぶ親族や友人を基盤とした人的ネットワークについて論じ、それが彼らの日本への移動や日本での職探しなどをスムーズにさせてきたことを明示する(第10章)。最後に、愛知県小牧市とその周辺で就労している日系インドネシア人の基本情報及び彼らの社会的紐帯のあり方を報告する。また、同地域において2005年9月に日系インドネシア人及びインドネシア人技能実習生によって結成された自助組織の活動や性格を示す(第11章)。

 

(ウェブ公開に際して、一部表記を書籍から変更しています)

【特別寄稿】ルイーズ・グリュックの詩をどう読むか――『アヴェルノ』翻訳を終えて(訳者:江田孝臣)

2020年にノーベル文学賞を受賞したアメリカの女性詩人 ルイーズ・グリュック。このたびその第10詩集『アヴェルノ』(春風社、2022年)が刊行されたことに合わせ、訳者で現代アメリカ詩研究者である江田孝臣氏に解題を寄稿していただきました。以下にその全文を掲載します。

『アヴェルノ』
ルイーズ・グリュック(著)/江田孝臣(訳)

本書はLouise Glück, Averno (New York: Farrar, Straus and Giroux, 2006)の全訳。
底本には2007年出版のペーパーバック版を用いた。

 

 

ノーベル文学賞受賞

 ルイーズ・グリュック(Louise Glück)が2020年のノーベル文学賞を受賞したことは、アメリカでも驚きをもって受けとめられたが、その時点までにピュリッツァー賞、ボーリンゲン賞、全米図書賞など、国内の主要な文学賞を総なめにしていた。1994年から1998年までヴァーモント州のステイト・ポエット(州代表詩人)を、また2003年から2004年まで第十二代合衆国桂冠詩人(名誉職)を務めた。大学は卒業していないが、無名時代から各地の大学で創作を教えている。詩人としては寡作な方であるが、その詩業に対してこれまでにいくつもの大学から名誉博士号が贈られている。1971年から長くヴァーモント州に住んでいたが、現在はマサチューセッツ州ケンブリッジの在住。二回の離婚歴がある白人中産階級の異性愛者。息子が一人いる(ノア)。

 

祖父、両親

 グリュックは、1943年4月22日、ニューヨーク市に生まれ、郊外のロングアイランド(ウッドミア Woodmere)で育った。祖父はハンガリー系ユダヤ人の食料品店経営者だった。この祖父については、店の土地がロックフェラー家の買収対象になったとき、対価をつり上げることなく適正価格で売ったという逸話が家に伝わっている。両親とも文学好きで、父は一時作家を志望したが、結局ビジネスの世界に入った。日本製の医療用メスを改良して、オフィス・家庭用の精密カッター(X-acto knife)を開発し、成功を収めた。両親は一時期、仕事のため日本に滞在したこともある。グリュックには妹(テレーズ Tereze)がいるが、すぐ上には生後九日で死んだ姉がいる。グリュック作品中では、しばしば彼女自身の魂の声と重ねられる重要な存在である。

 グリュックの母は、猛勉強の末に、アメリカ屈指の名門女子大学ウェルズリー・カレッジ(マサチューセッツ州)に入学したが、卒業すると、この時代の中産階級の女性の常として、迷いもなく結婚し家庭に入り、料理が得意な主婦となった。仕事を持つことはまったく考えなかったが、精力あふれる女性だった。当然ながらというべきか、母親としてきわめて教育熱心で、娘に常に高い目標を与えた。学校のテストで98点取っても、「どうして100点取らないの」と言うたぐいの母親だった。おかげでネガティブなものの見方が身についた。たとえば、今でも朗読会の壇上に立つと、埋まっている席より、空席の方に目が行ってしまうという。したがって、謙遜からではなく、ファンが多いとか評価が高いという実感はないらしい。人から、詩人としての「あなたの世評は高い」などと言われると、なんだか自分が「万人に分かるように希釈した詩」を書いているようで、厭になるという。この発言には彼女の反骨精神の一端がのぞいている。

 七歳の時、家族でパリにひと夏滞在した。親愛の姉の自殺が原因で、抑鬱に苦しむ父親の転地療養が目的だった。グリュックと妹は修道院付属の学校に通わされた。担当の修道女は、両親との約束に反して、ユダヤ人姉妹をキリスト教に改宗させようとしたが、四歳の妹はともかく、グリュックはキリスト像の前で首を垂れることを拒んだ。

 

愛読した詩人たち

 きわめて早熟で、父親の影響下に幼い頃からシェイクスピア、イギリス・ロマン派、ギリシア神話に親しんだ。二十世紀の詩人ではT・S・エリオット、W・B・イェイツ、エズラ・パウンド、そしてリルケを愛読した。イギリス・ロマン派ではとりわけウィリアム・ブレイク(William Blake)を好んだらしく、いま生きているどんな人に褒められるよりも、ブレイクが天国から降りて来て、「ルイーズ、よくやったね」(“Louise, you did a very good job.”)と言われたい、と語っている。この発言は、ブレイクの難解きわまる幻想叙事詩『ミルトン』(Milton, 1810)のなかで、天国から地上に戻って来たジョン・ミルトン(叙事詩『失楽園』[The Paradise Lost, 1667]の作者)とブレイクが交わす対話を踏まえていると思われるが、ブレイクを愛読しているというのは、グリュックという詩人を理解する上で、重要なヒントになり得るように思われる。どちらも独自の神話を創造する詩人である。

ウィリアム・ブレイクによる『失楽園』の挿絵
(Illustration to Milton’s Paradise Lost, William Blake, 1807)

 

詩人としての姿勢

 アメリカでは「ポエット poet」を自称する人が少なくないが、あるインタビューによればグリュックは「ライター writer」(もの書き)という呼称を好むという。「ポエット」は到達すべき目標であって職業名ではないという。また別のところでは、詩を書いているときはポエットだが、出来上がってしまえばもうポエットではない、とも言っている。

 グリュックは詩を音読することも、人から読み聴かされるのも好まない。従って自作の朗読会にも積極的ではない。当然、自作の解説も好まない。朗読もけっして上手くない。公開の朗読会で聴いてもらうのではなく、一人静かに読んでほしいという。読者が、いかに繊細に、いかに深く自分の詩に反応してくれるかが重要であって、朗読会の聴衆を増やそうなどという考えは馬鹿げている、とも言っている。古風で詩人らしい詩人であるが、一方で、時代の風潮に敢えて背を向ける反骨が、ここにも感じられる。

 また、過去の自作を読み返すこともしない(これは、ひとつには過去に書いた詩を一言一句記憶しているためでもある)。詩風は一作ごとに大きく異なる。同じことを繰り返すくらいなら、沈黙し続ける方がましだ、と公言している。つねに新しい詩を求めて試行錯誤を繰り返している。出版社の要望に応えて、毎年詩集を出すような詩人ではない。

 あるインタビューで、詩作の過程について具体的に語っている。短い場合には、一冊の詩集をひと夏で書き上げたこともある。創作意欲が亢進し集中力が高まると、詩句が頭に浮かぶたびに時間と場所を選ばず書き留める。そのために睡眠や生活のリズムが狂い、書き上げた後に、ひどい疲労感を伴う心身症に苦しめられることもあるという。一作完成させてしまうと、しばらくは何も書かない時期もある。グリュック自身、これを「自発的沈黙」と呼び肯定的に捉えている。しかし、書きたくてもまったく書けずに苦しむこともめずらしくないらしい。